母は、強し
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記事:イリーナ(ライティング・ゼミ平日コース)
「あ~元気かい~? 引越し? 終わった、終わった~。今、風呂入ってきたところさあ。気持ちよかったぁ~」
電話越しの、あまりにハツラツとした母の声に、すっかり拍子抜けした。
クタクタになって、いつものように血圧が上がって、寝込んでいるかと思った。
具合悪くなって、電話にも出てくれないかと思った。
でも、母の声はスッキリと晴れやかで、まるで「何で電話してきたの?」とでも言いたそうだ。
もうすぐ喜寿を迎えようかという年老いた親が、1人で引越しするというのに、私は数日前に故郷を離れた。お盆休暇に加えて有給休暇をとり、解体を控えた実家のあとかたづけに尽力したが、私が何年も置き去りにしてきたガラクタの処分だけで、2週間もかかった。結局、母の引越しの準備が十分にできず、1人で布団を運べるだろうか、ちゃんと冷蔵庫や洗濯機をリサイクルに出せるだろうか、残りのごみを処分できるだろうか、気になっていた。本人が大丈夫とは言っても、長年の高血圧に加えて、数年前には股関節の大手術をした老体だ。こんなときに、最後まで手伝ってあげられないなんて……と、娘としてふがいなさを感じていた。
数年前から、実家を取り壊して、高齢者向けの施設に入居したいと、母は言い続けていた。
しかし、私はなかなか素直に賛成できなかった。
高齢には違いないが、まだまだ元気でしっかりしている。散歩に出かけ、スーパーで買い物を楽しみ、ほぼ毎日魚を焼いて食べる。新聞は隅々まで目を通して、気になる記事は切り抜いて手帳に挟む(そして、帰省した私にまとめて渡す)。掃除は趣味というか、執念に近い。2階建の一軒家に一人暮らしだが、常に整理整頓、ホコリもみあたらない。お風呂上がりの壁だって、一滴の水も残らない。最後に、今日のできごとを手帳にメモしてから布団に入る。
あまりにも規則正しくて、完璧なのだ。
早くに夫を亡くし、子どもたちが家から旅立ち、退職して20年弱。
こんなルーティンを静かに、着実に続けながら、丁寧に生きてきた母。
その穏やかなルーティンを、大きな欠陥もない家を、わざわざ自ら破壊して、なぜ今出ていこうとするのだろうか。
母は、よく言えば真面目で几帳面だが、それは神経質さの裏返しでもある。
旅先では、枕が変わると寝つきが悪くなるし、物音にも敏感だ。
潔癖症で、特にキッチンやトイレはちょっとでも汚れていると我慢ならない。
最近では、まな板が汚れるのが嫌で、牛乳パックを開いてまな板代わりするほどだ。
朝ごはんは(遅くても)7時前、晩ごはんは5時半を過ぎるとイライラし出す。
肉は一切口にしない代わりに、魚がないと落ち着かない。
粗食ではあるが、味にはうるさいので、外食で「おいしい」ということはめったにない。
そんな母が、共同生活にはなじめないと思っていた。
共同生活などこれまで体験したことがない人だ。
隣室の音や、施設から提供される食事のメニュー、共用の風呂場やキッチンの汚れに耐えられないんじゃないかと思っていた。
おまけに、そういう施設に入れば、おのずと彼女のルーティンは激減する。
料理もせず、掃除もせず、そこにただ座っているだけになってしまったら、すぐにボケてしまうんじゃないかと心配になった。
38年間、子育てをしながら教員を続け、フルスロットルで生きてきた人だ。
何もすることが無くなったら、一気に生きる意欲を失ってしまうのではないか。
縁起でもないけれど、初めて、母の〝終わり〟が頭をよぎった。
そんな感じだったから、母にどこか適当な施設を探してほしい、と頼まれたときも、全く気が進まなかった。適当な返事をしながら、やり過ごしてしまっていた。
だが、私は忘れていたのだ。
母が、いかに強い人間なのかを。
終戦間近の、激動の時代に生まれた人だ。
田舎のボロボロの家屋で育ち、一つの納豆を7人家族で分けて食べていた人だ。
お金がなかったので高校の修学旅行に行かず、その代わりに短大を卒業させてほしいと親に懇願し、猛勉強で教員免許を勝ち取った人だ。
夫を亡くした後も、2人の子どもを女手一つで育てあげた人だ。
そんな母の底力を、私はすっかり見くびっていたのだ。
母は、〝偶然〟再会したという学生時代の友人に、ある下宿を紹介してもらっていた。
その下宿は、母がよく知っている地元の名士の親族が経営していた。下宿の階下は高齢者向けのケアホームで、常にスタッフがいて安心だ。下宿は8人のみ。社会人や学生の方が多いので、昼間はほとんど人がいなくて、自由に共用スペースを使える。広いリビングとキッチンは新しくてきれいだ。食事は朝夕だけで、昼は自由に好きなものを作って食べられる。少し行けば大型の商業施設が立ち並ぶ地域で、むしろ今までよりも便利な地域にある。
〝偶然〟というには出来過ぎている。あまりにも、都合のいい居場所を、母は自ら引き寄せていたのだ。
心配した引越しも、近所に住む〝ちづるちゃん〟に手伝ってもらったとかで、難なく終えた。
〝ちづるちゃん〟は、まったく予定には入っていなかったと思うが、これも母の強運が引き寄せたのだろうか。
私は、母を年老いた弱い存在だと思い込んでいた。
いや、思いたかったのかもしれない。
最後は、娘の私を頼ってくるだろうと。私がいないと生きていけないだろうと。
でも、彼女は、私以上に強い存在だった。
そんな強い人は、何の計画や作戦がなくとも、目的を達成してしまうものなのだ。
引越しから1週間がたち、電話で様子をうかがってみた。
「いやぁ、忙しいよ~。イオンまで歩いて行けるわ。んー40分くらいかな? ちょうどいい散歩コースだよ。あ、そうそう、昨日は、向かいの部屋の人と、ほら、あのー、新しくできた大きな魚屋に行ってきたんだよ! やーなんでも売ってんのさー! 欲しいものなんでも言って!! 送ってやるから!!!」
弾むような母の声から、新しい生活環境をいきいきと楽しんでいる姿が見えた。
「親離れ、しなきゃね」
そう自分に言い聞かせて、電話を切った。
≪終わり≫
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