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倍速の世界で、真水を差し出す ——「安さと速さ」のレースを降りて


 

 

 

 

*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事:川瀬健二(26 年9 月ライティングゼミwithAI)

 

動画を見るとき、「1.5倍速」や「2倍速」のボタンについ指が伸びる。1時間の動画が30分で見られる。要点だけ知りたいときには、とても便利だ。けれど、ときどき不思議なことが起こる。映画を1本見終わったはずなのに、何も残っていない。内容は理解した。時間も節約した。それなのに「あの言葉がよかったな」と思い返すものがない。そして、もう次の動画を探している。そんな自分に気づくと、ふと思う。

 

「僕たちは時間を節約して、いったい何を取り戻そうとしているのだろう」

 

これは、動画だけの話ではない。仕事の世界にも、よく似たことが起きている。もっと安く、もっと速く。見積もりは1円でも安く。納期は1日でも短く。もちろん、安さも速さも立派な価値だ。効率化できる仕事なら、どんどん効率化したほうがいい。問題は、それがいつの間にか「安く、速くなければ価値がない」に変わってしまうことだ。1円下げて、仕事を受注する。1日縮めて、喜ばれる。すると次回も、さらに1円、さらに1日を求められる。そうして走り続けているうちに、あるとき気づく。売上はある。仕事もある。今日も忙しい。なのに、なぜか苦しい。

 

僕には、この状態が「喉が渇いているときに海水を飲むこと」に似ているように思える。喉が渇いているから、目の前の海水を飲む。一瞬だけ、口の中は潤う。けれど、それでは本当の渇きは癒やせない。安さと速さだけを競う商売も同じだ。値段を下げれば、一時的に仕事は取れるかもしれない。納期を縮めれば、喜ばれるかもしれない。けれど、そのために誰かが無理をする。現場から余白がなくなる。品質を確認する時間が削られる。利益が薄くなれば、また次の仕事を取らなければならない。忙しいから、さらに効率を求める。飲めば飲むほど、渇いていく。だとしたら、必要なのは「もっと上手に海水を飲む方法」ではない。

 

「飲むものを変えることだ」

 

自分たちは、お客様にどんな「真水」を差し出せるのか。ここを考えることが、安さと速さのレースから降りる最初の一歩なのだと思う。十年使える丈夫さかもしれない。困ったときに相談できる安心感かもしれない。長年培った技術かもしれない。納品が終わった後も、ずっと付き合ってくれる誠実さかもしれない。どれも、価格表には書きにくい。けれど、人が「ここに頼みたい」と思う理由は、案外こういうところに宿っている。

 

そして、いい仕事には「削ってはいけない時間」がある。話を聞く時間。考える時間。検証する時間。人を育てる時間。信頼をつくる時間。ここで大切なのは、効率を否定しないことだと思う。AIやテクノロジーで、今まで1時間かかっていた仕事を10分に短縮できるなら、それは素晴らしい。問題は、その浮いた50分をまた別の仕事を詰め込むことだけが「効率化」だと思ってしまうことだ。

 

「効率とは、本当に手間をかけたいものへ、時間を戻すためにある」

 

速くできるところは、速くする。そして、そこで生まれた時間を、速くしてはいけない仕事に使う。そこに、その会社らしさが生まれる。仏教には「知足」という言葉がある。

 

「足るを知る」

 

僕はこれを、商いに置き換えるなら、「何を追いかけないかを決めること」でもあると思っている。すべてのお客様から選ばれなくてもいい。すべての価格競争に参加しなくてもいい。無理な納期をすべて受け入れなくてもいい。その代わり、「僕たちは、ここだけは手を抜きません」と言えるものを持つ。安さで選ばれる会社なら、もっと安い会社が現れれば負ける。速さで選ばれる会社なら、もっと速い会社が現れれば負ける。けれど「あなたに頼みたい」で選ばれる会社は、少し違う。

 

「あの人なら最後まで面倒を見てくれる」

「あの会社の仕事なら安心できる」

 

そんな信頼は一日ではつくれない。だからこそ、簡単には真似されない。「安さと速さのレースから降りる」とは、競争をやめることではない。競う場所を変えることだ。1円の差ではなく、信頼で競う。1時間の差ではなく、品質で競う。海水を誰より速く差し出す競争から降りて、自分たちにしか汲めない真水を探す。

 

世界の速度は、これからも上がっていくだろう。AIはもっと賢くなり、昨日まで1時間かかっていた仕事が数分で終わるようになる。だからこそ、これから問われるのは「どれだけ速くできたか」だけではない。

 

「浮いた時間を、何に使ったか」

 

誰かの話を丁寧に聞く。若い人に技術を伝える。最後の仕上がりを、もう一度確かめる。お客様が本当に困っていることを考える。僕なら、そんな時間に使いたい。明日もまた、こんな言葉を聞くだろう。

 

「もう少し安くなりませんか」

「もう少し早くできませんか」

 

そのとき、一度だけ自分に問いかけてみる。いま僕たちが差し出そうとしているのは、真水だろうか。それとも、飲めば飲むほど渇く塩水だろうか。大切なのは、自分たちが何を届ける会社なのかを見失わないことだ。

 

世界がどれだけ倍速になっても、喉が渇いた人が欲しいものは変わらない。必要なのは、もっと速く飲める水ではない。ちゃんと、渇きを癒やしてくれる水なのだから。

 

≪終わり≫

 

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