10年後の私へ
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:福乃 玲(ライティング・ゼミ名古屋会場)
「ここ、ママが住んでいた家の近くだよ!」
「へぇ、そうなんだ」
一瞬だけ顔を上げた後、息子はすぐに読みかけの小説に視線を戻した。
私は思わず笑ってしまった。
もっと、「どんなところに住んでたの?」とか、「ママは何してたの?」とか、そういう反応を少しくらい期待していたのだ。
しかし小学二年生の息子にとっては、母親の昔住んでいた場所より、小説の続きの方が大事なのだろう。
私は十年前、広島に住んでいた。
就職試験に合格し、合格の発表と共に電話で告げられた初任地が広島だった。
なりたかった仕事だったので、勤務地はどこでも良かった。
ただ、面接で「希望勤務地はありますか?」と聞かれ、京都が好きだった私は、「街中に川のあるところがいいです」と答えた記憶がある。
今思うと意味が分からない。
面接官もよく採用してくれたなぁと思う。
でももしかしたら、私の希望を少しだけ汲んでくれたのかもしれない。
大学院を卒業するまで、私はほとんど関西で暮らしていた。だから、関西以外で生活するのは広島が初めてだった。
知らない街。
知らない職場。
初めての仕事。
遅くまで残業をし、コンビニのおにぎりを買って帰るだけの日もあった。
眠る前には、「ちゃんとやれているのだろうか」と、何度も考えていた。
その後、私は転勤先で夫と出会い、結婚し、二人の子どもを授かった。
当時はまさか、私が夫と二人の子どもを連れて、戻ってくる未来が待っているなんて、想像もしていなかった。
だから今回の旅行は、単なる観光ではなかった。
息子の小学校の代休を利用した、念願の広島旅行。
私にとっては、「昔住んでいた街に、家族を連れて行く旅行」だった。
旅行当日、新幹線で広島駅に着き、まず宮島へ向かった。
宮島へ向かう電車の途中に、私が昔住んでいた駅がある。
だから乗車前から、「もうすぐママが住んでた駅を通るからね!」と、夫にも息子にも伝えていた。
そして、その駅が近づいてきた。
駅前の古い駐輪場。
家族が集う、大型ショッピングセンター。
毎朝見ていた景色。
十年ぶりなのに、不思議なくらい身体が覚えている。
しかし、ふと横を見ると、娘がベビーカーで寝たことをいいことに、夫は文庫本を開いて小説を読んでいた。
息子も同じく読書中。
誰も景色を見ていない。
なんなら、私だけが窓の外を舐めるように追いかけ、感動している。
私はなんだかおかしくなって、心の中で小さく笑った。
この街は私にとっては「青春の街」でも、夫や子どもたちにとっては、ただの“通過する駅”なのだ。
宮島では鹿と戯れ、厳島神社へ行き、予約までしていた名物のあなごめしを食べた。
息子は鹿を撫で回し、それでいて食べ歩きもしたがるので、ずっと手洗い場を探していた。
娘は途中でガチャガチャの牡蠣のミニチュアを手に入れ、それをずっと握りしめていた。
私は娘がそれをどこかで落とさないか気が気でなかった。
「旅行」というより、移動型育児だった。
本当は夜、繁華街をゆっくり歩きたかった。
でも子どもたちの足は限界だったらしく、夕食に広島焼きを堪能した後、その日は早々にホテルへ戻った。
翌朝、私は家族より早く目が覚めた。
時計を見ると朝五時。
せっかくだし、一人で散歩に行くことにした。
まだどの店も開いていない。
シャッターの閉まった商店街を歩きながら、「この店で服を買っていたな」とか、「ここで飲み歩いていたな」と思い出す。
でも、不思議なことに意外と土地勘がない。
四年も住んでいたはずなのに、「あれ、こんな場所あったっけ?」となる。
広島美術館の前も通った。面白そうな展示をしているのに、私は当時そこへ行った記憶がない。
もっと広島を楽しめばよかった。
そう思った瞬間、ふと気づいた。
違うのだ。
当時の私は、そんな余裕がなかった。
初めての職場。
覚えることばかりの日々。
遠距離恋愛だった当時の彼とのやり取り。
決して苦労していたわけではないし、寧ろ恵まれた環境だったと思う。でも、その頃の私は、その頃の私なりに毎日必死だった。
時間は今よりずっとあったはずなのに、心には余白がなかった。
今だったら、目的もなく街を歩くことを「贅沢」と思える。でも当時の私は、「何もしない時間」に耐えられなかったのだと思う。
だから、「もっと楽しめばよかった」というのは少し違う。あの頃は、あれで精一杯だったのだ。
そんなことを考えながら歩いていると、夫からLINEが来た。
「子どもたち、起きたよ〜」
一気に現実へ戻される。
今日は原爆ドームへ行って、昼は汁なし担々麺を食べる予定だ。
昨日、厳島神社で派手に濡らした息子のサンダルは乾いただろうか。
汁なし担々麺は辛いけど、0辛なら子どもたちも食べられるだろうか。
急に脳内が忙しくなる。
でも、そんな毎日も悪くない。
十年前の私は、一人でこの街を歩いていた。
仕事に必死になって、飲み歩いて、恋愛をして、
それなりに自由でそれなりに楽しかった。
でも、未来のことはまだ何も分からなかった。
でも今の私は、一緒に旅をする家族がいる。
昔のように、仕事だけで毎日が埋まることもなくなった。家族とご飯を食べたり、本を読んだり、こうして旅をしたりする時間を、今の私はちゃんと好きだと思える。
私は、この旅をどんなふうに思い出すのだろう。
十年の間に、息子と娘はどんな景色を見て、どんな人と出会い、どんな失敗をして、どんな思い出を抱えているのだろう。
いつか、また家族で広島を旅したい。
その時私は、きっとまた言うのだ。
「ここ、みんなで来たところだよ」
ホテルへ戻る途中、コンビニで子どもたちの朝ごはんを買おうと思った。
たぶん息子は、また本を読みながら食べるのだろう。
十年前、この街で暮らしていた私は、未来の自分を知らなかった。
そして今の私は、十年後の自分をまだ知らない。
広島の朝の風は、少しも変わっていなかった。
【終わり】
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