雨降って、コスメを買う
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事:水峰愛(ライティング・ゼミ特講)
新宿の一等地にある某百貨店のフロアはパルマローザの香りがする。
正確には、それによく似た華やかで特徴的な香りがする。
パルマローザというのは、バラを爽やかにしたような香りが特徴のアロマの一種だが、しかし調べるところによると、子宮収縮を促進する効果があり、妊娠中の使用は避けることが推奨されているらしい。
だからあれはパルマローザによく似た香りだ。そして、雨の日も風の日も、大雪が降っても猛暑の日にも、そこは必ず同じ香りがする。
私は百貨店が好きだ。
とりわけ、一階の化粧品フロアが好きだ。
最近は観光化の影響で尋常ならざる混雑に遭遇することもあるが、それでも、あの香りや煌びやかなシャンデリアや、つるつるの大理石の床、そしてなぜか透き通るような肌を演出してくれる不思議な照明などが、私を簡単に非日常へ連れて行ってくれる。
そしてその「場」としての非日常感と、物欲を満たすことの満足感とのリンクが、テーマパーク的なカタルシスをもたらしてくれるから。
だから私は百貨店に通う。お金が無くても、買うものが無くても通ってしまう。
むしろ、百貨店で買い物をすることが日常化している人々は、私のような憧憬を抱く事も無いのかもしれない。
その時、私は三十歳で、引っ越してきたばかりの東京で孤軍奮闘していた。
それまでは大阪で、(百貨店が好きなだけに)百貨店内のテナントに勤務していたのだが、夫の転勤が決まり、それに付き添う形で上京したのだ。
あたらしく配属された店舗は、平均年齢が私より六歳は若く、雰囲気も肌の透明度も私より二トーンくらい明るいスタッフたちで占められていた。
私はその店舗で浮きまくっていた。いや、沈みまくっていたと表現する方が正確かもしれない。
今となれば、私が自意識過剰だった面は大いにあるだろう。若い彼女たちに勝手に劣等感と生きる世界の違いを感じて距離を置き、そのよそよそしさから彼女たちからも受け入れられなかった。
コミュニケーション不全からミスも多くなり、周囲の顰蹙を買い、自分より若い店長にはしょっちゅう怒られ、「こんなじゃ困るんですよ」と、子供を宥めるように言われた時は、さすがに帰り道で泣いた。
二十一歳で就職してから、販売業しか知らなかったのだ。
だけど、本当のことにはずっと昔から気がついていたように思う。上京してかつてないほどの正念場に立たされ、そのことをようやく認めざるを得なくなった。
「私、販売に向いてないわ」
言葉に出してみると、すこし楽になった。
思えば、ずっと劣等生だった。最初に就職した化粧品会社でも、売り上げはぱっとしなかった。後輩にも余裕で販売成績を抜かれ、入店先の店長が私の扱いにやや困っていることも知っていた。「今月の強化商品」をお客さんにのべつまくなしに勧めることができなかった。「買うかどうかはゆっくり考えればいいじゃない」と思っていたから、発売前の商品の予約を取るのも下手だった。
それでも私が販売員を辞めなかったのは、辛くても頑張るのが仕事だと思っていたし、周囲の期待に応えなくてはならないと思っていたし、何より私は「きれいなモノ」が好きだった。だから、モノと関わり続けること、モノを買うことのときめきに立会い続けることが、私にできることだと思っていたのだ。
帰り道に立ち寄ったのは、あの百貨店だ。
パルマローザ(仮)の香りを胸いっぱいに吸い込む。
私はその日、山ほど化粧品を買った。ただでさえ薄給の販売員が一日に使える額を遥かに超える金額を、プラスチックマネーで支払った。
両手にブランドの紙袋を下げて歩くのは気持ちが良かった。販売員たちは皆美しく、接客業で私が体得し得なかった全てを身につけているように思えた。そして不思議とその事は、私の劣等感を刺激しなかった。
モノの売り買いという消費の現場において、私はずっとゲストでいたいんだと、その時に気がついた。そもそもやりたくない事をやり続けることが働くということだと割り切っていたけれど、もし、そうでないあり方が許されるのならば、ずっとこうやってゲストでいて、モノを商材としてでなく発掘された秘宝のように扱い、見境無くときめき続け、このモノに込められた物語を、美しさと効能を、これが誰かの生活にもたらす豊かさを、言葉にして表現している方がずっと幸福な関わり方のような気がした。
販売員としての私はかなり酷いものだったけれど、買い手としてはなかなかの才能があるように思えた。
新しい化粧品を買って、つるつるの床を滑るように歩いていると、自分が少しだけ良いものになったような気がしてくる。問題は解決しなくても、煌びやかな世界が、問題の解決に向かう心の健康を養わせてくれる。明日もがんばろうって、ベタだけどそんな風に。
だから私はこれからも買い物をする。「自分へのご褒美」なんて関係なく。
いつか「シンプルな生活」に目覚めて、化粧棚とクローゼットの中身を全部捨てたくなる日が来たとしても、それはそれで悔いはない。
なぜなら、モノは私自身の「今」を映す鏡なのだから。
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