【連載第32回】《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》「身体拘縮のある青年が“音楽のリズムで笑った”場面」
記事:内山遼太(READING LIFE公認ライター)
※一部フィクションを含みます。
身体が固まっていても、心はリズムに揺れる——そんなことが本当にあるのだと、Dさん(仮名・20代)が教えてくれた。重度の身体拘縮があり、表情もほとんど変わらなかった彼が、ある日、音楽が流れた瞬間に口元をほころばせた。それは一瞬のことだった。でも私には、その一瞬が、何週間もの時間より雄弁に見えた。拘縮では縛れない自由が、確かにそこにあった。
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Dさんと初めて会ったとき、私は正直なことを言えば、戸惑った。
20代の青年が、車椅子の上で全身を固めるようにして座っていた。両腕は胸の前で曲がったまま、首は少し前に傾いて、表情は読み取りにくかった。重度の脳性麻痺による身体拘縮。生まれたときからその身体で、ずっと生きてきた人だった。
戸惑いは、Dさんに対してではなかった。
自分に対してだった。
「私は、この人に何ができるのだろう」
作業療法士の仕事は、よく「機能を回復させること」だと思われている。
実際、そういう側面は確かにある。手が動くようにする。歩けるようにする。日常の動作ができるようにする。そういう訓練を、私たちは日々行っている。
でもDさんの場合、「動かす」という方向性だけでは、何かが足りなかった。
拘縮の身体に無理な力をかけることは、かえって痛みや苦痛を生む。生まれた頃から続いてきた身体の状態を、劇的に変えることは難しい。では——何をするのか。
私はしばらく、Dさんのそばにいることにした。
動かすことより、まず「知ること」から始めようと思った。どんな時間が好きか。どんな刺激に反応するか。何がこの人の「快」になるのか。
Dさんは言葉を持っていなかった。視線でのコミュニケーションも、安定しなかった。だから私は、ただ観察した。表情の微細な変化。呼吸のリズム。身体がわずかに緩む瞬間。
そういう時間を重ねながら、ある日、担当スタッフからこんな話を聞いた。
「Dさん、音楽が好きかもしれないんです。有線が流れると、なんか違う気がして」
翌日、私はスピーカーを持ってDさんの部屋へ行った。
何をかけようか、少し迷った。クラシック、ポップス、民謡——いろいろ思い浮かべて、結局、明るくテンポのよいポップスを選んだ。深い理由はなかった。ただ、なんとなく、Dさんに合いそうな気がした。
再生ボタンを押した。
最初の数秒、何も変わらなかった。
Dさんは相変わらず、胸の前で腕を固めて、前を向いていた。
でも——10秒ほど経ったとき。
Dさんの肩が、ほんのわずかに、揺れた。
私は息を止めた。見間違いかもしれない。そう思いながら、目を離さなかった。
また、揺れた。
音楽のビートに合わせるように、小さく、でも確かに。
そして——曲が最初のサビに差し掛かったとき、Dさんの口元が、ふっとほどけた。
笑った。
固まっていた表情が、音楽の中で、一瞬やわらかくなった。
私はそのとき、胸の奥で何かが動くのを感じた。
感動、とも違った。もっと静かで、でももっと深いところにある何か。うまく言葉にできないまま、私はただ、Dさんの横に立っていた。
身体は固まっていた。腕は動かなかった。でも——心は、リズムに揺れていた。
拘縮は、身体を縛ることができる。でも、快の感覚までは縛れない。音楽が届く場所まで、縛れない。
Dさんの中に、ちゃんとあった。
喜びが、あった。
それはどんなリハビリの評価スケールにも載っていないものだったけれど、私には確かに見えた。あの口元のほどけ方は、誰がどう見ても、笑いだった。
その日から、音楽はDさんとのセッションに欠かせないものになった。
曲によって反応が違った。テンポが速い曲には肩が揺れた。穏やかな曲では呼吸が深くなった。知っていそうな曲がかかると、目が少し見開かれた。
Dさんは、音楽を通じて、少しずつ「語って」いた。
専門的な話を少しだけさせてほしい。
身体拘縮のある方に対して、いきなり関節を動かすアプローチを行うと、防御反応が働いて筋緊張が高まることがある。身体が「危険」を感じて、さらに固まってしまう。
でも、音楽や心地よい感覚刺激から入ると、身体の緊張が少しほぐれることがある。リラクゼーション反応と呼ばれるもので、筋肉が微細に緩み、関節が動かしやすくなる。
つまり——「楽しい」「気持ちいい」という体験は、単に精神的なものではなく、身体にも直接影響する。
Dさんの場合も、音楽をかけながらストレッチを行うと、音楽なしのときより明らかに身体が柔らかかった。介助する手に伝わる抵抗が、違った。
「快」は、身体をほどく。
それを、Dさんの身体が教えてくれた。
Dさんを担当していた数ヶ月間、私はよく「この仕事が好きだ」と思った。
うまくいかないことの方が多かった。音楽をかけても反応が薄い日もあった。体調が悪くて、部屋に入れない日もあった。「今日は何もできなかった」と感じて帰る日も、少なくなかった。
それでも——あの笑顔が、あった。
音楽が流れた瞬間に、Dさんの口元がほどける。その一瞬が、私の中の何かをほどいた。
作業療法士を続けていると、「何のためにやっているのか」がわからなくなる時期が誰にでも来る。数字で測れる回復が見えないとき。自分のアプローチが正しいのかわからないとき。
そういうとき、私はDさんのことを思い出す。
評価表に載らないものを、見ていいのだと。口元がほどける一瞬が、十分な「答え」になるのだと。
リハビリは、身体を動かすことだけではない。
その人の「快」を探すことも、立派なリハビリだ。
拘縮では縛れない自由を、一緒に見つけること。
それが私の、仕事の核心にあるものだと——Dさんが、教えてくれた。
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❏ライタープロフィール
内山遼太(READING LIFE公認ライター)
千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。
作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に寄り添う支援を続けている。
終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。
現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。
2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。
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