母の人生最後の手術
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記事:伊藤千織(ライティング・ゼミ日曜コース)
突然だが、急に母の昔の話を思い出した。
「お前のお母さん本当に立派だよ、俺尊敬するわ」
中学生の頃、担任の先生に言われた言葉だ。
どうやら以前PTA役員を決める際に、母が周りの親たちに放った発言に感激したそうだ。それから先生は私と会話する機会があると必ず母の話を持ち出した。
学校から家に帰り、担任の先生にそう言われたことを母に伝えると、何を言ったのか教えてくれなかったが、少し微笑んでこう言った。
「さあ、あの時なんて言ったかな。でも確かに先生は学校で見かける度に挨拶してくれるよ。ありがたいね」
母は、担任の先生だけでなく、近所のおばさんや親戚にもよく慕われていた。あなたがいないと成り立たないわと、よく言われているのを耳にした。
私のお母さんって、すごいんだ。
身近にいると何がすごいのか分からなかったが、そう言われ誇らしい気持ちになった。
今になって、母が周りのヒーローであった理由がわかるようになってきた。
母は、充分に人生の絶望を体感して生きていた。
母は生まれつき腎臓が片方しかない。
股関節も運動しすぎると外れてしまう病気を患っていた。
幼い頃から手術を何十回も繰り返し、何度も入退院を繰り返してきた。小学校はほとんど通っていなかった。
私は物心ついた頃から、母が杖なしで歩いている姿を見たことがなかった。
走っている姿も自転車に乗った姿も見たことがなかった。
しかし母は、走ることと自転車に乗ること以外はなんでも出来た。私を何不自由なく「普通の母親」として育ててくれた。
それが母にとっての「プライド」だった。自分の意志を持ち、きちんと発言し、やると決めたことはやり遂げる人だった。周囲はそんな母を尊敬していた。
しかし、そんな母を、私は友達の母親と比べ「普通なのに走れない」と、どこか劣っているように感じていた。
普通ではないことを心のどこかで恥ずかしいと思っていた。
やがて反抗期が来て、母に優しくすることができなくなった。
人の目を気にして一緒に出歩くことを嫌い、母の手伝いをしたことがなかった。
家事を頼まれても「忙しい」「気分じゃない」と一切やってこなかった。
母はそんな私を最終的には諦めた。
それでも母は、いつでも私の味方で、私のやりたいことは、なんでも叶えてくれた。
その分、母は色々なものを我慢してきた。
2年前、母の股関節に長年の我慢の限界がきた。人工の股関節を入れないと歩けなくなると医師に言われた。
私も家族も、手術を勧めた。しかし母は頑なに「手術したくない」と首を縦に振らなかった。
そして母はこう言った。「いつ死んでも後悔しない、残りの余生だ」と。
足の手術をしなくても死ぬわけではない。しかし手術した方が確実にこの先は明るい。
孫の世話だって、好きな旅行だって、今よりもずっと楽しめる。
残りの余生といったって、残りあと何年生き続けるかわからない。
いくら説得しても母は頑固だった。
昔から頑固だったが、歳をとりさらに頑固になったようだった。
母に手術をしたくない理由を聞いた。すると「もう二度と入院したくない」と言っていた。
よほど寂しかったのだろう。一人で入院していたことが。
よほど辛かったのだろう。麻酔も手術もリハビリも。
私なんかが想像するよりもはるかに苦しく孤独だったのだろう。
しかし私は、母が最近はもう歩くのさえしんどくなって来ていることを知っていた。
家から徒歩10分の距離にあるスーパーでさえ、往復しただけで翌日には疲れて動けなくなっている姿を見ていた。
私はこれ以上母に我慢させたくなかった。
「きっとこの手術が人生最後だし、あの頃と今とでは医療も発達しているから、長期間入院しないで済むよ。それに、車椅子には乗りたくないでしょう?」
母は人一倍プライドが高く、誰にも迷惑をかけたくない、世話になりたくないというタイプだった。車椅子には絶対乗りたくないと普段から言っていたのを知っていた。
母は、その日は「考えておく」としか答えなかったが、後日、手術する日を決めたと、連絡が来た。
入院期間は2週間だった。お見舞いに行くと、母はいつも通り元気だったので心配不要だった。退院し、人工股関節を手に入れると、母は杖なしで歩けるぐらいにまで回復した。
旅行も自由に行けるようになり、母の表情は以前よりも明るくなった。しかし今でも母は頑なに言う。「もう二度と手術はしない」と。
あの時に説得できてよかった。これが本当に、母の人生最後の手術となってほしい。私は本当の意味でまだ親孝行ができていない。母にもっと優しくサポートできるようになりたい。
それまではどうか長生きしてほしいと願っている。
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