ゼミ

一粒の米に宿る神様と、ぬかるみの記憶《週刊READING LIFE vol.377「フリー」》


 

 

 

 

*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事:藤原 宏輝(READING LIFE 編集部ライターズ倶楽部)

 

 

眼前に広がるのは、どこまでも続く黄金色の海だった。秋の澄み渡る空のもと、心地よい風が吹き抜けるたび、頭(こうべ)を垂れた稲穂たちがさあさあと優しく音を立てて揺れている。 

先日、私は縁があって稲刈りの体験イベントに参加した。

ずっしりと実った稲の束を前にし、ズボンの裾をくり上げて鎌を手にした瞬間、胸の奥から温かいものがじんわりと込み上げてくるのを感じた。

この黄金色の光景を見つめていると、ふと遠い昔、おばあちゃまが優しく語りかけてくれた言葉が、まるで昨日のことのように鮮やかに蘇ってくる。   

「お米はね、一生懸命に小作さんが汗を流して作ってくれた大切なものなんだよ。その穂先にはね、一粒一粒、神様が住んでおいでになるんだから。有り難く、感謝して、一粒も残さずにいただきなさいね」

 

当時の私にとって「米の粒に神様がいる」という話は、なんだかとても神秘的で、お茶碗に残ったお米の一粒すらも愛おしく思える魔法の言葉だった。その言葉は私の中にしっかりと太い根を張り、今日に至るまでの私の食に対する姿勢の揺るぎない基盤となっている。

おばあちゃまの言葉のおかげで、私は幼い頃から、炊きたての真っ白で艶やかなご飯が何よりも大好物になった。

特に秋になり、新米が食卓に上る季節は特別だ。炊き上がりの湯気とともに立ち上る香ばしく甘い香り。お茶碗からひとくち口に運び、ゆっくりと噛み締めると、お米本来のやさしくも力強い甘みが口いっぱいに広がる。

 

大人になった今でも、その瞬間はお腹だけでなく、自分の命や身体のすみずみまでが優しさで満たされていくような、至福の幸せを感じるのだ。

「人は食べるモノによって、身体が作られる」

これは、天狼院のインフィニティ♾️リーディングやウェルネスの講座でも、先生方が何度も大切に教えてくださる言葉である。

私たちは日々、当たり前のように何かを口にし、エネルギーを得て生きている。けれど、私がこうして美味しく温かいご飯を食べられるのは、ただ目の前のお米を作ってくれた農家の方々のおかげだけではない。食卓を彩るお魚やお野菜、お出汁や調味料に至るまで、すべては私が会ったこともない無数の誰かの手を経て届いている。

畑を耕す人、海に出る人、丁寧に仕分けをし、運んでくれる人、そして市場やお店で心を込めて扱ってくれる人。

誰もがそれぞれの場所で、誰かの生きる糧となるものを「より丁寧に」扱ってくれているからこそ、私は今日のご飯を食べることができるのだ。

鎌を握り締め、稲の根元に刃を当てながら、私は自分の手元に届く食材の背後にある、目に見えない無数の温かい手と、そこに費やされた膨大な時間に想いを馳せた。

 

 

しかし、その日の稲刈りは決して穏やかな作業ばかりではなかった。

前日の夜に降った強い雨のせいで、田んぼの土はたっぷりと水分を含み、まるで底なしの泥のように柔らかくぬかるんでいたのだ。

一歩足を踏み入れれば、ずぶりと足首まで沈み込んでしまう。あちこちから

「うわっ、足が取られて動けない!」

「助けて、靴が抜けなくなった!」

といった悲鳴や苦笑いが上がっていた。悪戦苦闘しながら歩こうとしてはバランスを崩し、盛大に泥の中に転び込んで服も顔も泥だらけになってしまう大人も子供もたくさんいた。

稲を刈る以前に、田んぼの中を移動すること自体が至難の業だったのだ。

 

ところがここで私には、自分でも説明のつかない非常に不思議なことが起きた。

鎌をしっかりと手に持った私は、なぜか足が泥に取られることが一度もなかった。転びそうになることもなければ、バランスを崩してよろめくことすらもない。

それどころか、まるで身体が最初からその歩き方を知っているかのように、意識するよりも先に勝手にすいすいと動き出したのだ。私は稲穂を左手で手際よく掴み、右手の鎌で刈り取りながら、立ち上がり稲穂を渡す。

そして、無意識に刈り取った後の硬い切り株の頭を足裏で巧みに踏みつけるようにして、ひょいひょいッと軽やかに田んぼの中を歩けた。

「あれ、どうして私は、こんなにもスムーズに動けるんだろう……?」

周りの人々が足を取られて立ち往生している中で、自分だけがまるで慣れ親しんだ庭でも歩くかのように平然と作業を続けている。首をかしげて足元を見つめたその瞬間、頭の奥深くに封印されていた

遠い遠い記憶の扉が、音を立ててゆっくりと開いていくような感じがした。

 

父の実家には、私がまだ本当に小さかった頃、広大な田んぼがいくつもあった。わざわざそこまで家族で遠出したという出来事自体は、ぼんやりとした風景として頭の片隅に残っていた。しかし、まさかその時の「泥の感触」や「足の動かし方」までが、私の中に残っているとは思いもしなかった。

足裏が感じ取った泥のぬくもりと切り株の硬さ。その体感が引き金となり、一瞬にして時が巻き戻った。

 

そこにいたのは、大人になった今の私ではない。3歳か4歳くらいの、まだ自分の背丈よりも高い稲穂を見上げていた、幼い頃の私だった。

ほとんど意識や思考としては覚えていないはずの、何十年も前の体験。それを、私の身体は完璧に記憶していた。言葉や概念として記憶するよりも遥かに深い場所、細胞や筋肉、骨の髄にまで、田んぼの泥の感触と歩き方が刻み込まれていたのである。

「身体の記憶……って、なんて恐ろしいんだろうッ!」

思わず一人でくすりと笑ってしまうと同時に、全身の毛穴が立つような、背筋がすっと伸びる強烈な衝撃と緊張感を覚えた。

幼少期に身体で覚えたこと、肌で感じた感覚は、どれほど歳月が流れようとも、決して消えることはない。意識の表面からは忘れ去られたように見えても、命の底流にずっと残り続け、何かの拍子にこうして鮮やかに蘇ってくるのだ。

 

稲刈り作業をすべて終え、泥と稲の甘酸っぱい匂いが混ざり合う田んぼを後にするとき、私の中にひとつの強く温かい想いが芽生えていた。

「刈り取りだけじゃない。今度は、春に小さな苗を一つひとつ手で植えていく『田植え』の時から、この命のサイクルに最初から参加してみたい」

自分を育ててくれた土と命の巡りに、もう一度深く関わりたいという強い欲求が、身体の底から湧き上がっていた。

稲刈りを終えた帰り道も、私の心はぼんやり3歳のあの頃へとタイムスリップしたままのようだった。あの頃の私。毎日が新しく、目に入るものすべてが眩しく、無邪気で、素直で、ただそこにいるだけで楽しかったあの日々。

 

父の実家の大きな田んぼで、幼い私は今日の参加者たちと同じように泥だらけになって遊んでいたのだろう。服に泥をいっぱいつけて、顔を汚して、それでもキャッキャと声を上げて笑っていたに違いない。

そして、そんな泥だらけの私を、周りにいた大人たちはどんな目で見つめていただろうか。

「こらこら、そんなに泥だらけになって」と笑うパパとママ。

「元気でいい子だねぇ」

と、温かい眼差しで目を細め見守ってくれていたおじいちゃまとおばあちゃま。

泥を拭い、手を引かれ、温かいお風呂に入れてもらい、美味しいご飯を食べさせてもらった。

そこには、見返りを求めない、溢れんばかりの無条件の愛情が存在していた。

私は大人たちから、ものすごく大切に、宝物のように愛され、育まれていたのだ。

大人の都合で怒鳴られることもなく、存在を否定されることもなく、素直なままに笑っていることを全身で肯定されていた記憶や大切にされたという感触が、泥の記憶とともに溢れ出してきた。

 

私が今、人を愛し、ブライダルの仕事に情熱を傾け、お客様やスタッフの幸せを心から願うことができるのは、私自身の力だけではない。あの幼い頃に、おじいちゃま、おばあちゃま、パパ、ママから浴びるように与えられた惜しみない愛情が、私の心の根底に揺るぎない安心感として蓄積されていたからなのだ。

 

人は、幼少期に注がれた愛の量によって、自分自身を信じる力を得る。

 

足裏が覚えていたぬかるみの記憶は、同時に「私はこんなにも愛されていたんだ」という、生涯を支える愛の記憶そのものだった。その圧倒的な感謝の思いに、私の目頭は熱くなった。

 

 

今回の稲刈り体験と、幼少期の記憶のフラッシュバックを通して、私は改めて‘食と生き方’の深い関係性について考えさせられた。

「食べ方によって、生き方が定まる」

昔からよく言われるこの言葉の持つ意味が、今なら痛いほどよく分かる。

食事の仕方の丁寧さや雑さは、本当に人それぞれだ。

けれど、時折見かけるガサツな食べ方をする人や、お茶碗の内側に何粒もの米粒をべったりとくっつけたまま、何とも思わずに「ごちそうさま」をして食事を終わらせてしまう人を見ると、私はどうしても胸の奥がざわつき、悲しい気持ちになる。

 

もちろん、人間には誰しも好き嫌いや苦手な食べ物がある。体調や体質によって、どうしても残さざるを得ない場面があるのは仕方がないことだ。けれど問題は「残してしまうこと」そのものよりも、出された命や、それを育み調理してくれた人々に対する無神経さにある。

お茶碗にくっついた一粒のお米。

その一粒には、おばあちゃまが言った通り神様が宿り、太陽の光や風、雨。そして、農家の方々の熱い思いが詰まっている。それを平気でゴミのように扱い、見向きもしない姿勢。

それはきっと、食事だけの問題ではないのだ。

その食べ方の雑さは、そのままその人の生き方の雑さであり、人に対する向き合い方の雑さなのではないかと考える。

食卓で出された命や他者の労力に感謝を持てない人は、人間関係においても、誰かが自分のために払ってくれた時間や配慮を当たり前と思い、雑に扱ってしまうのではないだろうか。

目の前の小さな一粒を大切にできない人が、どうして他人の心や、自分自身の人生を大切にできるだろう……。

 

食べるという行為は、単に空腹を満たし、栄養を補給するための作業ではない。

それは、他の命を自分の命へと変換させてもらう神聖なものであり、自分を支えてくれている万物や、目に見えない多くの人々に対して

「今日もありがとうございます」

と感謝を重ねていくための、もっとも身近で大切なツールだ。

丁寧に食べること。

それは、自分自身の人生を、そして周囲の人々を丁寧に愛することと同義だと思う。

 

 

そして、この一連の体験を経て、私はどうしてもお伝えしたいことがある。

それは‘子どもという存在に対する、私たち大人の責任と影響力の大きさ’についてだ。

私自身が田んぼの感触や、おばあちゃまの言葉を、今でも鮮明に身体と心で覚えていたように、子ども時代に与えられた「言葉掛け」や「体感での記憶」は、その子の生涯にわたって絶対に消えることがない。

 

幼い頃に「あなたは大切なんだよ」「美味しいね」「ありがたいね」と温かい言葉を掛けられ、愛情のこもった手で抱きしめられた記憶は、その子が大人になり、どんなに深い闇や困難にぶつかったときでも、自分を諦めないための最強の心の鎧となる。

 

しかし、その反対もまた然りなのだ。

最近のニュースなどでは、痛ましい児童虐待やDV(ドメスティック・バイオレンス)の話題が後を絶たない。

幼い子どもたちが、親や身近な大人から理不尽な暴言を吐かれ、身体を傷つけられ、恐怖と冷たさの中で震えている現実を耳にするたび、私は胸が張り裂けそうになる。

幼少期に叩き込まれた恐怖や痛み、拒絶の体感記憶もまた、大人になっても決して消えることはないのだ。虐待を受けた記憶は、その子の細胞に刻まれ「自分は愛される価値がない人間なんだ」という深い傷となって、その後の人生を永きにわたって苦しめ続ける。

こんなに恐ろしいことがあるだろうか?

 

現在、ご自身にお子さんがいる人も、あるいは子どもがいなくても、どうか関係ないと思わないでほしい。

これまでブライダルの仕事を通じて、たくさんのご家族様や新しい生命のスタートに携わってきた私だからこそ、強く思う。

道ですれ違う子、近所で見かける子、親戚の子など。すべての子どもたちは、これからの未来を創っていく絶対に必要な宝物であり、社会全体の希望なのだと。

私たち大人が子どもたちに向ける眼差し、かける言葉、与える体感。その一つひとつが、未来の地球を創っていると言っても過言ではない。

小さな子どもと接するとき、私たちは

「この子に、ずっと消えないどんな記憶をプレゼントしようか」

という、怖れと敬意を持って向き合う。

温かい言葉、優しい眼差し、一緒に食べたご飯の美味しさ、泥の温かさ。そうした美しい体感記憶を、私たちは社会全体で子どもたちに手渡していかなければならないと感じる。

 

 

昔、私の大好きなおばあちゃまは、こんなことを言っていた。

「男の子と女の子を産んで、一人前に育てる事で、自分が勉強させてもらい、親として成長させてもらえるんだよ」

幼かった頃の私は、その言葉の意味が全く分かっていなかった。

けれど、様々な人生の経験を重ね、大人になり、こうして稲刈りを通じて命や育みについて考え抜いた今。

その言葉の持つ途方もない意味と深さが、深く身に染み渡ってくる。

大人は子どもに、教えてやっているとか、育ててやっている。と思いがち。

しかし、本当はそうではない。

何も知らない、真っ白で無垢な子どもという存在と向き合うことで、私たちは‘自分自身の生き方の雑さ’を突きつけられ‘愛とは何か? 感謝とは何か?’を学び直させてもらっている。

子どもを一人前に育てようと格闘するプロセスこそが、エゴだらけだった私たち大人を削り磨き、真の意味での人間へと成長させてくれる最高の学び場だと思う。

 

子どもを育てること。そして、次の世代に大切なバトンを繋ぐこと。

それは自分が人生で受けられる、もっとも贅沢で深い学びだとおばあちゃまは教えてくれていたのだった。

 

秋風が吹く田んぼで鎌を握り、泥の感触に幼い自分を見た日。

私は、時を超えてたくさんの愛と教えを受け取った。そんな大事な事を思い出せた事が、とても有り難い。

 

私はこれからも、食卓に並ぶご飯を前にしたとき、手を合わせ、一口ひとくちを丁寧に、噛み締めていただきたい。

一粒の米に宿る神様に感謝し、いただいた命を自分の血肉とし、丁寧な生き方を重ねていくこと。

そして、その温かい感謝の循環を、未来を担う子どもたちへと繋いでいくこと。

お茶碗の真っ白で艶やかなご飯から立ち上る湯気の向こうに、私は今日も、かけがえのない愛と未来の光を見つめている。

 

 

【終わり】

 

❒ライタープロフィール

藤原 宏輝(ふじわら こうき)『READING LIFE編集部 ライターズ俱楽部』

愛知県名古屋市在住、岐阜県出身。ブライダル・プロデュース業に25年以上携わり、2200組以上の花婿花嫁さんの人生のスタートに関わりました。思い立ったら世界中どこまでも行き、知らない事はどんどん知ってみたい。好奇心旺盛で、即行動をする。

何があっても、今を全力で生きる。切り替えが早く、とにかく前向き。

これまでのブライダル業務の経験を活かして、次の世代に、未来に何を繋げていけるのか? 

といつも模索しています。2024年より天狼院で学び、日々の出来事から書く事に真摯に向き合い、楽しみながら精進しております。

 

 

 

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