「『ぱいぱい』だけ平仮名でお願いします」——人生で一番キツかった電話の話
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:國分厚彦 (ライティング・ゼミ、2026年5月開講・渋谷、4ヶ月コース)
「……先生がそこまで言うなら、わかりました。うちで一度診ます」
午前3時。救急当直中の俺は、胸痛で運ばれてきた中年男性を前に、循環器の先生へ電話をかけていた。
心電図にも採血にも、少し嫌な異常がある。診てもらう必要があったが、相手は院内でも塩対応で有名な先生だった。
何度も切られかけ、何度も詰められ、それでも粘って、ようやく診察につなげた。
カルテを書き終えた俺は、大きく息を吐いた。
医者になってから、難しい場面で、気の重い電話をする場面は何度もある。
しかし、学生時代のあの電話に比べれば、まだマシだ。
俺は、医局に向かう道中で、学生時代の出来事に思いを馳せ、独り笑いを浮かべた。
「今日の電話も、『ぱいぱいゲーム会』の予約に比べればマシだったな」
今から10年前の話である。
当時、俺は医学部5年生だった。
夏休み、北海道の片田舎で健診補助の泊まり込みバイトをしていた。夜は連日の飲み会で、引っ込み思案でコミュ障気味だった俺も、6年生でメンバーの中では最上級生だったR先輩をはじめ、妙にノリのいいメンバーたちのおかげで、少しずつ輪に入れるようになっていた。
ある日、バイト終わりに数人で酒を買い出しに行った。
車内では、今夜どんな飲み会ゲームをするかという、極めて不毛な話で盛り上がっていた。
その流れで俺は、ふと「ぱにぱにゲーム」というリズム系の飲み会ゲームがやりたいと思い、提案してみた。
「Rさん、今夜ぱにぱにゲームやりません?」
その瞬間、車内が静まり返った。
さっきまで騒いでいた全員が、一斉に俺を見た。何か聞いてはいけないものを聞いたような顔をしている。
不安になった俺は、恐る恐る確認した。
「あの……ぱにぱにゲームですよ?」
固まっていたR先輩が、ようやく口を開いた。
「あ、あぁ、ぱにぱにゲームね。いや、ぶんこくの滑舌が悪すぎて『ぱいぱいゲーム』に聞こえたわ!」
その一言で、車内は爆笑に包まれた。
普通ならそこで終わる話である。
しかし、R先輩は違った。
「面白そうだな。戻ったら『ぱいぱいゲーム』を作ってみよう」
こうして宿舎に戻った俺たちは、男子メンバー5、6人で謎の飲み会ゲームを作り始めた。完成した「ぱいぱいゲーム」は、ルール自体はほぼ元のゲームと同じだったが、掛け声だけが最悪になった。しかし、ゲームとしては異常に盛り上がった。
その日から、バイト終わりの飲み会の主役は「ぱいぱいゲーム」になった。
盛り上がる様を見ながら、内心俺は複雑だった。
自分の発案した遊びが皆を楽しませているのは嬉しい。だが、名前が名前である。せめて内輪だけで終わってほしいと願っていた。
しかし、R先輩は「ぱいぱいゲーム」を内輪の飲み会ネタで終わらせてくれなかった。
バイトが終わったあとも、R先輩はあちこちの飲み会で「ぱいぱいゲーム」を広め続けた。俺は、知らないところで「開発者」とされ、深夜に呼び出されることもあった。
正直嫌だった。しかし、R先輩があまりにも楽しそうで、ゲームがきっかけで仲良くなれた人もいたので、だんだん細かいことはどうでもよくなっていった。
そんな日々が続くうちに、やがてR先輩にも卒業試験の時期が近づいてきた。
自分の所属していた医学部では、卒業試験が終わると国家試験に向けた勉強が本格化する。つまり、学生として馬鹿をやれる時間が、もう終わりかけていた。
そんな頃、R先輩がTwitterで「ぱいぱいゲーム会」の開催を告知していた。すでに何人かが参加のリプライを送っている。ただ、詳細が一切書いていなかった。
俺は心配になってリプライを送った。
「Rさん、幹事どうするんすか?」
返事はすぐ来た。
「幹事はぶんこくがやってよ」
気を遣ったことを後悔した。
しかし、短い期間とはいえ、R先輩には世話になった。最後くらい、送り出してあげたい気持ちもあった。ただ、あの名前を口に出すことだけは避けたい。
「予約名は自分の名前でいいですか?」
「馬鹿野郎、そんなの『ぱいぱいゲーム会』に決まってるだろ」
さらに店も指定された。
Web予約のできる店ではなく、原則、電話予約のみの、R先輩が懇意にしている居酒屋だった。
電話予約はとても苦手だったが、R先輩が言うならしょうがない。
俺は腹を括った。
せめて電話に出る店員さんが男性でありますように。
そう祈りながら、震える指で番号を押した。
3コールの後、店員さんが出た。
「はい、こちら○○です」
女性の声だった。
しかも若い。声の明るさからして、俺が最も苦手とするタイプの人だった。
俺は平静を装い、日時、人数、コースの有無をできるだけ淡々と伝えた。事務的に話すことで、自分の心に一種の補助呪文をかけていった。
そして、ついにその時が来た。
「ご予約のお名前をお願いします」
俺は生唾を飲み込んだ。
ここまで来たら言うしかない。
「席の名前は、『ぱいぱいゲーム会』でお願いします!」
言い切った瞬間、世界から時間と温度が消えた。
俺にも店員さんにも凍てつく波動がかかり、今まで必死に重ねてきた心理的な補助呪文はすべて消え去った。
沈黙。
長い沈黙だった。
受話器の向こうから、店員さんが引いている気配だけが、痛いほど伝わってくる。
そして、彼女は重い口を開いた。
「……全部カタカナですか?」
カタカナ?!
予想外の一言だった。
しかも、最後に少し笑っていた。
こちらの羞恥心を理解したうえで、さらに踏み込んできている。只者ではない。
痛恨の一撃を食らい、俺の心は折れそうになった。
もう全部カタカナでいいじゃないか。さっさと要求を呑んで、早くこの電話を終わらせたい。そう思った。
だが、その時、これまでのことが頭をよぎった。
聞き間違いから生まれたゲーム。
空になった酒瓶。
R先輩の楽しそうな顔。
知らない飲み会に呼び出され、気づけば増えていた人間関係。
そして、皆の共通認識として、「ぱいぱい」はすべて平仮名だった。
ここで俺が「カタカナでいいです」と言ってしまったら、あのくだらなくて愛おしい時間を裏切るような気がした。
俺はスマホを握り直し、ラスボスへ必殺技を放つような気持ちで、会心の一言を放った。
「『ぱいぱい』だけ、平仮名でお願いします!!」
その後の記憶は曖昧だ。
店員さんが予約内容を確認し、「これ以上話したくない」という気配をにじませながら電話を切ったことだけ覚えている。
しかし、俺は勝った。
会がどう盛り上がったかは、正直あまり覚えていない。
ただ、疲れ果てたR先輩が学生最後の「ぱいぱいゲーム」に楽しそうに興じ、帰り際に酔い潰れながら「ぶんこく、ありがとう」と言ってくれたことだけは覚えている。
社会人になると、やりたくない電話をしなければならない場面は何度もある。
他科の医師に相談する時。看護師に無理をお願いする時。指導医に報告する時。気が重くて、胃が縮むような瞬間は今でもある。
それでも、俺は思う。
あの電話を乗り切った事実が、今の俺を支えている。
「席の名前は、ぱいぱいゲーム会でお願いします!」
「『ぱいぱい』だけ、平仮名でお願いします!!」
たぶん俺はこれからも、気の重い電話をする時、あの一言に少しだけ背中を押される。
《終わり》
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