メディアグランプリ

『審査員席を片付ける勇気』


 

 

 

 

*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事:AKIYO (26 年 9 月ライティングゼミ with AI)

 

「あっ、うわ」

 目の前の息子が小さく声を上げたのと、ガン!と大きな音がしたのが、ほぼ同時だった。慌てて立ち上がって七輪の向こう側を見下ろすと、ガラスのビールジョッキが横に倒れ、氷が散乱している。こぼれたレモンサワーが木のテーブルに広がっている端で、かろうじて難を逃れたスマホを、息子は真っ先に持ち上げた。

「あ〜あ」

 言葉の割には呑気な仕草で、彼はジョッキを立てて、こぼれた氷を拾って中に放り込んでいる。

「ちょっと、洋服は大丈夫なの? うわ〜、ほとんど飲んでないからビショビショじゃないの。タオル! お姉さんにタオルもらいなさいよ!」

 私は大声で焼肉屋の店員さんに声をかけて、お手拭きを持ってきてもらった。

「あ〜もったいね。まだ一口しか飲んでないのに」

「もったいね、じゃないよ。ほら椅子! 椅子拭いて!」

 いきり立つ私に反して、息子は鼻歌でも歌いそうな表情で、椅子を拭き始めた。

「まぁ、拭けばいい話じゃん」

「あんたねぇ、大学生にもなって、子どもの頃からまったく変わらない……」

 話しながら、ああ私は以前もこの感覚を味わったことがある、と思い出した。

 

 そう、あれは高校生の頃。

「毎日毎日遅刻ばかりして、いい加減にしなさい!」

 小学生の頃から、息子は寝坊の常習犯だった。中学生になっても変わらず、せめて高校生になったら女子の目もあるから多少は気をつけるだろうと思いきや、毎朝の私の怒鳴り声は変わらなかった。今日という今日は息子に言わなければ、と思い、その日は声に怒りがこもった。

「だいたい、授業が始まってから後ろに入っていくのが嫌だと思わないの? 恥ずかしいと思わない!?」

 その瞬間、それまではいはいと聞いていた息子がふと真顔になり、私を見返した。

「え、恥ずかしい?」

「そうよ、恥ずかしいでしょ、ノコノコ入っていくの」

「え、なんで?」

 今度は、私が真顔で彼を見る番だった。

「恥ずかしいって、誰に?」

 反抗心からの反論という勢いはなく、彼は本当に、不思議そうな表情をしていた。

「まずいかな、とは思うけどさ。恥ずかしいっていうのは、僕は、ないかな」

 

 あの日から、5年。

 私はテーブルを拭き終えた息子と、新しいサワーで乾杯し直した。

「まぁ俺いい加減だからね、なんでみんな友達になってくれるのか、自分でも不思議」

 ははは、と屈託なく笑う。

 確かに、息子は友達が多い方だった。部活に打ち込むでもなく、自分の趣味に友達を誘うような性質でもないくせに、誰と出かけたの、と聞くと、その都度多様な名前が返ってくる。

「ほんと、お母さんも見てて不思議だよ。あなたケチだし遅刻するし、お金も借りるし、友達は飲まないのに自分だけガブガブ飲んでるし、お友達はさぞ苦労しているんじゃない」

「だよね、俺も不思議」

 

 小学4年生の頃に、担任の先生から言われたことがあった。

「陽太くんは、いちばん前の席です。見ていると、子供たちが教卓に来た後で、必ず陽太くんのところに寄って、一言二言話していくんです。それも仲良しグループの子たちだけじゃない。普段あまり口数が多くない子も」

「陽太くんは、相手を受け入れるんです。上下関係を作ったりしない。ああこいつには話しかけても大丈夫だって、みんなそう思っているんだと思いますよ」

 息子の心は、審査員席がない大会のようなものだ。なぜなら、誰も点をつけないから、出場する誰もが、のびのびと自分でいられるのだ。相手を評価しない。自分より上か下かを考えない。そして、その目は自分にも向いていて、自分自身も評価していない。

 

「お母さん、陽太が子どもの頃に、もっと本読んであげればよかったな」

 10年以上前の思い出話をしながら、思わず言葉が出た。

 もっと本を読んであげれば。もっとスポーツをさせていれば。仕事を言い訳にせずに、いろいろやってあげていれば。

「母さんは、なんでも自分のせいにしすぎじゃない?」

 息子の言葉にハッとして目を上げると、穏やかな笑顔の目にぶつかった。

「大丈夫だよ、誰も責めてないよ」

 

「そうだね、たしかにね」

 私は今もずっと、もう終わった子育ての採点を、自分につけ続けている。さっき慌てて拭いていたのは、テーブルだけではなかったのではないか。

 そろそろ私も、審査員席を片付けてもいいのかもしれない。

いろいろと、まずいことはある。でも、恥ずかしいことは、たぶんない。

 

≪終わり≫

 

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