このままじゃ、終われない《週刊READING LIFE vol.380「大河の如く」》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:藤原 宏輝(READING LIFE編LIFE編集部ライターズ倶楽部)
指定された時間の五分前、私は会議室の椅子に静かに腰を下ろしていた。
手にしたマグカップから立ち上る湯気を眺め、温かいコーヒーを一口含んだ。香ばしい苦味が口いっぱいに広がり、強張っていた肩の力が少しだけ抜けていく。忙しない日常の中で、この数分間だけが私に与えられたささやかな安らぎだった。
まもなくして、重い音を立てて会議室の扉が開いた。
入ってきたのは、一人の男性役員だった。取締役という肩書ではあるものの、彼は実質的に現場のプレイヤーとして働いており、経営権を有さない年俸制の立場だった。
彼の表情を一目見た瞬間、これから始まる時間が決して穏やかなものではないことが察せられた。顔色は蒼白で、視線は定まらず、空気全体が冷たく張り詰めていた。
振り返れば、約一年前から彼の言動にはどこか不審な点があった。
会社のブライダル部門に所属する既婚の中堅女性プランナーと、妙に頻繁にコンビを組んで仕事をするようになっていたのだ。社内ではいつしか「あの二人はダブル不倫関係にあるのではないか」という噂が密かに囁かれ始めていた。
しかし、私はその噂をどこかで打ち消していた。
「私の常識の中では、そんなことはあり得ない」
役員と現場のプランナーが、しかも社内で? 長年会社を支えてきた彼らを信じたいという経営者としての思いと、自分の組織に対する自負が、直感を鈍らせていたのかもしれない。
「実は……話があります」
彼が絞り出した言葉は、私の予想を遥かに超える斜め上からの衝撃だった。
「あのプランナーが……担当しているお客様と不倫関係になってしまいまして」
青天の霹靂、とはまさにこのことだった。
頭を硬い鈍器でガツンと殴られたような衝撃が走る。言葉を失い、手に持っていたコーヒーの温かさすら感じなくなっていた。社内でのダブル不倫の噂どころではない。クライアントとの不倫――ブライダルという「祝福と信頼」を売る会社にとって、それは致命的なリスクを意味していた。
人の心や人間関係の問題は、いつだって突発的だ。
どれほど経営計画を綿密に立てていようと、予測不能な嵐は大波小波となって、容赦なく襲いかかってくる。
だが、この時私はまだ知らなかった。
この青天の霹靂すら、これから訪れる本当の地獄の「前奏曲」に過ぎなかったということを。
事件の発覚後、私はしばらく彼女の様子を観察していた。
しかし、彼女は何事もなかったかのように平然と業務をこなしていた。大きな波風が立つこともなく、表面上は穏やかな日々が過ぎていった。
そうして、半年ほどが経った頃だった。
静かに見えた水面の下で、本当の濁流が渦を巻いていた。
会社を揺るがす最大の危機は、突如としてその姿を現した。
「役員による、会社資金の横領」
経理の異常を発見した瞬間、全身の血が凍りついた。
その男性役員が、長年にわたって会社の口座から地道にお金を盗み続けていたのだ。その額、実に2,000万円。
2,000万円という数字が、現実味を失って頭の中で激しく響き渡る。
ブライダルという一生に一度の晴れ舞台を作るため、スタッフたちが汗を流し、お客様から預かってきた大切なお金。会社を存続させ、みんなの雇用を守るために積み上げてきた資金。それを、自分が信頼し、役員という重責を任せていた人間が、裏でコツコツと自分の懐に流し込んでいたのだ。
「役員を信頼した私が、アホだった――」
激しい怒りと、それ以上に深い悔しさが怒涛のように押し寄せてきた。
人間に対する不信感が胸を締め付け、呼吸すらまともにできなくなる。生きた心地など全くしなかった。
中小企業にとっての2,000万円は、ただの数字ではない。血であり、命だ。明日からの支払いが滞り、会社が跡形もなく吹き飛ぶ未来がハッキリと目に浮かんだ。
私たちはただちに法的措置を取り、裁判を起こした。
被告人席に立つ彼の顔を見つめながら、私は問いただしたかった。「なぜこんなことができたのか」「私たちが積み上げてきた時間は何だったのか」と。
だが、ドラマはさらに最悪の展開を辿る。
裁判の真っ只中、彼は突如として姿を消した。
行方をくらませ、警察や裁判所の追跡から逃亡したのだ。さらに恐ろしいことに、彼は失踪する直前、あろうことか会社から盗んだ資金やノウハウを手に、勝手に同業種で独立まで果たしていた。
裏切りに、裏切りを重ねる行為。
人間の醜悪さと身勝手さがこれでもかと凝縮された事態に、私の精神は限界を迎えていた。
横領が発覚し、主犯が逃亡した後に残されたのは、あまりにも惨憺たる現実だった。
当然のことながら、会社の資金繰りは一瞬で崩壊した。
取引先への支払い、協力会社への精算、家賃、光熱費……次々と押し寄せる支払期日。口座の残高は見る間に減っていき、一時はショート寸前まで追い詰められた。
私の体は完全に、冷たく暗い水の底へと沈んでいった。
猛烈な激流に身体を持っていかれ、抗うことすらできない。
溺れ、大量の濁った水を飲んだ。鼻や口から泥水が入り込み、胸が引きちぎれるように苦しい。
「もう、このまま流されていなくなってしまいたい」
そう思わなかったと言えば、嘘になる。
夜、一人になると、逃げ出したい衝動と絶望感が波のように押し寄せてきた。目をつぶれば、明日届く請求書と、資金の工面に駆けずり回る自分の姿が浮かぶ。「このまま全てを諦めて、深い水底に沈んでしまえば、どんなに楽だろう」――そんな言葉が、悪魔の囁きのように頭を駆け巡った。
会社のお金が消え、信頼していた人間に裏切られ、残されたのは途方に暮れるほどの借金と責任。
息ができない。足がつかない。どこを見渡しても、濁った水しか見えない。
「もうだめかもしれない。ここで私の人生は終わるのだ」
本気で死を覚悟した瞬間が、何度もあった。
それでも――。
死の淵のような暗闇の中で、私を水面へと引き上げようとする存在があった。
「社長」
不安そうな、けれど真摯な目で私を見つめるスタッフたちの姿だった。
彼らは何も悪くない。一生懸命にお客様の結婚式を作り上げ、笑顔を生み出そうと現場で汗を流している。彼らには生活があり、未来があり、夢がある。
「私がここで諦めたら、この子たちの居場所はどうなる?」
「この不条理な嵐の中で、社員たちまで泥水に呑み込ませるわけにはいかない」
経営者としての最後の一線、魂の意地が、私を水底から突き動かした。
泥水を吐き出しながら、もがき、あがき、必死の手足で水をかいた。
プライドも捨て、頭を下げ、あらゆる手立てを打って資金をかき集めた。血の滲むような思いで支払いを繰り延べ、一つひとつ、目の前の波を乗り越えていった。
水面に顔を出した瞬間、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
ふと見上げた雨上がりの空は、呆れるほどに高く、眩しく、明るかった。
「生きている」
濁流に呑まれ、一度は完全に沈んだ私だったが、命だけは落とさなかった。
そして、会社を潰さなかった。
あれから、どれほどの月日が流れただろうか。
あの死ぬような苦しみと激流を乗り越え、私は今、かつて見たこともないほど穏やかな景色の中に立っている。
「大河」という言葉を聞いたとき、多くの人は滔々と流れる美しく綺麗な清流を思い浮かべるかもしれない。
だが、本当の大河は違う。
源流の清らかな水から始まり、途中で山を削り、泥を巻き込み、濁流となって荒れ狂う時期を必ず通る。途中で枝分かれした細い川も、激しい落差のある滝も、すべてを飲み込みながら合流し、太く、深く、大きくなっていくのだ。
清流も濁流も、すべてを内包して流れるもの。それこそが「大河」の真の姿なのだと、今の私は知っている。
何度も酷い目に遭い、裏切られ、泥水を飲まされてきた。
けれど私は、経営者としての責任を一度たりとも投げ出さず、最後まで全うしてきた。会社を守り抜き、スタッフを守り抜き、今日という日までバトンを繋いできた。
そして今、私の前には「未知の世界」が広がっている。
これまで歩んできた川を抜け、いよいよ広大な大海原へと乗り出そうとしているのだ。
現在の私には、心強い仲間たちがいる。
あのどん底の嵐を共に潜り抜け、会社を支え続けてくれた大切なスタッフたちだ。
かつては私が先頭に立ち、必死で濁流からみんなを引き上げていた。だが今では、現場の指揮やお客様とのやり取りは、信頼できる優秀な仲間たちにすべて任せることができている。彼らはたくましく育ち、自分の足で立ち、素晴らしい仕事をしてくれている。
大海原に出る直前の大河は、驚くほど緩やかで、どこまでも穏やかだ。
川面に反射する光を見つめながら、私は思う。
命さえ落とさなければ、人は何度でもやり直せる。どんな激流も、いつかは必ず穏やかな流れに変わり、広い海へと辿り着くのだと。
これからの私の役割は、現場で戦うことではない。
私自身が「大きな河」そのものになることだ。
ゆったりとした豊かな流れとなって、船に乗るみんなを安全に、次のステージへと運んでいくこと。
そしてもし、これから先、どこかで激しい濁流に呑み込まれそうになり、息ができなくなっているスタッフがいたとしたら――。
私はその大きな腕(からだ)でしっかりと彼らを包み込み、泥水から救い上げたい。
「大丈夫だよ、私もかつてそうだったから。この流れに乗っていれば、必ず明るい海に出られるから」と笑って抱きしめてあげられる、そんな包容力を持った存在でありたい。
傷だらけになりながら泳ぎ切った川を振り返り、私は静かに前を向く。
風が吹き、潮の香りが近づいてくる。
さあ、新しい海へ出よう。
大河のごとく、どこまでも深く、悠然と誇り高く。
【終わり】
❒ライタープロフィール
藤原宏輝(ふじわら こうき)『READING LIFE 編集部 ライターズ俱楽部』
愛知県名古屋市在住、岐阜県出身。ブライダル・プロデュース業に25年以上携わり、2200組以上の花婿花嫁さんの人生のスタートに関わりました。思い立ったら世界中どこまでも行き、知らない事はどんどん知ってみたい。好奇心旺盛で、即行動をする。
何があっても、今を全力で生きる。切り替えが早く、とにかく前向き。
これまでのブライダル業務の経験を活かして、次の世代に、未来に何を繋げていけるのか?
といつも模索しています。2024年より天狼院で学び、日々の出来事から書く事に真摯に向き合い、楽しみながら精進しております。
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