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人生はいつもプランB《週刊READING LIFE Vol.359「あのとき、別の選択をしていたら」》


 

 

 

 

*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事:歩楽三(2026年5月開講 新・ライターズ倶楽部)

 

振り返ってみれば、僕の人生はいつもプランBだった。

 

「プランB」とは、最初に立てた計画がうまくいかなかった時の代替案のことである。

ハリウッド映画などでは、主人公が追い詰められた場面で「プランBだ!」などと言いながら、たいてい何かを爆破したり、無茶な突撃をしたりする。

もっとも、ああいう主人公たちは、たぶん事前にプランBなど用意していない。

要するに「しくじっちゃったけど、別ルートで何とかします」ということだ。

 

 

幼い頃から体が小さくて体力もなかった僕は、喧嘩の強い格好良いヒーローに憧れてはいたが、幼心にそんな風になるのは到底無理だと悟った。——早々にプランBである。

そんなある日、幼稚園児の僕は、畳に腹ばいになりながら、新聞の折り込み広告に映っていたアメリカンフットボールをする人の絵を、トレーシングペーパーの上からなぞって模写していた。すると、結構上手に写しとれて、自分もものすごく嬉しかったし、両親からも大層褒められたことをぼんやり覚えている。それからは落書きをするのが大好きになったようだ。

 

小学校に入ると、漫画のストーリーやキャラクター案を描き溜めるようになった。そして、教室の後ろに貼る学級新聞に、自分のキャラクターを描き始めた。4年生の時に西遊記の孫悟空や沙悟浄、八戒の息子世代が活躍する漫画を描いたが、これがクラスで大ヒットして、描いていると友達が群がってきた。友達からは「漫画家になれなれ」と言われ、本人もまんざらではなかった。

どうやら、その頃から僕は漫画を描くことを自分の「プランA」に置いていたのだと思う。

 

ところが、いい気になって、家でも執筆活動していると、親父が「それを見せてみろ」と僕の漫画を読み始めた。クラスで大ヒットしている漫画だ。きっと親父も唸るに違いないと思っていたところ、「なんだ何にも中身がないじゃないか。最後は毎回新しいキャラクターが出てきて、『続く』ばかりだな。手塚治虫のような中身のある漫画が描けないなら、やめた方がいい」と、小学生相手にとんでもないことを言い出したのだ。

それはそうだ、画用紙を4つに折り畳んで、一週間に1ページを掲載するのだから、どうしたって毎回新しいキャラクターが出てこざるを得ない。それに、小学生と漫画の神様である手塚治虫先生を比較するなんて、あまりにも飛躍しすぎている上に、とんでもなく理不尽だ。

今だったらいくらでも反論できるのだろうが、当時は小学校4年生で、いきなり「ダメ出し」を食らったショックもあって、全く反論できなかった。

もしあの時褒められていたら、また違った展開があったのかもしれないが、それから僕は漫画をなるべく人に見せないようになった。特に大人には——。

 

中学生になってもこっそりと漫画を描き続けた。両親が就寝するまでの間は勉強をしているふりをして(本当に勉強はしていたが)、夜中にキャラクターを思いついてはせっせと描いていたのだ。それこそ情熱をノートに叩きつけて、100冊分は描いただろうか。その頃から、左斜め45度の顔だけでなく、右側や横顔、あるいは老若男女の描き分けなども研究するようになった。結局高校受験では、勉強している「ふり」が功を奏して、県の進学校に紛れ込むことができた。

 

だが、高校生になると、少し様子が変わってくる。周りも子供じみた「漫画家」などという夢を本気にしないし、もっと現実的な大学受験やその先の堅実な職業を考えるのが当たり前のような雰囲気になっていた。夢見がちな僕は、学校の勉強を疎かにして、まだ漫画を描き続けていたが、それでも漫画家になるハードルの高さや、なった後の収入の問題なども気になり始め、加えて、自分の才能が本当に通用するのかも不安になりつつあった。

それに、今でこそ「オタク」は市民権を得ているが、当時はかなり「ヤバい人」扱いで、中途半端に漫画なんか描いているなんてバレると白い目で見られるため、隠れキリシタンのようにひっそりと創作活動をしていた。

そのため、僕は「プランB」として、大学進学を意識するようになっていた。ただ、成績は全くふるわなかったのだが……。

 

ある日、大学受験について親父と話をした時に、なんとか自分の気持ちを絞り出して「漫画家になりたいんだ」と伝えると、かなり核心をついた言葉が返ってきた。

「恐らく、お前くらい絵の上手な奴は吐いて捨てるほどいる。もし漫画家になったとして、学生経験しかない人間に描けるのは、よほどの天才でない限り、学園ものか暴力ものくらいだろう。仮に描けたとしても、それで家族を養ってはいけないんじゃないか」

と、まさに自分が内心思っていたことをそのまま指摘された。

そしてトドメに——大学受験から逃げたいように見える——と心臓をグサリと刺された。

これには本当に何の反論もできなかった。正論すぎるほどの正論である。

結局、僕自身も改めて冷静に考え直し、大学進学という「プランB」へ進むことにした。

やっぱり家庭は持ちたかったし、なにより貧乏は嫌だった。

——でも、抱え続けた夢を放り捨てることはできなかった。

「アスリートなら年齢によって競技ができなくなるだろうが、漫画なら歳をとっても描けるはずだ(その時には描けるものや描きたいものが今とは変わっているかもしれないけれど……)」と考えて、僕は幼い頃からの「プランA」をそっと胸の奥底にしまい込むことにしたのだ。

 

まあ、それで「プランB」の大学受験が上手くいったかというと、全然そんなことはなく、すっかり勉強の方はサボっていたため、結局浪人したし、さらには3年次編入までした。実際のところ「プランC」とか「プランD」くらいの勢いだったが、それでもなんとか東京六大学のうちの一つから卒業することができた。

ただ、この大学受験や3年次編入の経験が、努力する大切さと勉強の面白さを教えてくれたので、価値ある回り道だったと信じている。

そして、当時の就職活動では、出身大学で明確に足切りがあったのだが、編入したことによってその条件をクリアし、一部上場企業に就職できたことは大変なラッキーだった。

その後、その会社でまっとうなサラリーマン人生を歩むことが、僕の新たな「プランA」になったのだった。

 

 

さて、人間は現金なもので、お給料を頂くということになると、結構真面目に仕事に取り組むものだ。地方の現場や営業をしていた1、2年目はまだ学生気分が抜けずにフワフワしていたのだが、その後本社に戻されて責任の重さを感じる仕事を任されると、深夜残業や休日出勤も厭わずに仕事に没頭した。リゲインの「24時間戦えますか」の世界を引きずっていた頃である。

遮二無二働いて、気がついたら会社の中枢で予算を作っていた。

会社で出世間違いなしと目された優秀な上司や先輩たちとの仕事は、最高に刺激的で最高に楽しかった。合宿して会社の中期経営計画の原案を作ったのも素晴らしい経験だった。

その時、僕のサラリーマン人生である「プランA」は盤石なものに思えた。

しかし、会社には「人事異動」というものがある。

長らく中枢にいた僕も、ついに再度営業部門へ異動することになった。

ただ、本人は、いずれまた中枢に戻ってくるものだ、とタカを括っていた。

自分自身の能力を過信し、「数年したらまたこの場所へ戻ってくるのだ」と——。

 

ところが、異動先では厳しい現実が待っていた。

中枢には上澄みの情報しか上がってきてなかったが、その部署の現実は酷いものだった。

あまり表には出されていなかったが、市場に惑わされてあまりに高い仕込みを行ってしまっていたために、商売をすればするほど損失が嵩む構造になっていたのだ。

そして、僕個人にとって決定的に最悪だったのは、その部門の担当役員に嫌われてしまったことだ。性格的にYes Manではないし、人にしっぽを振るのも嫌いな人間なので、盲目的に従うことができず、目を付けられたようだ。

恐らく、自分の実力を過信し過ぎていた僕が、彼の鼻についたということもあるだろう。

あの時もっと役員にゴマをすっておけば、という話もあるだろうが、きっと何度同じ場面にあったとしても、同じ選択をしたのではないかと思う。——反りが合わないのだ。

いずれにしても、その部署で冷飯を食わされることになった。

 

「サラリーマンは敵を作ってはいけない」とよく言われる。

会社という場所は、仕事の能力だけで動いているようで、実際にはかなり繊細な人間関係の上に成り立っている。誰と誰が近いのか。誰の顔を立てるのか。どこまで本音を言っていいのか。そういう見えない糸を読み違えると、思った以上に深く足を取られる。

そんな中で、一度低い評価を得てしまうと、それは次に控えるバランス感覚に長けた評価者たちへも連鎖的に広がっていってしまう。もちろん中枢へ戻るなどというのは、夢のまた夢だ。

そうして僕の「プランA」は突然危機に陥ったのだった。

 

さすがの僕も、密かに「プランB」を用意し始めた。

現状を即座に打開するのは無理だし、下手をすると底に沈んだまま浮き上がれない。

万が一に備えて、経済的自由を得られる手立てを考え始め、また、その部署からなるべく早く異動できるように、比較的話の通じる直属の上司に頼み込んだ。

基本的に「今いる部署から逃げ出したい」というのは、あまり良い印象を与えないので避けたいところではあるが、まさに「逃げるは恥だが役に立つ」である。

だが、晴れて異動した後も、その先の会社人生が「鳴かず飛ばず」になることは容易に予想できた。だから、僕の中で「プランA」がすでに腐臭を放つ一方、「プランB」は引き続き強化され続けていった。

 

 

その「プランB」の中で再び浮上してきたのが、かつてそっと胸の奥底にしまい込んでいた「漫画家」だった。ただし、今回はその意味合いが少し違う。単に漫画家として成功したいということではない(いや、成功はしたいのだが……)。それは僕自身にとっての「自由」と「誇り」の旗印になっていった。

会社組織における不可解な力学や理不尽、それはサラリーマンである以上避けられないことなのかもしれない。

漫画家になるということは、そんな泥沼から自由になり、誇りを持って生きていく象徴的なことだと言えるのではないだろうか。

 

そして、50代も半ばになって、ようやくそのチャンスは訪れた。

それまで密かに形成してきた資産が一定の規模に達したのだ。

一方、いくら漫画家がアスリートではないとはいえ、新しいことを始めるにはギリギリの年代であることも分かっていた。体力も、集中力も、若い頃と同じではない。

だが、若い頃と同じではないからこそ、描けるものもあるのではないか。

そう思うことにした。

ベストと思われるタイミングで、僕はついに早期退職して自由になった。

 

 

思い返せば、あっちでつまずき、こっちで転び、途中で回り道をして、ようやく今に辿り着いた。

予定通りの人生ではなかった。むしろ、予定通りにいかなかったことばかりだった。

けれど、「プランB」の「プランB」の、そのまた先にあったものは、不思議なことに、かつて胸の奥にしまい込んだ「プランA」だった。

 

若い頃の僕が夢見た漫画家と、今の僕がなろうとしている漫画家は、きっと同じではない。だが、それでいいのだと思う。

遠回りした分だけ、描けるものもあるはずだから。

 

僕はいま、漫画家として生きている。

 

《終わり》

 

ライターズプロフィール

歩楽三(ぶらぞう)(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

2026年1月ライティング・ゼミに参加。5月よりライターズ倶楽部参加。

演歌の似合う北国育ち。東京都在住。

長らく勤めた会社を2024年に退職しフリーランスへ転身。

現在は、世田谷近辺の居酒屋をぶらぶら巡っている、遅咲きのゆるゆる漫画家。

割と節操なく、気ままに、エッセイ、SF、ペットものなどの漫画を描いたり文章を書いたりしています。

 

 

 

 

 

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