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【連載第32回】《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》「高次脳機能障害の女性が“手順表”で料理できた記念日」


記事:内山遼太(READING LIFE公認ライター)

 

※一部フィクションを含みます。

 

「順番がわからなくなるんです」——Eさん(仮名・40代)はそう言って、目を伏せた。交通事故による高次脳機能障害。記憶力や注意力には大きな問題がないのに、物事を順序立てて進めることだけが、ひどく難しくなっていた。料理が好きだった彼女が、キッチンに立てなくなって半年。一枚の手順表が、その扉をどう開いたのか。「できない理由」ではなく「できる仕組み」を探すことが、作業療法の本質だと私は思っている。

 

Eさんが初めて私の前で泣いたのは、面談室だった。

 

「先生、私、バカになったんでしょうか」

 

40代の女性が、声を震わせながら言った。事故の前は会社でチームリーダーを務め、家では毎晩家族のために夕食を作っていた人が。

 

私は少し間を置いてから、「バカになったわけじゃないです」と言った。

 

でもその言葉が、Eさんにどこまで届いたかはわからなかった。

 

 

高次脳機能障害は、「見えにくい障害」だと言われる。

 

外見では何も変わっていない。会話もできる。歩ける。笑える。だから周りには「もう治ったんじゃないか」と思われる。でも本人は、日常のあちこちで壁にぶつかり続ける。

 

Eさんの場合、特に困っていたのは「遂行機能」と呼ばれる力だった。

 

目標を立て、手順を組み立て、順番に実行していく——私たちが無意識にやっていることを、脳が担う機能だ。その力が、事故によるダメージで大きく低下していた。

 

料理はその遂行機能を、特にフルに使う作業だ。

 

何を作るか決める。材料を確認する。火をつける順番を考える。茹でながら炒める。時間を管理する。複数の工程を同時に進める——それらを一度に処理しなければならない。

 

Eさんはある朝、味噌汁を作ろうとして、だしを取ったままガスを消すことを忘れた。別の日には、冷蔵庫を開けたまま何を取り出すつもりだったか思い出せなくなった。

 

「もうキッチンに立てない気がする」

 

そう言ったEさんの声は、静かだった。怒りでも嘆きでもなく、ただ静かに、諦めていた。

 

 

 

担当になって最初の数週間、私はEさんと一緒に料理の評価を行った。

 

何ができて、何ができないか。どこでつまずくか。どんな状況で混乱が起きるか。細かく観察して、記録した。

 

そして気づいたのは——Eさんができないのは、「手順を考えること」だった。

 

一つひとつの動作はできる。包丁も使える。火加減も調整できる。材料の名前も、調理法も、ちゃんと知っている。

 

ただ、「次に何をするか」が、頭の中で組み立てられない。

 

だとすれば——頭の中で組み立てなくていい方法を作ればいい。

 

私はそう考えた。

 

 

 

Eさんと一緒に、手順表を作ることにした。

 

Eさんが一番作りたい料理を聞いた。「肉じゃがです」と、少し照れたように言った。「夫が好きで、よく作っていたので」

 

その言葉を聞いて、私は「これだ」と思った。

 

機能訓練のための料理ではなく、夫のための肉じゃが。そこに、Eさんの「戻りたい場所」があった。

 

一緒に手順を書き出した。材料を切る順番。火をつけるタイミング。調味料を入れるタイミング。それを、できるだけ細かく、シンプルな言葉で、A4一枚に収めた。

 

「これを見ながらやれば、頭で考えなくていいんですよ」

 

私が言うと、Eさんはその紙をじっと見た。

 

「こんなことで、できるようになりますか」

 

「やってみましょう」と、私は答えた。

 

 

 

作業療法室の模擬キッチンで、Eさんが手順表を手に持った。

 

最初の一行を読む。材料を並べる。次の行を読む。じゃがいもを切る。また次を読む。

 

ゆっくりだった。手順表と手元を何度も往復しながら、Eさんは一つひとつの工程を、丁寧に進めていった。

 

途中、一度止まった。

 

「あれ、次どこだっけ」と、少し焦った声が出た。

 

「手順表、どこまで終わりましたか」と私が言うと、Eさんは紙に目を落として「ああ、ここか」と言い、また動き出した。

 

そして40分後——肉じゃがができた。

 

Eさんは鍋の中を見て、しばらく黙っていた。

 

「できた」

 

その言葉は、①のAさんを思い出させた。達成感というより、信じられない、という感じの「できた」だった。自分でも予期していなかったような。

 

「味見してみましょう」と私が言うと、Eさんはスプーンで少し口に運んで——「美味しい」と言って、また泣いた。

 

 

 

この体験を通じて、私が改めて確認したことがある。

 

「できない」は、その人の能力の限界ではない場合がある。

 

Eさんの脳は、複数の工程を同時に処理することが難しくなっていた。でも、手順表という「外側の仕組み」がその処理を肩代わりしたとき、Eさんはちゃんと料理ができた。

 

能力が戻ったわけではなかった。でも、できた。

 

これを私たちの世界では「環境調整」と呼ぶ。人を変えるのではなく、環境を変えることで「できる」状態を作り出す考え方だ。

 

障害があっても、工夫があれば「できる」ことがある。その「工夫」を一緒に見つけることが、作業療法士の仕事の根っこにあると私は思っている。

 

Eさんはその後、自宅でも手順表を使って料理を続けた。

 

ある日、「夫に美味しいって言われました」と報告しに来てくれた。

 

その顔は、面談室で泣いていたときとは、まるで別人のように明るかった。

 

「バカになったんじゃないですよね、私」

 

Eさんが言った。

 

今度は、ちゃんと届いた気がした。

 

 

 

この連載を通じて、五人の方の話をしてきた。

 

ズボンを履けたAさん。靴下に手を伸ばしたBさん。目線でYESを伝えたCさん。音楽に笑ったDさん。手順表でキッチンに戻ったEさん。

 

五人に共通しているのは、「再起動スイッチ」が、どこか思いがけない場所にあったということだ。

 

大きな回復の瞬間ではなかった。派手な訓練の成果でもなかった。ズボン一枚、靴下一足、目線ひとつ、音楽の一小節、手順表の一行——そういう小さなものの中に、スイッチはあった。

 

そしてもう一つ。

 

どのケースも、一人では起きなかった。

 

隣に誰かがいた。一緒に探した。諦めずに待った。その「誰かとの時間」が、再起動の条件だったように思う。

 

私はこれからも、その「誰か」であり続けたい。

 

治す側と治された側、両方を経験した作業療法士として——再起動のスイッチを、一緒に探し続けたい。

 

その思いだけは、どんな手順表にも書かなくても、いつも胸の中にある。

 

❏ライタープロフィール

内山遼太(READING LIFE公認ライター)

千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。

作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に寄り添う支援を続けている。

終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。

現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。

2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。

 

 

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