あの日ナイフで刺されたこと
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事:斉藤 三起(ライティング・ゼミ日曜コース)
正論はアーミーナイフみたいなものだと思う。アーミーナイフを使ったことがあるだろうか。ナイフだけでなく、栓抜きやハサミ、ドライバーにもなるのだ。普段の生活では、あまり使うことはないかと思うが、私は、キャンプや海外旅行の際によく持っていく。多機能で便利ではあるが、そのナイフの部分は小さいながらも意外に切れ味が良く、取り扱いには注意を要する。正論は何かと便利なのだ。人に何かをお願いする時、人に何かをアドバイスする時などあらゆる場面で使える。自分の意見をそれっぽいものにしてくれる。私自身も、人との会話の中でよく用いているし、それはいつだって正しいものだと思っていた。けれど、それはナイフのように時に鋭く、取り扱いに注意を要するのだなと実感する出来事があった。
社会人2年目になる頃、ある先輩の営業に同行した。その先輩は、当時の私の指導係だった。お客さんに訪問した後、帰りの電車の中でこんなことを言われた。「早く自分で案件を獲得しなさい。営業だから数字が大切なんだよ。飛び込みとかさ、電話セールスとかで繋がったお客さんを獲得していくんだよ。それが営業マンとしての正しい在り方だと思うよ。何でも自分でやらないと」先輩のこの言葉に対して、私は一瞬ぼーっとしてしまったが、直ぐに「そうですよね。分かりました」としか言えなかった。たしかに、先輩の言う通りだ。飛び込みなどの営業活動を通して自分でお客さんを獲得して行くのが営業マンのあるべき姿なのだろう。隙のない正論を突きつけられ、何も言えなかった。じゃあ、それで何か行動をするきっかけになったのかというと、結局何にもならなかった。私は、何もしなかったのだ。1年ほどその先輩から営業とは何たるかについて指導を受けたが、私は期待通りに成長することが出来なかったと思う。
なぜだろうか。何故その先輩の教えは正論なのに、一瞬頭に入って、すぐにすっぽり抜け落ちてしまったのだろうか。その後、別の先輩と話をする機会があり、どうやれば、できる営業マンになれるのかコツを聞いてみた。そしたらこんな言葉が返ってきた。「入社数年目で、自分で案件を獲得出来たらそれは素晴らしいことだし、理想的なことだと思う。でも、それは現実的じゃないし、実際に自分だけで案件を獲得することは難しい」その先輩が考える自分で営業が出来るようになるまでのサイクルは、こんなかんじだ。先輩達からもらう小さな仕事をこなし、お客さんとのやり取りが出来るようになる。それから頼まれた仕事やお客さんとのコミュニケーションのボリュームが増えていき、新規案件獲得に向けて何かしらの行動がとれるようになる。この先輩の言うことは、私が知る限りの営業論で言うと正論ではないかもしれない。でも、その先輩と話をしてから、不思議と出来ることから始めてみようと思ったのだ。小さいながらも次の行動のきっかけになった。まずは先輩から任された小さい案件をこなして、お客さんとのコミュニケーションの量を増やしていく。お願いされる仕事の量も増える。そこで培った知識と経験が、自分で案件を獲得する力になる。少し時間はかかったが、数年後には実際に自分で仕事を取ることができた。
これらの体験を通して、正論は、必ずしも人の心を動かすものではないのだなと学んだ。むしろ、それを向けられても何の行動にも繋がらないことの方が多い。二人の先輩を比べてみてよく分かった気がする。人の心を動かすのに大切なのは、正論ではなく、あなたの立場や考えを理解していますよというスタンスを言葉の中に忍ばせることなんだろうと思った。私の心を動かしてくれた先輩の言葉は、当時の私の気持ちに寄り添ってくれているように思えた。子どもを諭す時、誰かに怒る時、相手にお願いをする時、正論があるだけでそれっぽい意見になる。でも、アーミーナイフのように様々な場面に使えても、使い方次第で、鋭利な刃物になり得ることを忘れてはいけないと思うのだ。振りかざされた相手は動けなくなり、何も言えなくなる。逃げられないのだ。
年も明け、4月が近づいてくる。人事部から連絡があり、新入社員の指導係に任命された。今度は私が新入社員の指導をするのか。どんなふうに指導にあたろうか。アーミーナイフの使い方を見極めなければ。正論というナイフを振り回さないよう気をつけたいと思う。
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