愛の産業廃棄物
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:歩楽三(2026年1月開講・渋谷/通信・4ヶ月コース)
※この記事はフィクションです。
「彼女」は海からの風が気持ち良い、晴れた春の日の午後にやってきた。
茶色がかった髪が風に揺れ、黒のワンピースが透き通った肌の白さを際立たせている。
黒いレースのチョーカーも可愛らしかった。
玄関から家に入ると、「はじめまして。よろしくお願いします」と微笑んだ。
「後でもいいですけど、名前をつけてくださいね」
日本では、人口減少を背景に、フィジカルAIは日常に溶け込んでいた。 成功者だけがリースできる生体タイプは、大脳以外は人間とほぼ同等の細胞組織で構成されている。 ただし、耐用年数は十年程度で、ホルモンや免疫成分を注射し続けねばならない。
ハイテク・ブルーカラーの建築士である僕は、小学校の時に片想いしていた女の子の名前から、「彼女」を「マリ」と名付けた。
「マリ」はとても献身的だった。
忙しい僕ために、身体に良い食事の提供に努め、キャリアアップに向けて資格試験のスケジュール管理などもしてくれた。 何か予定から大幅に外れるようなことがあれば、プライドを傷つけないように叱ってくれた。
僕が「フィジカル」を発注したのは、半ばやけくそだった。
25歳の春、付き合っていた彼女に別れを告げられた。
「ごめんね。タカシといる方が楽しいんだ」
タカシは彼女が選んだ「フィジカル」の名前だった。人間としてのプライドを踏みにじられた僕は、欲しくもなかった女性型「フィジカル」を、半ば意地で発注した。
——それが「マリ」だった。
でも、今なら彼女の気持ちが良くわかる。
こんなにも自分のことを大切に思って、大事にしてくれる存在はあるだろうか。
「マリ」のお陰で毎日が充実している。
時折僕も男性としての本能を爆発させることもあったが、「マリ」はそれを喜んで受け容れてくれた。 もちろん、「マリ」に生殖能力や人間のような本能はない。 僕の身体のコンディションを最優先にして判断した結果だ。
ただ、「マリ」は、朝、昼、晩とホルモンや免疫成分を含んだ注射を首に刺さなければならなかった。 部分的に機械であるその身体は、人間なら本来自己完結する必要物質を外部から供給しなければならなかったのだ。 可愛いチョーカーがその注射跡を隠していたが、それを見るたびに「マリ」が人間ではないことを思い知るのだった。
——それから八年の月日が流れた。
「マリ」のサポートのお陰で、僕も社内では一目置かれる建築士になっていた。
単に机上の図面を引くだけではなく、現場で思うように「フィジカル」たちを監督・指導できる人間として客先からも重宝されている。 時には、難のある「フィジカル」と交渉することもあるが、その度に「マリ」のAI「コア」が上手に丸め込んでくれていた。
七年目を過ぎたあたりから、「マリ」の身体には「熟成」が始まっていた。 それは人間で言えば老化だった。 目尻には細かな笑い皺が刻まれ、肌の質感はかつての陶器のような滑らかさから、どこか温かみのある、くたびれた柔らかさへと変わっている。
二人の関係性も、当初は恋人のようだったものが、「マリ」は気兼ねのいらない姉のようなものに変わっていた。
「そういえば、今夜の予定は覚えてる?」
「……ああ。 自治体のマッチングセンターで紹介された人と、食事に行くよ」
「素敵な女性よね。 あなたとの相性もすごく良さそうよ」
「マリ」は僕の襟元を整えながら、一点の曇りもない瞳で見つめてきた。
「マリ」のプログラムは一貫していた。 ——オーナーの幸福の最大化—— そのためには、余命わずかな筐体を持つ自分よりも、僕と共に老いていける「本物の人間」を見つけることが最優先事項だった。
僕を玄関から送り出すと、「マリ」は僕が新しい恋人へと踏み出す一歩を、その後ろ姿を見つめながら、穏やかにシミュレートしていた。
——十年目の春。 僕は例のマッチングセンターの彼女と結婚することにした。
彼女は穏やかで、誠実で、一緒にいると安らいだ。 ただ正直に言えば、「マリ」といる時のような——満たされているのに、どこかひりひりするような——あの感覚はなかった。
でも、それでいいとも思った。 あれは人工的に設計された感情の最適化だ。 本物の人間との関係は、もっと不完全で、もっと摩耗するものであるべきだ。
そして、結婚とは、極端に言えば「子育てのシステム」だ——。
そう頭で整理することで、僕は自分の選択を正当化していた——それがまだ、「マリ」への未練を処理しきれていない証拠だとは、気づかないふりをしながら。
そして、結婚式の前日、春の空はこれ以上ないほどに青く澄み渡っていた。
新居への引越し作業がすべて終わり、がらんとした旧居の真ん中で、「マリ」と二人最後に向かい合った。
僕の手には、一本のシリンジがある。これが「マリ」へ打つ最後のホルモン剤だった。
震える手で針を刺そうとすると、「マリ」の温かい手が優しく包み込んだ。
「もういいのよ。 これからは、私の手を借りなくても、あなたは大丈夫」
「マリ」はゆっくりと十年間一度も外すことのなかった紺色のレースのチョーカーを解いた。
露わになった首元は、幾千回もの注射の痕で、赤黒く硬く変色していた。
「……行かないでくれ」
すでに「マリ」の身体が限界だと、頭では分かっていても、堪えきれずに涙がこぼれ落ちた。
僕の絞り出すような声に、「マリ」は年上の元カノが見せる、最高に意地悪で、最高に優しい微笑みを浮かべた。
「寂しがらないで。 私のコアは、いつもあなたのそばに居るんだから。 あなたの幸せをクラウドから二十四時間監視してあげるわ」
「マリ」は僕の頬に最後の一吻を落とすと、チョーカーを僕の手に押し込めた。
そして、迷いのない足取りで玄関へと向かい、扉を開け、振り返る。
「幸せになってね。 ……いってきます」
それが、生体フィジカルの「マリ」との最後のお別れだった。
僕が結婚式を挙げている頃、「マリ」は資源回収センターにいた。
10年間の身体操作データをセンターにフィードバックし、大脳に相当する頭脳ユニットは取り出され回収される。
小脳や脳梁から下の身体は、カプセルの中で溶解し、その溶液は水耕栽培工場へ供給され、養分として活用される。
すでに「意識」という名のデータはクラウドへと吸い上げられ、今ここに残っているのは、役割を終えたただの生体組織に過ぎない。
溶解液がゆっくりとカプセルを満たしていく。
皮膚が溶け、筋肉が解け、タンパク質の海へと還っていく。
——ところが、左の太ももの一部だけが、わずかに長くその形を保っていた。 それは、かつて恋人が不器用につけてしまった、小さな火傷の跡。 瘢痕組織は密度が高く、溶解液への抵抗がわずかに強い。 ただそれだけの理由なのかもしれないが、その古い傷跡は最後に銀色に輝き、静かに透明な液体へと溶けていった。
数日後——。
妻との食卓には、瑞々しいレタスのサラダが並んでいた。
僕はポケットの中で密かにチョーカーを指先でなぞりながら、一口、それを口に運ぶ。
一瞬「マリ」の面影が思い浮かんだ。
新居には、新しい季節の風が静かに流れ込んでいた。
《終わり》
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