メディアグランプリ

世界中の人に被爆の実相をお知らせしたい。と言う野望。


 

 

 

 

*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事:ひーまま(2026年ライティング1年完全習得パスポート)

 

2026年7月22日水曜日である。

 

今日は私が「被爆体験伝承者」に認定されてから6回目の定期講話の日だった。

今日の広島は朝から真夏日で、たぶん35度は越えたと感じた。

まさに酷暑日である。

 

1945年8月6日

広島に人類史上初の原子爆弾が投下された日。

 

あの日の気温を調べてみると、あの日の朝8時15分は約26,7度、その日の最高気温は31,5度だったという。

 

あの日は朝から快晴で、優しい風が吹いていた。

夜中の警戒警報も朝には解除されて、広島市民は朝ごはんをたべたり、洗濯をほしたり、仕事に出かけたり、中学生たちは学徒動員でそれぞれの場所で朝の集いを始めたところだった。

 

そんな当たり前の日常が始まっていたころ、広島市の上空にはたった3機の米軍機B-29爆撃機(エノラゲイ)がたった一発の原子爆弾(通称:リトルボーイ)を搭載してきたのだった。

 

エノラゲイは事前に何十回も実は原子爆弾と同じ形の爆弾を投下する練習を行っていた。

それも日本の各地で。標的に狂いなく投下する練習だ。

 

広島市のT字型の橋(相生橋)に向かって正確に投下するためである。なぜならば、広島市は新たに開発された原子爆弾の威力をはっきりと実験するために最適の地形だったから。

 

山に囲まれた広島の、真ん中T字型の相生橋の上空で原子爆弾は炸裂させなければならなかったのだ。どれほどの威力と被害があるのかを確認するために。

 

その日、広島市は晴天で、微風の最高の条件が重なったのだった。

観測のためだ。そのことは様々な資料から、戦後81年を迎える最近でははっきりと確認することができる。

 

原子爆弾が相生橋を300mほどずれた「島病院」の上空600メートルで炸裂した。

核実験が成功してから、まだ20日しかたっていなかった。

科学者たちは核爆発の実験を見て、この爆弾を人間の上に落としてはならないと確信しただろう。

 

その科学者の逡巡は映画「オッペンハイマー」に描かれていた。

原子爆弾の開発と実戦での使用決定はかけ離れていたのか?

 

人類として検証しなければならないことではないのか?

と被爆の体験を伝承するたびに思うのだ。

 

気温が31、5度の広島は、瞬間3000度から4000度に達したと言われている。

 

私は、被爆体験の伝承者となるために、多くの被爆者の話を聞いてきたが、その皆さんが口をそろえて言うことは「あの日の広島は地獄だった」という言葉である。

 

「ホンマにひどかった」

「口で言い表す言葉はないんよ」

「今でもはっきりとあの日の事を思い出す。絶対に忘れられん」

 

被爆者の実際の体験を、現在語り部としてお話される人は約30人ほどだ、昨年も数名の方が体調面で講話は難しくなっているのが実情である。

 

現在広島市内で、被爆者健康手帳を持っている人の数は3万人から4万人。あの日の体験を話すことがどれほど難しいのか、その数を見ても明らかだ。

 

81年過ぎた今日、広島市の平和公園では8月6日の「広島原爆の日」として「平和祈念式典」のために大きなテントが重機を使って設置の作業が進められていた。

 

8月6日の暑さをしのぐためだ。

 

今日はそんな作業が進められている平和公園を歩きながら、私が9歳(小学校3年生)の時の夏休みの8月6日を思い出していた。

 

おじいちゃんが夏休みに大阪から広島へ遊びに来てくれ

 

「ひろみ、明日は何の日かしっとるか?」と聞いたのだ。

 

私は「知っとるよ、原爆が落ちた日やろ?」と答えたところ、おじいちゃんは「明日はな、平和公園で記念式典があるさかいに一緒にいこか?」と言った。

 

おじいちゃんは、戦時中満州へ鉄道を作るために、広島の宇品から船で渡ったのだと言う。

 

「平和祈念式典には死ぬまでに、一回は行かんならんと思うてたんや」

 

そう話すおじいちゃんの顔はいつもの柔和で面白いおじいちゃんではなく、子供ながらおじいちゃんの真剣な思いが伝わってきた。

 

「ほなら、一緒に行こな」と返事するのが精いっぱいだった。

 

翌日、朝早く平和公園に向かった。

 

当時、平和公園は今のように整備もされていない、広い空間に芝生が植えられていたが、その周りは砂利が引かれているだけの公園だった。

 

朝早く二人で出かけたが、平和公園は今まで見たこともないほどの人出でごった返していた。

 

暑さと土埃で息をするのも苦しいほどだった。

 

おじいちゃんは私を、大きな木の木陰へ連れていくと「ひろみはここで待っといてくれ、じいちゃんは前の方でしっかりお祈りしてくるからな」とぎらぎら光る日差しの中へ消えていった。

 

あの時、おじいちゃんはだれの事を祈っていたのだろうか?

 

今日の整然と並んでいる大きな日よけのテントを見ながら、もう58年も前になるあの日の事を思い出した。

 

「広島平和祈念式典」はあの日に、その年のうちに、亡くなった14万人のひとびとの慰霊の日である。

 

どうか、安らかにお眠りください。二度と同じ過ちが繰り返されませんように。と世界中の全ての人が心から祈る日なのだと思う。

 

私がおじいちゃんと一緒に初めて「平和祈念式典」に行った日から58年たった今日、私は平和祈念資料館で「被爆体験伝承者」として、あの日5歳10か月だった「廣中正樹さん」のお話をした。

 

普通の夏の朝、普通に出勤したお父さんが、8時15分。まさにその原子爆弾が炸裂した直下、爆心地近くの電車の中での被爆だったのだ。お父さんは大やけどをおい、背中にいくつものガラスが刺さった姿で爆心地から離れた自宅へ必死の思いで帰って来たのだ。

 

そのお父さんは翌日に亡くなり、5歳の正樹君が荼毘に付す話を伝承講話で話すのだが、今日は千葉県や群馬県から来たという親子連れの参加者が涙を流しながら聞いてくれたのだ。

 

「核兵器は人類と共存できない」

「この悲しみ苦しみを二度と世界の誰にもさせたくない」

 

この二点が被爆者の強い祈りだ。

 

今日講話を聴いてくれた6歳から70代までの人が、講話の最後に私に伝えてくれた言葉がある。

 

「資料館を見ただけではわからなかった、原子爆弾の恐ろしさ、戦争のむなしさがよくわかりました。家に帰ったら家族や友達に今日の話を伝えます。心に響く話をありがとうございました」

 

一時間の講話で私が伝えられるのは、あの日から4日間の5歳の正樹君の実際に見た事実の話だけだ。

そのままを、これからも一人でも多くの人に伝えていこう。

平和の種まきをコツコツしていこう。

そう深く心に命じた今日だった。

 

ところで今年の8月6日。

高市総理大臣が「平和祈念式典」に参拝されるとニュースで聞いた。

 

是非とも「平和祈念資料館」をじっくり見てもらいたい。

できれば数少ない、だけど勇気を出して語り部をしている「被爆者」の話を直接聞いてもらいたい。

もう直接話を聞ける機会は残り少ないのだから。

 

心からの世界の平和を祈る今日でした。

 

 

 

 

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