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最期の3か月で一生分甘えきった父に、人生最大のつじつま合わせを感じた


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:月野ミナ(ライティング・ゼミ土曜コース)

「おねえちゃん! お父さん、今朝ベッドから落ちて動けなくなって、救急搬送されたよ」

寒い冬の日の朝の、妹からの電話。

ちょうど1年前の昨年1月末、母の一周忌を終えてから父の腕の痛みは急激にひどくなっていた。腕全体がものすごく痛む、と言う。しかし、整形外科で調べてもらっても、なにが原因かもわからない。

それからさらにさかのぼること1年。難病だった母が亡くなったとき、後期高齢者2年めだった父は、日ごろボーリングを楽しみ、母の介護もし、飲み会にも出かけと、元気印の健康優良なおじいちゃんだった。

要介護だった母が逝き、父は自由の身になった。ボケとは無縁で家事も完璧にこなし、社交的な人だから、父の一人暮らしに遠隔地に住む私も妹も心配はなかった。

だがしかし。

日常の時間の大半を使っていた母の介護もなくなり、死亡に伴うこまごまとした雑務が終わると、父はすることがなくなった。

「いつでも飲みに行けるし、長く旅行にも行けるし、自由だね」
と多くの人たちに言われていたが、父に必要なのは「任務」だった。つまり、必要とされること。

自由の身となった父に、決まった「任務」はなかった。

もともと社交的な父。あちこちでお世話係も引き受けたりしていた。
しかし、ルーチンな「任務」がなく、ひとりでぽつんと朝から晩まで家にいるのはかなりつらいことだったようで、2,3日に1回は飲みに行っていた。

そして、腕の痛みが始まった。最初は筋肉痛かと思うくらいだったが、少しずつ少しずつ痛みは大きくなってきたようだ。

「お父さん、大丈夫? 家事とか手伝うから言ってね」

私と妹、ふたりとも遠隔地に住んでいるため、1か月に一度ほどしか来られなかったが、父を気遣った。しかし父はなんでも自分でこなす
人だったため、なかなか私たちを頼ることもしなかった。

さすがに痛みが全身まで回りだしたときは、私が来た日は家事をすべて引き受け、数日分の簡単な食糧なども用意した。家事介護サービスを少しでも早く受けられるようにと手はずを整えようとしたが、そこはまだ父は受け入れなかった。

そして2月下旬。妹が泊まりに来た日の朝に父は救急搬送されたのだった。

下半身完全まひ。車いすにも乗れない状態。詳しい検査の結果、末期の肺がんだった。

おどろくほど速いがんの進行。
下半身はぴくりとも動かず、ベッドの上で寝返りも打てない状態。

それは、一般的に考えたら「ひどい状態」かもしれない。
だが、ちがった。
かわるがわる看護師やスタッフが訪れ、ボタン一つで夜中でも看護師が駆けつけてくれる病室は、社交的で話し好きの父にとっては、非常に安心のできる場だった。
そして、なかなか助けを受け入れられなかった父は、下半身まひになることで、身の回りのことすべてを他人に任せるしかなくなった。すべてをやってもらうしかなくなった。

入院してもボケることはなく、病院のスタッフにも積極的に話しかけ、いろんな話をしていたようだった。

末期がんだったが、いつも前向きで、「必ず治る」と言っていた。
それが、父の生きる活力だったのかもしれない。

入院が長引いたので、1か月ほど施設にも移ったが、そこでもまたたくさんのスタッフたちと仲良くなった父。

しかしほどなくして意識不明になり、再び入院。意識を取り戻してからは、先が長くないことを悟り、私と妹に初めて

「俺は甘えたい。どちらかに必ずずっとついていてほしい」

と頼んだ。こんな父は初めてだった。

私も妹も早くに家を出ていたので、父と「暮らしていた」のはもう、はるか前のこと。
父の願いを受け取り、私たちはその日から最期の日まで、ずっと同じ部屋にいっしょにいた。これほど長い時間近くにいたのは、何十年ぶりだろう。

父はいちど意識が戻ったが、また少しずつ少しずつもうろうとし、最大限に痛がり、モルヒネなどの強い薬でそれを抑えていく。
だんだん、意識が戻らなくなってきた。

最期の息を引き取る瞬間まで、私と妹はつきっきりだった。

お父さん、よかったね。私たちずっといっしょにいたよ。
お父さんは入院してからの3か月、何十人ものたくさんの新しい人と知り合い、たくさんの人に無条件で助けられて、娘たちにも遠慮なく甘えられた。
人生でやってこなかった『甘える』こと、すべてこの3か月でやりきったんだね。

なんでも自分でやり強がりだった父。「助けて」や「手伝って」なんて、ふつうの状態だったら絶対言えなかったから、こうなるしかなかった。

人生のつじつま合わせ。
「末期がんで下半身まひ」と聞いたら、一般的には「大変な状態」だけど、父にとっては、人生最大の「甘えポイント」だったのだ。そしてこの3か月で、一生分、甘えつくした。
少なくとも私はそう受け取っている。
人の死は、遺された者がどう受け止めるかが、すべてだから。

お父さん、最後までありがとう。あなたの娘で、本当によかった。

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2019-01-24 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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