彼女が人を殺しても
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記事:水峰愛(ライティング・ゼミ木曜コース)
好きだった先輩が会社を辞めてしまった。
私は会社にあまり親しい人がいないので、その先輩とも特別に仲が良かったわけではない。
だから、最後の日、「あまりの喪失感に心が折れそうです」などとグズる私に、
「嘘ばっかり。相変わらず面白いね」
そう言って、彼女はいつものクールな態度で笑った。
先輩はとても優しくて、右も左も分からない新人時代の私がこなすガタガタな作業の、その着地点までを見越してフォローしてくれる唯一の人だった。
自身の仕事ぶりもじつに丁寧で、そのことにはチームのメンバーも上司も、一目置いていた。
そして先輩はとても人見知りだった。
新人に対しても、社歴の長いスタッフに対しても、常に同質の緊張感をたたえて接する人だった。それが彼女の性格なのだと特に深く考えずに接することもできる程度のものだったけれど、私にはそれがどうしても彼女の外見的特性に根ざしていると思えてならなかった。
だから、私は先輩を好きだったのかもしれない。
あれはもう3年も前のことだ。
初めて会社のエントランスで先輩を見た時、あまりの美しさに、嘘でなく息が止まるかと思った。
「美人」と呼ばれる人はこの世にたくさんいるけれど、先輩の美しさは、
「美人さんですねー」などど、気安く褒められる類のもとはすこし違っていた。
相手を「美人」だと評価して、それを相手に伝えること。それは、相手の美に対して、自分のモノサシを介入させることでもある。そんなことすらおこがましく思えるような、完全無欠の絶対的美人。
例えば、先輩の名前を知らない人に先輩の話をすると、「ああ、あの綺麗な……」と、一瞬相手の表情が張り詰めるような。そんな経験は、1度や2度ではなかった。
先輩が、自分の美しさを、私が感じたほどに自負していたかどうかは分からないけれど、少なくとも、あらゆる努力によって自分の価値を補強しなくても良い人生を自然に歩んできたであろうことは、容易く想像がついた。
そして、存在するだけで人の心をざわつかせ、一言も発することなく人を魅了し、時に傷つけ、周囲の好奇心によって望んでもいない物語の渦中に放り込まれては疲弊し、静かに世界に対して自分を閉ざしてしまったのではないかということも。
それが、「先輩の人との距離感」に対して私がいつも感じていたことの正体だ。
私自身は先輩に比べると、おそらく道端の石ほども美しくはなかったけれど、そのことは不思議なくらい、私に何の劣等感も嫉妬心も抱かせなかった。
ただ、彼女に見出した「美」の前にひれ伏す甘美さだけを、いつも感じていた。
「先輩になら何をされてもいいな」などと、ややトチ狂ったことを考えながら、「美」の持つ圧倒的な力に酔いしれるのは、気持ちがよかった。
しかし同時に、私は、先輩がどんな食べ物を好きで、どんな芸能人を好きで、または嫌いで、どんな本を読んで、どんな部屋に暮らしてどんな学生時代を過ごし、どんなことに腹を立てて人生で何をいちばん大切にしているのか。そんなことに思いを巡らせたことが、ただの一度でもあっただろうか。
「Idol」の日本語訳は、「偶像」だ。
そして、偶像とは、「崇拝の対象とされるもの」とある。
アイドルを職業としている人たちは、自分の外見的ヒントを元に作り上げた虚像をお金で売っていると言ってもいいのかもしれない。ファンたちは、お金を払ってそこに自分の妄想や願望を投げ込む。アイドルが恋愛禁止なのは、その妄想を邪魔しないための、その妄想こそが商品であることの最も顕著な例だろう。
しかし先輩は、アイドルでもなんでもなかった。
ただ美しく生まれて、粛々と生きているだけだった。
「私の美しい顔を見て」とも言っていないし、「夢をあげる代わりに私を好きでいて」みたいなメッセージも発していない。
生身の人間として生きる彼女を、「好奇心によって望んでもいない物語の渦中に放り込」んでいたのは、他ならぬ私自身だったのかもしれない。
私が勝手に作り上げた世界のなかで、目の前に生きる実在の先輩が、この世の覇者のように君臨する観念上の先輩より確かな意味を持っていたとはっきり言えるか。
思うに、「崇拝」と「軽視」は紙一重だ。
どちらも相手と同じ目線に立ち、同じ人間として扱っていないという意味で。
「彼女が人を殺しても許せる」
そんな風に思ってしまうことは、「美」の持つ力を端的に表している。
しかしそこにあるのは、相手を正面からきちんと理解しようと努める、人間関係における大前提の欠如だったのかもしれない。
せめて、先輩が辞める前に、
「いつもどこでご飯食べてるんですか?」とか
「好きな芸能人って誰ですか?」とか、そんな気楽な会話を交わしておけば良かった。
そのことで先輩が救われるかどうかは分からないけれど、私が先輩に対し、同じ人間としての親しみを持つきっかけにはなったかもしれないから。
誰がどう見ても美しい先輩が、ただ美しい人としての期待を背負い続けるのではなくて、彼女の心から望む幸せに手が届くよう、今の私は願う。
そして、周囲の人々や、これから新しく出会う人々に対しても、同じように願えるような人間関係を築けたら良いと思う。
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