メディアグランプリ

15回書いて、採用4回、1位ゼロ。それでも「戦士」と呼んでください《週刊READING LIFE Vol.358「誇り高き戦士」》


 

 

 

 

*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事:飯田久枝(2026年5月開講 新・ライターズ倶楽部)

 

「私、ピノノワールが一番好きなのよね」

会社の先輩が、グラスを傾けながら言った。レストランで食事をした後、ワインバーで飲み直そうということになった。

私はその言葉に、相槌を打つことしかできなかった。

ピノノワール。

その響きだけが、なぜか胸の奥に残った。意味も分からないのに、忘れられない言葉というものがある。あのときの「ピノノワール」が、まさにそれだった。

人は、なぜ結果の出ない努力を続けられるのだろうか。

たとえば、何年もダイエットを続けているのに、なかなか痩せない人がいる。それでも、その人は明日もスニーカーを履いて走り出す。 たとえば、何度も資格試験に落ちているのに、また同じ参考書を開く人がいる。 たとえば、書いても書いても、評価されない文章を書き続ける人がいる。

外から見ると、不思議に映るかもしれない。 「もう諦めればいいのに」 「向いていないんじゃないか」 そう言いたくなる人もいるだろう。

でも、続けている本人の中には、外からは見えない何かがある。

それは、信念ではない。意地でもない。根性でもない。

「過去に一度、諦めそうになりながら、辞めなかった」その記憶だ。

一度でも、辞めかけた地点から踏みとどまって、何かを成し遂げたことのある人間は、その感触を忘れない。あの、もうダメだと思った瞬間と、それでも翌朝には机に向かっていた自分の姿を、身体の細胞が覚えている。だから、たとえ今が結果の出ない時期だとしても、信じていられる。

今は、まだ途中なだけ。

そう思える人だけが、戦士になれる。

私は今、結果の出ない時期の真ん中にいる。 でも、諦めない。私は戦士だから。

「ピノノワール」の記憶。

当時の私は、ワインの違いと言えば、赤か白か、それくらいしか分からなかった。スーパーで適当に安いものを選ぶか、レストランで店員に「料理に合うものを」とお任せするか。それで十分だと思っていた。

それなのに、なぜあの一言が刺さったのか。

数日後、前の年にソムリエ試験の一次を通過したものの、二次試験の日に出張が重なって受験できなかった友人から連絡が来た。

「今年、もう一度受けるから、一緒に受けない?」

メッセージを見ながら、私は思った。

これは、受けろ、ということだな。

理屈ではなかった。直感が「これは行け」と言っていた。人生には、ときどき、こういう瞬間がある。自分で決めるのではなく、決めさせられる瞬間。

私は、その日のうちに受験を決めた。

飲み仲間にその話をすると、全員が同じ顔をした。

「無理だよ」 「ソムリエの試験、舐めてない?」 「普通は何年か準備するんだよ。最低でも1年は」

誰一人として、応援してくれなかった。

人は何かを始めるとき、たいてい周りから「無理だ」と言われる経験をする。挑戦を始めた者にとって、最初の壁は、自分の能力でも、課題の難しさでもない。周囲の言葉だ。

その言葉に従って引き返す人と、それでも歩き出す人がいる。

ここで、人生は一度分かれる。

無理もない、と私は今になって思う。当時の私は、ピノノワールがブドウの品種であることすら知らなかったのだから。

それでも、私は申し込んだ。 受験票を手にした時は、まだその大変さを知らなかった。

教材が届いた。

段ボール箱を開けて、固まった。

辞書のような厚さのテキストが、私を見上げていた。

ページを開く。文字や地図が、隙間なく詰まっている。世界のワインの産地名、ブドウ品種、土壌、格付け、熟成規定、収穫年。それらが、知らない外国語のように並んでいる。

これを、全部?

私の頭の中で、低い声が響いた。

無理だ。

仲間たちの「無理だよ」は、外から聞こえる音だった。耳を塞げば消すこともできた。けれど、テキストを目の前にして自分の内側から湧き上がってきた「無理だ」は、消せなかった。

何より、私はもともと地理と歴史が大の苦手だった。暗記ものが苦手だった。数学と英語は得意だった。高校の時の10段階の通知表は、数学と英語が9や10、地理と歴史は2や4。

地名、村名、畑の名前、その気候と土壌の特徴、ブドウ品種の名前と特徴、ワインの製造方法の違い、そんなものを全て覚えなければならない。

私には向いていない。

そう、思った。

受験料はまだ無駄にできる金額だった。プライドを捨てて「やっぱり辞めた」と言えば、それで済む話だった。

だが、先輩の声と友人の誘いの言葉が頭をよぎった。

「私、ピノノワールが一番好きなのよね」

「一緒に受験しよう」

やめるのやめた。

ソムリエ試験対策のアプリを携帯に取り込み、時間があれば暗記、暗記、暗記。

辞書のようなテキストは、1日では絶対に消化できない。けれど、毎日10頁ずつなら、進める。3ヶ月後には、それなりの頁数になっているはずだ。

私が選んだのは、アカデミー・デュ・ヴァンというワインスクールだった。

毎週土曜日、合計6時間の講義。朝から夕方まで、ひたすらワインと向き合う。

平日は仕事があったから、勉強時間は限られていた。通勤電車の中でも昼休み中もアプリを開き、産地名、ブドウの品種名を呪文のように唱えた。家に帰れば、テキストを読み、練習問題を解き、テイスティングの練習。1人で何種類ものワインを少しずつ口に含んでは、香りと味の記憶を脳に刻み込んだ。

それでも、平日にはどうしても時間が足りなかった。

すべては、土曜日にかかっていた。

毎週土曜日、私はアカデミー・デュ・ヴァンに通い続けた。6時間。途中で集中力が切れそうになる日もあった。前夜の疲れが残ったまま、ぼんやりと講義を聞いてしまう日もあった。それでも、休まなかった。一度も。

淡々と、日々を過ごし、スクールに通った。

二度目に「もうやめようか」と思ったのは、強い酒のテイスティングのときだ。

二次試験のテイスティングは、ワインだけではなかった。スピリッツやリキュールも対象だった。コニャック、アルマニャック、ラム、テキーラ、グラッパ、カルヴァドス、名前を覚えるだけでも頭が痛くなる、強烈な液体たちが、容赦なく試験範囲に入ってきた。

私は、ワインを飲むのは好きだ。でも、強い酒は好きではない。 そもそも、酒に強い方でもない。

午前中から、アルコール度数40度を超える液体を、舐めるように口に含む。鼻の奥がツンと痛む。喉が熱くなる。胃の奥が、軽く拒絶する。

これ、本当に、覚えなきゃいけないの?

何度、そう思ったか分からない。

ワインなら、好きだから飲める。けれど、強い酒は違う。好きでもないものを、味の違いまで記憶しなければならない。これは「努力」ではなく、「拷問」のような時間に感じた。

それでも、私は舐め続けた。

これも、淡々と続けた。

3ヶ月。

たった3ヶ月で、私はワインの世界の入り口まで辿り着いた。

一次試験の合格通知が届いた。暗記も大変だったが、マークシートの落とし子と呼ばれた私が本領発揮。でも、二次試験のテイスティングはマークシートでは済まされない。筆記試験だ。

そして、二次試験の日。

会場で、数種類のグラスが運ばれてきた。香りを取る。色を見る。口に含む。脳の中で、これまで覚えてきた品種と産地の記憶を、必死で照合する。

試験が終わった後、誘ってくれた友人と答え合わせをした。

「これ、たぶん合っているよね」 「私もそう書いた」

2人で頷き合った。たぶん、受かっている。そう思った。

正式な合格発表があったのは、それから少し後のことだ。合格通知を見て、安堵の一息。

あの地獄から解放された!

そして、言葉にすると陳腐になってしまうが、「諦めなければできる」という、月並みな実感。

合格してから、私の世界は変わった。

正確に言えば、私の資格はソムリエではない。「ワイン・エキスパート」だ。プロのサービスマンが取るソムリエ資格とは別に、愛好家向けに用意されている資格である。試験内容はほぼ同じだ。でも、私は仕事でワインを扱っているわけではないから、エキスパートと名乗っている。

それでも、この資格は私の人生に、確かな彩りを与えてくれた。

ワイン会に呼ばれるようになった。新しい人と出会うようになった。「ワイン・エキスパートを持っています」と言うと、ワインを愛する人たちが声をかけてくれた。彼らとグラスを交わす時間は、私の日常を豊かにしてくれた。

仕事の役には立たない資格。でも、人生の役には立つ資格。

そういうものが、世の中にはあるのだと知った。

そして、今の私はこう言える。

「私、ピノノワールが一番好きなのよね」

あの夜、相槌しか打てなかった私が、同じ言葉を、今は自分の言葉として口にできる。 赤か白かしか分からなかった私が、産地ごとの違いを語れるようになった。ブドウ品種の個性、ヴィンテージの差、合わせる料理を、自分の言葉で語れるようになった。

あの先輩が無意識に発した一言が、私を別の場所まで連れて行ってくれた。

そしてもう1つ、目に見えない財産が、私の中に残った。

「私は辞めなかった」という記憶だ。

2026年5月。

私はまた、新しい挑戦を始めている。

新・ライターズ倶楽部に申し込んだ。書きたい、と思ったからだ。ただ、申し込みは遅れた。講座が5月3日に始まることを、把握していなかったのだ。出遅れた焦りを抱えたまま、なんとか追いつこうとした矢先に、風邪をひいた。

寝込んだ。

第一回の課題、テーマは「どうしても許せないこと」。提出できなかった。〆切は土曜日の23時59分。布団の中で、その時刻を、何もできずに見送った。

出だし不調。

ライティングゼミに通っていた頃のことを思い出した。課題を15回提出した。それなのに、採用されたのはたった4回。当然1位を獲ったことは、一度もなかった。

他の人の作品を読むたびに、落ち込んだ。

この人は、こんなに美しい文章を書ける。 この人は、こんなに面白い構成を考えられる。 それに比べて、私は。

自分には、文才がないのかもしれない。

何度もそう思った。

それでも、私はまた申し込んでいる。性懲りもなく、新・ライターズ倶楽部に。出遅れて、風邪で寝込んで、第一回を落としても、それでも書こうとしている。

なぜか。

記憶があるからだ。

辞書のようなテキストを前に「無理だ」と思ったこと。 舐めたくもない強い酒を、それでも口に含み続けた午前中のこと。 そして、その二度の「やめようか」を乗り越えた先に、合格通知が待っていたことを。

私は知っている。

続けている限り、それは過程だ。 辞めた瞬間に、それは失敗になる。

これは精神論ではない。私自身が、自分の人生で経験した事実だ。

過去の成功体験、それは諦めずに戦い続けた結果なのだ。

ソムリエ試験もその1つ。

毎週土曜日23時59分。新しい締め切りが、私を待っている。

かつての毎週土曜日6時間が、私を1人のワイン・エキスパートにしてくれたように、これからの毎週土曜日が、いつか私を1人のライターにしてくれるのだろう。

だから、私は今夜も書く。

熱を出しても、遅れても、採用されなくても、書く。

これが、戦士の戦い方だ。 戦士というのは、勝ち続ける人のことではない。

結果が出ない日々の中でも、今この瞬間が「失敗」ではなく「過程」だと、信じ続けられる人のことだ。

あなたにも、きっとあるはずだ。 一度、辞めかけて、それでも辞めなかった経験が。

それは、試験合格でなくてもいい。 受験でも、スポーツでも、恋愛でも、子育てでも、闘病でも、何でもいい。 誰かに「無理だ」と言われ、自分でも「もう無理だ」と思いながら、それでも翌朝、机に向かった経験。

その記憶は、消えない。 細胞の中に、染み込んでいる。

もし今、あなたが結果の出ない時期にいるなら、思い出してほしい。

失敗なのか、過程なのかを。

その記憶は、もう1度あなたを戦士にしてくれる。

ピノノワールが、私をそうしてくれたように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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