メディアグランプリ

差別用語が笑いの種になった時、平和という花が咲く


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

【2月開講】人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ《平日コース》」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:坂田光太郎(ライティング・ゼミ平日コース)
 
 
「へえ、左利きなんだね」友達がビールジョッキを掴んだ左手を見てそう言った。
「そうそう、ギッチョなんだよね」と私は言ってビールを1口した。
でも、友達はなぜかビールを飲まなかった。こちらを不思議そうに見ている。
「え? どうしたの」私は尋ねると彼は意外なことを言った。
「ギッチョってなに」
 
私にとって「ギッチョ」は気持ち悪い言葉だ。
よく「左利きなんだ。じゃあ、ギッチョさんだね」と言われた後
「あ、ごめん。そんなこと言っちゃいけないね」と何故か謝られるのだ。
勝手に「ギッチョ」と言われ、勝手に謝られる。
それはこの言葉が差別用語だからだ。
 
「へえ、差別用語なんだ。でもなんで差別用語なの」
理由は私もわからない。
そう告げると彼は「ギッチョ」について調べ始めた。
諸説あるが、有力なのは江戸時代の「ギチョウ」という球技からという説だ。
球技はクラブのようなものを使うらしく、左利き用クラブを「左ギチョウ」と呼び、球技がなくなった後も、なぜか「左ギチョウ」が残ってしまった。
という説明の中に差別用語に当たることは書いていなかった。
「なんで、書いてないんだろう」
「う〜ん。言葉が生まれた時には差別的な言葉じゃなかったんじゃない」
「どういうこと」
「言葉が生まれたあと差別的なイメージをつけたんじゃないかな」
「誰が付けたの」
「わからないけど、おばあちゃんは元々左利きだったんだ。右に慣れるように矯正されたらしいよ。右利きが美徳っていう時代があった時、ギッチョに差別的な意味がこめられたんじゃないかな」
「へー、でも左利きが衰えている人だとか言う人はいないよね」
「そうそう。もしかしたら、ギッチョの言葉が、差別用語とも知らない若者が多いかもね」
きっと差別用語だと知る大人は口にしない。20代の彼がその言葉に出会う機会がなかったのだ。
「なんか面白いね。それに差別用語でもないのに勝手に、使用禁止用語になって、人から忘れられるなんて、ちょっと切ないね」と彼は笑いながらビールを飲み干した。
「全くだな」
本来の意味も、差別用語である必要もなく、死語になった。
そして、今や笑いのタネになった。
 
差別は自分とは違う事への防衛策だ。
人間は異文化とか、自分と違う事に拒否反応を出す生き物だ。
自分と違うものはどうしても、怖く感じる。
その怖いものから自分を守るために差別があった。
自分と違うことに拒否反応を示していた時代が長く、その中で差別用語が生まれたのだ。
 
でも、最近思うことがある。
自分との違いは笑いの種なのではないかと。
そう思ったのは、ある車椅子を利用した女性とカフェに行った時の話である。
ちなみに私も障害者であり彼女とはいわゆる障害者仲間だ。
カフェでは、あまり見かけることの少ないタイプの彼女の電動車椅子の話になった。
「あーこの車椅子、外車だからあんま見ないよねー。上下に座椅子が動くから便利だよー」
「へー、便利だな。どれぐらい高くまで行けるの」と友達が言った。
「え、わからないけど、みんなより高く行けると思う」
「え! マジ」
私の身長は160cmほどだ。それより高く行けるらしい。
「やってみて」カフェが顔なじみということもあり、了承を得て、彼女はマックスまで上げてみた。すると、私の顔の位置に彼女の足があるのだ。
感覚ではあるが1mは伸びたのではないだろうか。
「マジか! めっちゃ高いやん! ウケる」と2人で笑っていると
「私も、こんなに高くなると思わなかった」と彼女も爆笑した。
この笑いの裏にお互いの信頼がある。
私らが悪い意味で笑っていないことを彼女は知っているし、彼女が笑って悪い気にならないのも私らは知っている。
これが初対面の車椅子ユーザーさんだったら、「笑ったら差別していると思われて失礼かな」と思い、笑うこと躊躇するかもしれない。
「ここまでウケるなんて思わなかった」と彼女は笑いながら言った。
恐らく「失礼かな」と思う人と出会ってきたからだろう。
「コレって差別かな」と思う感情が邪魔をしているのだ。
しかし、お互いを知ることで、その感情は消える。
彼女ともお互いのことを知らなければ、あの爆笑は生まれなかった。
お互いを知れば、お互いの違いが、笑いのタネになるのだ。
 
昔は左利きの人を衰えていると見ていたのだろう。
でも今や、そんな風習はない。
だから「ギッチョ」は差別用語であったことも、認識されない言葉になった。
そして、私のように足の障害がある人も普通に街で見かける時代だ。
果たして差別用語が存在する意味はあるのだろうか。
当然、言われて傷つく人もいるので今は慎重になるべきだ。
でもいつか、差別と思われていたものがなくなると思っている。
「差別なんて昔の人はしていたのだろう」と居酒屋で笑いあう光景が当たり前になると思うのだ。
差別用語が笑いの種になった時、平和という花が実る。
そして、その花が咲く日は意外に近いと私は思うのだ。
 
 

*** この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加いただいたお客様に書いていただいております。 「ライティング・ゼミ」のメンバーになり直近のイベントに参加していただけると、記事を寄稿していただき、WEB天狼院編集部のOKが出ればWEB天狼院の記事として掲載することができます。 http://tenro-in.com/zemi/66768

天狼院書店「東京天狼院」 〒171-0022 東京都豊島区南池袋3-24-16 2F 東京天狼院への行き方詳細はこちら

天狼院書店「福岡天狼院」 〒810-0021 福岡県福岡市中央区今泉1-9-12 ハイツ三笠2階

天狼院書店「京都天狼院」2017.1.27 OPEN 〒605-0805 京都府京都市東山区博多町112-5

【天狼院書店へのお問い合わせ】

【天狼院公式Facebookページ】 天狼院公式Facebookページでは様々な情報を配信しております。下のボックス内で「いいね!」をしていただくだけでイベント情報や記事更新の情報、Facebookページオリジナルコンテンツがご覧いただけるようになります。


2019-01-18 | Posted in メディアグランプリ, 記事

関連記事