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道を残すひと《週刊READING LIFE Vol.361「フリー」》


 

 

 

 

*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事:雨宮さよ(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

 

同じ景色を見ているのに、一緒に歩く人によって、まるで違う旅になることがある。そのことを、先月歩いたみちのく潮風トレイルで実感した。

 

みちのく潮風トレイルとは八戸市から相馬市までの沿岸を結ぶ、全長1000kmの長距離自然歩道だ。今回歩いたのは、その一部にあたる石巻エリア。網地島と田代島を巡る2日間のツアーだった。

 

昨年の暮れ、私は台湾古道トレイルを歩く予定だった。案内人は、日本で唯一のプロハイカーの斉藤正史さん。私自身も以前から興味を持っていた。

 

ところが出発を前にして、私は台湾行きを諦めることになった。その年の秋、新しい社員が入社した。これで新しい体制で2026年を迎えられると思っていた矢先だった。その社員から辞めたいと相談された。

 

うちの会社は、人柄を重視して採用している。だからこそ、きつかった。私の人を見る目が間違っていたのだろうか。採用基準そのものが間違っていたのだろうか。そんな否定的な考えばかりが浮かんできた。

 

社員たちも動揺していた。経営者である私が、数日会社を空けられる状況ではなかった。旅のことを考える余裕はなかった。

 

だから台湾行きを諦めたときは本当にがっかりだった。楽しみにしていたのは、単に海外のトレイルを歩きたかったからではない。

 

起業して十年。会社を続けていると、予定通りにいかないことばかりだ。採用もうまくいくこともあれば、うまくいかないこともある。人を信じて任せた結果、期待した形にならないこともある。それでも前に進むしかない。

 

そんな毎日の中で、数日だけ仕事から離れて歩く時間は、私にとって大切な区切りでもあった。だから台湾行きを諦めたときは、旅行をキャンセルしたというより、自分へのご褒美を取り上げられたような気持ちだった。

 

もちろん経営者としての判断は間違っていなかったと思う。あのとき数日間でも会社を空ける選択はできなかった。それでも、出発日が近づくにつれて、みんなと一緒に歩くはずだった時間のことを考えてしまった。

 

当時のそんな私を、山友たちは心から残念がってくれた。そして帰国後、二人は口をそろえて言った。「本当に良いトレイルだった」「また一緒に歩こう」と言ってくれた。その言葉に救われた気がした。

 

同時に、なにがそんなに良かったのだろうという疑問も残った。景色が良かったのか。食事が良かったのか。それとも別の何かがあったのか。

 

だから半年後に斉藤さんと歩けると決まったときは、素直にうれしかった。ようやく答え合わせができる。そんな気持ちだった。

 

旅の始まりは東京から東北新幹線で仙台へ。仙台で在来線に乗り換える。集合場所の石巻へ向かいながらの車中で、この2日間はどんな旅になるのか楽しみでそわそわしていた。

 

みちのく潮風トレイルに興味はあった。けれど正直に言えば、それ以上に斉藤さんという人に興味があった。日本で唯一のプロハイカー。アメリカ三大ロングトレイルを踏破し、日本人で二人目のトリプルクラウナー。歩いた距離は2万5千キロを超えるという。

 

数字だけ見れば、もはや別世界の人である。なぜ歩くことを仕事にしたのだろう。なぜそこまで歩き続けるのだろう。そして、なぜ友人たちは、あんなに楽しそうに話していたのだろう。興味は尽きない。

 

石巻駅で集合し、軽く自己紹介を済ませ、その日の宿がある網地島へ渡った。網地島の港は小さくて可愛らしい。その港から宿へ向かう途中だった。

 

斉藤さんがふと網地島の地図の前で立ち止まった。なぜ立ち止まったのか分からなかった。最初は斉藤さんが何を見ているのか分からなかった。

 

近づいて地図の下のほうを見ると、腰丈くらいの草に埋もれかけたトレイルの標識があった。斉藤さんはちょっとかがんで、草を勢いよくかき分ける。

 

草をはらって標識が見えるようになると、何事もなかったように島の地図を指しながら案内をしてくれた。

 

「人が歩かないと、すぐ埋もれてしまうんです」

 

離島だから管理する人もなかなか来られないのだという。その横顔が少し寂しそうに見えた。その姿が妙に印象に残った。これはたぶん私の仕事柄なのだと思う。

 

私は遺品整理の仕事をしている。故人の遺したものを残そうとする人。守ろうとする人。受け継いで続けようとする人。それはその人にしかわからない何かを大切にする気持ちなのだと思う。

 

そういう人には、どうしても目が向いてしまう。標識を見えるようにしていた斉藤さんの姿には、この道への愛情のようなものが感じられた。誰かが気にかけ続けるからこそ、トレイルは維持されているのだろう。

 

その日の宿は、網地島にある潮美荘だった。到着した時間はちょうど夕陽がきれいな頃だった。海が柔らかく光っている。お客さんは私たちだけだった。宿には猫が何匹もいて、みんなの人気者になっていた。

 

夕陽を眺めながら、ウッドデッキで思い思いのアルコールでリラックスする私たち。私は網地島の梅酒をソーダで飲んでいた。梅の爽やかな香りと炭酸が喉を刺す刺激を楽しんだ。

 

参加者の半数が昨年末の台湾古道トレイルに参加していたからだろうか。参加者同士もリラックスして会話を楽しんでいた。

 

夕食が始まる。刺身。煮魚。塩でいただく天ぷら……。どれも驚くほどおいしい。ひとしきり刺身を食べて、そのあと日本酒へ移る。

 

食事がおいしすぎて、みんな夢中になって食べていた。不思議と仕事の話をする人もいなかった。スマホを見ている人もいなかった。人は本当に美味しいものを食べているとき、黙る。

 

みんながようやく落ち着いたころ、斉藤さんがパソコンを開いた。

 

これまで歩いてきたトレイルの紹介や、次に挑戦するロングトレイルの話だった。写真や動画を見せながら説明してくれる。斉藤さんはどんなアウトドアの装備を持っていくのだろう。みんな興味津々でモニターを見つめたり、質問したりしていた。

 

そして、どこを歩くのか。どんな景色があるのか。それだけではない。その土地の歴史や文化、人との出会いの話も出てくる。不思議だった。ロングトレイルの話を聞いているはずなのに、私の頭に残ったのは距離や日数ではなかった。

 

この人は距離の話をしているのではない。歩くことで出会うものの話をしているのだ。

 

翌朝の朝食も素晴らしかった。鮭。岩のり。だし巻き卵。コーヒー。どれもおいしい。朝から幸せな気持ちになった。フェリーの時間に合わせて、かなり慌ただしく朝食を平らげ、港へ向かう。

 

私たちはフェリーで田代島へ向かった。猫島として有名な島である。港へ着くと、さっそく猫が現れるかと思ったら、そうではなかった。どうやら集まっている場所があるらしい。そこには道路に寝転ぶ猫や、私たちを迎えるように歩いてくる猫がいた。

 

猫神社にいた黒猫は、私の指をペロペロとなめてくれた。島では猫を地域猫として世話をしているため、田代島のルールとして島外からやってきた観光客はエサを与えてはいけないことになっている。

 

初対面の私の指や手の甲をなめてくれる猫に、もっていたアンパンをちぎってあげたくなったが、ぐっと我慢した。

 

しばらく島のトレイルに沿って歩いていくと、高い場所に出た。そこから見下ろすと、エメラルドグリーンの海が広がっている。岩場に砕ける白い波も見えた。

 

昔は畑だったのだろうかと思うような地形。猫の形をしたロッジやテント場。確かに魅力的な島だった。それでも、あとになって何度も思い出したのは別のことだった。

 

観光客の多くは港と猫神社を往復するルートを歩く。しかし、みちのく潮風トレイルのルートへ入ると人がほとんどいない。島を独占して歩いているような感覚だった。静かだった。驚くほど静かだった。

 

港にもどる道の途中、その静けさの中で、斉藤さんがある場所を指差した。それは東日本大震災の津波浸水表示だった。もし一人で歩いていたら、おそらく見逃していただろう。

 

私は立ち止まった。穏やかな海が見える。猫もいる。静かな島だ。けれど、あの日は全く違う景色だったのだ。

 

想像してみる。しかし、当時の恐怖までは分からない。高台へ逃げると言っても、この小さな島だ。どれほど恐ろしかっただろうか。

 

東北の人たちは、その後も何度も地震を経験している。この島の人たちも、津波への不安を抱えながら、それでも島で暮らし続けている。それが生活というものなのかもしれない。

 

そのあとも歩きながら、斉藤さんは島の話をしてくれた。暮らしの話。漁業の話。震災の話。地形の話。私たちは景色を見ながら耳を傾ける。不思議な感覚だった。

 

観光しているというより、その土地と少しずつ知り合いになっていくような感覚だった。猫を見るだけなら、一人でもできる。景色を見るだけなら、写真でも見られる。

 

たとえば、一人で島を歩いていたら、私はきっと海の色や猫の数ばかり見ていたと思う。エメラルドグリーンの海はきれいだったし、岩場に砕ける波も美しかった。猫神社の黒猫もかわいかった。それだけでも十分に楽しい旅だっただろう。

 

けれど、その日は少し違った。昔は畑だったのかもしれないと思った斜面を見れば、そこに人が暮らしていた時間を想像した。静かな海を見れば、漁に出る人たちの生活を思った。津波浸水表示を見たあとは、何気なく見ていた集落の景色さえ違って見えた。

 

同じ景色なのに、見えているものが少しずつ増えていく。それは知識が増えたというより、その土地との距離が少し縮まっていく感覚に近かった。

 

だから私は、観光地を訪れたというより、その島と少しだけ知り合いになれたような気がしたのである。

 

その土地がどんな時間を積み重ねてきたのかは、誰かに教えてもらわなければ見えない。斉藤さんが案内しているのは景色ではない。景色の見方なのだ。

 

歩き終えた頃だった。ふと、山友たちがあんなに楽しそうに話していた理由が分かった気がした。私は山を歩くことは好きだった。でも、こんな歩き方は知らなかった。

 

考えてみれば、私はこれまで歩くことに目的を求めてきた。登山もそうだった。山頂(ゴール)に立つこと。無事に下山すること。次の目的地へ進むこと。歩くことは、いつもどこかへ向かうための手段だった。

 

もちろんそれは今でも好きだ。けれど今回の2日間は少し違った。どこかへ急いでいるわけではない。標高差のあまりない道を歩きながら立ち止まる。景色を見る。話を聞く。また歩く。

 

気がつけば、到着することよりも、その途中の時間そのものを味わっていた。それが新鮮だった。だから心がほどけてリラックスできたのかもしれない。

 

景色が良いからだけではない。食事がおいしいからだけでもない。もちろん、それらも大きな魅力だ。でも、それだけではなかった。

 

その土地を歩く。その土地のものを食べる。その土地の酒を飲む。その土地の歴史や暮らしに触れる。そしてまた歩く。

 

今回味わった楽しさは全く違っていた。観光とも違う。歩きながら土地と知り合っていく旅だった。だから、また次も歩きたくなる。そんな時間の積み重ねが、ロングトレイルの魅力なのかもしれない。

 

帰りのフェリーで海を眺めながら、私は網地島で見た光景を思い出していた。草に埋もれた標識だった。人が歩かなければ、道は消える。斉藤さんはそう言っていた。

 

あのときは単なる標識の話だと思っていた。でも今は少し違う。道だけではないのだと思う。

 

人が語らなければ、記憶も消える。人が守らなければ、文化も消える。人が続けなければ、道そのものがなくなってしまう。

 

斉藤さんは歩いているだけではなかった。トレイル文化を残そうとしていた。その土地の記憶を伝えようとしていた。だからあの標識に立ち止まったのだ。

 

考えてみれば、私の仕事も似ているのかもしれない。遺品整理の現場では、物そのものよりも、その背景にある思い出や暮らしの話を聞くことが多い。

 

古いアルバム一冊にも、その家族にしか分からない歴史がある。長年使われた家具にも、その家で積み重ねられてきた時間がある。けれど、それを語る人がいなくなれば、物はただの物になってしまう。

 

だから私は、現場で出会う人たちの話に耳を傾けるようになった。残したいと思う気持ちは、人それぞれ違う。でも、その気持ちがあるからこそ、人は何かを未来へつないでいくのだと思う。

 

私も、100年続く会社でありたいと思って起業した。100年後も必要とされるサービスでありたいとも思っている。斉藤さんとは業界も、やっていることも違う。それでも、どこか通じるものを感じた。

 

残したい人がいるから、道は残る。残したい人がいるから、文化は残る。そして残したい人がいるから、未来につながっていく。

 

みちのく潮風トレイルの意味は、歩いて初めてわかる。少なくとも私はそうだった。そして案内人と歩く意味も、少し分かった気がする。また続きを歩きたい。

 

今度はどんな景色が見えるのだろう。今からそんなことを考えている。≪おわり≫

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