メディアグランプリ

あの子はまだ喋っている


 

 

 

 

*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事:きんもくせい(2026年8月開講 ライティング・ゼミ福岡)

 

 

バスの前の席で小さな男の子がずっと喋っている。

年は4、5歳ぐらいだろうか。隣にはお母さんが座っている。

男の子は本当にずっと喋っている。ひとつ話し終えたと思ったら、もう次の話が始まっている。話題と話題のあいだに、ほとんど隙間がない。

「子どもってこんなに喋るものなのか」と思った。

彼に原稿用紙を渡すと、4、5枚程度あっという間に埋めてしまうのではないか。

それに比べて、私は書き始める前からうんうんと唸ってしまう。

私にもあんな時期があったのだろうか。今の私には、話したいことも書きたいこともパッと出てこない。

なぜそうなってしまったのだろうか。

小学3年生のとき、私が同じクラスのAさんが好きであるということを、友人が教室で叫んだ。

世界が終わったかと思った。辺り一面にばらまかれた私の秘密。

かき集めようにもそれに形はなく、空気のようにつかむことができない。もう二度と私の胸に秘めておくことはできない。

ヘラヘラと笑う友人。私の体の中で憤りと悔しさが出口を求めて暴れまわる。

当然友人はそれを受け止めるつもりなど毛頭ない。出しどころなどなく、ただ私は泣き、飲み込んでおくしかなかった。

私がどう思うかなど気にも留めず、私の世界をグチャグチャにされた。

私は自分自身を大きく責めた。人の口には戸が立てられない。私の手から離れた言葉は私にはどうすることもできない。「明け渡してしまった私が悪かった」と。

この日から基本的に自分のことは話さなくなった。

「これを話しても問題ないか?」と頭の中で反芻してから口に出す癖がついた。

リスクをできる限り減らすために。

家族ともあまり話さなくなる。

中学生になると親と距離ができた。

家庭の中からではなく家庭の外から親を見るようになった。

両親ともども宗教活動に熱心だった。数十万円する絵を嬉々として買っていたし、お守りとなるシールを家具や持ち物に貼っていた。

この当たり前は私だけのものだったらしい。

それに気が付いてから親のことが生理的に受け付けなくなった。同じ空間にいるだけで複数の毛虫が背中を這って上がってくるようなゾワゾワ感があった。

我が家の夕飯はそれぞれバラバラに食べることがほとんどだった。ただ、私が食べる際には、母がいつもいる2階から降りてきて私の前に座る。その時間が苦痛で仕方なかった。

階段を降りてくる音がする。またか。胃が鉛を放り込まれたように重くなる。

向かいの席に座る。何を言うわけでもなく私を見つめてくる。

早く食べ終わりたい。ここから離れたい。

パーソナルスペースに遠慮せずに入られる不快感。

それでも拒否できない。なぜなら親のほうが力があるから。

私は親の家に住んでいる。親の作ったご飯を食べている。親の収入で暮らしている。

私に文句の言える権限はない。親が力を振りかざせば途端に、私は路頭に迷うことになるだろう。

友人にはこのことを話していない。兄弟もいたが彼らにも話していない。

私は夏目漱石の「こころ」で好きな部分がある。

私は移った日に、その室の床に活けられた花と、その横に立て懸けられた琴を見ました。どっちも私の気に入りませんでした。

(夏目漱石『こころ』〔青空文庫〕)

これは先生が下宿先の部屋を初めて訪れた際の感想で、すでに置いてあった生け花と琴を「なんだコレ」と思う場面である。

しかし、この生け花と琴の持ち主である下宿のお嬢さんに先生が会った後、それらの印象が変わる。

私はそれから床の正面に活けてある花が厭でなくなりました。同じ床に立て懸けてある琴も邪魔にならなくなりました。

(同書)

この、「その人に好意を持った」という気持ちを直接的に表現するのではなく、けれどもとてもわかりやすく表現するこの描写が大好きだ。

就活の面接で趣味は「読書」と答えると具体的な本の話を聞かれる。

私は「こころ」の話をした。

面接官は「どこがいいのかわからない」といった様子だった。なぜそこまで深掘りして聞いてきたのだろう。

私が誤っていたのだな、と思った。

面接で求められている「読書」の話を、私はわかっていなかった。

そこから私は趣味を読書と答えるのをやめた。

小さい男の子はいまだによく喋っている。窓際についている日よけのロールスクリーンが気になっているようだ。

隣に座っている母親の耳にはAirPodsがついている。時折、流れてくる音楽が気に入らないのかスマホを触り、曲を選び直している。

男の子はまだまだ喋っている。

 

 

≪終わり≫

 

 

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