粋な計らい
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
【3月開講】人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ《火曜コース》」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:田中義郎(ライティング・ゼミ日曜コース)
「田中先輩、ご無沙汰しています」
瞬間、誰だか分からなかった。よく見ると中学の後輩の一宮則夫だった。
「お久しぶり。どうしたの、変わったね」
彼にはかつての面影がなく、別人のように思えた。
「少しお時間を頂戴してもいいですか?」
仕事帰りの京都駅のことである。
彼は車のセールスマンだった。十数年前実家に帰ったとき、彼の存在を始めて知った。一度も会ったことのない後輩だったが、ぼくの名前を勝手に使って実家やその周辺でセールス活動をしていたのだ。
「私は田中先輩の後輩です。年は離れていますが、今でもいつもお世話になっています」
このうたい文句で、すでに実家の向こう三軒両隣はすべてタヨト車になっていた。このことがきっかけで彼と知り合った。
一度だけだったが彼の家に招待されたことがあった。成績優秀の賞状が何枚も部屋に飾られていた。「売る」ことに関しては他者を寄せ付けなかったのだろう。会社では常にNo.1セールスマンの地位を守り続け、40歳の半ばで店長に抜擢された。彼の精悍な姿が強く印象に残っていた。
それ以来の再会だった。
居酒屋でビールを注文し名刺を差し出した。彼は、タヨト〇〇県自動車販売の関連会社に出向していた。肩書は代表取締役社長。一見出世しているように見えたが実はそうではないと言う。
「社長というのは名前だけです。床の間に飾られている社長です。親会社内藤社長の計らいだと思っています。『良く頑張った。ゆっくり休養してこい』と送り出して頂きました。身を粉にして働き、会社発展の礎を築いた勲章だと受け止めています。しかし、来年の3月で退任が決まっています」
さまざまな思いが迫ってきたのだろう。最後は涙声になっていた。
「ある時期を境に、急に(車が)売れなくなりました。私は自信を失い、精神的なストレスから、しばらく入院していました」
彼は続けた。
「お客さんとの繋がりが私の命でした。時間をかけて築き上げた人と人との繋がりは簡単に崩壊しない。私が誠意をもって接している限り崩れない。この熱い思いが実績に繋がり自信に繋がっていました。
ところがお客さんの笑顔があるときを境に変わっていたのです。私を哀れむような同情の笑顔に変化していたのです。思うように(車が)売れず、トップの座もそのとき失っていました」
彼は一息つき、さらに続けた。
「何が起こったのか、何が何だか分からなくなりました。気が付くのが遅かったんです」
ぼくは尋ねた。
「顧客名簿に何を書いていたの?」
「顧客名簿にトップセールスマンを続けられた秘密がありました。お客さんと面談した直後に、そのやり取りを一字一句漏らさないように書きました。時間はかかりましたが、その場では気付かなかった新しい発見がありました。面談の回数が増えてくると、お客さんの心の内が徐々に見えてくるようになってきたのです。その心の内も入力し次の提案に繋ぎました」
彼は顧客名簿について得意げに語ってくれた。
深夜に帰宅しても直ちに着手する。記憶が生々しく残っているときにリアルに書き綴る。その日の成果や反省や次の提案も含め、たとえ徹夜になってもその日のうちに書き上げる。
顧客名簿がトップセールスマンの座を守り続ける礎になった。ぼくはそう確信した。
「面白いほど契約できました。すっかり有頂天になっていました。しかし、現実は厳しかった。いつまでも続かなかった」
ビールを一気に飲み干すのを待って彼に尋ねてみた。
「その顧客名簿、今も大切に保存している?」
「はい。いずれ捨てようと思っていますが」
「良かった」
彼は怪訝そうな顔をして
「どうして顧客名簿がセールスマンを辞めた今の私に必要なんですか?」
彼の質問に答えず、ぼくはさらに質問した。
「何年セールスの仕事をしていたの?」
「35年間、一途に取り組んできました」
ぼくは安堵した。
「君は人間関係のプロだ」
「君はプロになるだけのポテンシャルを持っている。君が気付いていないだけだ。それだけの経験があり、しかも、仕事を支えた生のデータが残っている。君にその気があればプロになれる」
ぼくは確信を持って彼に伝えた。
彼は35年、さまざまな人間と接してきた。遜って人間を見てきた。
顧客名簿には、嬉しかったことも辛かったことも、そして、さまざまな人間模様が逐一詳細に、しかもリアルに記述されている。そして何よりも、一途に1つの道を歩み続け、常にトップの座を守り続けてきた。その気概を持ってすれば、人間関係のプロになることは容易いと判断した。
「顧客名簿は今まで車のセールスに使ってきたが、用途は1つではないよ。今度は『君の人生』に活用すべきだ。うまく活用すれば、君は人間関係のスペシャリストになれるとぼくは思う」
「えっ?どうしてですか?これから私は何をすれば良いのですか?」
ぼくは笑って答えた。
「何が何でも顧客名簿を丹念に読み返す。君は床の間の社長だ。時間はたっぷりある。その時間を自分のために充てる。読み返す時間に充てる。君は『面談を何回も繰り返している中に、人の内面が見えるようになってきた』と言った。今度は売る立場でなく人間関係のプロになるという気概で、その視点から読み返せば、何か新しいものが見えてくると思う。なぜ、急に売れなくなったのか、その究明もできるだろう。きっと今まで見えていなかった人間の心や内面が徐々に鮮明にイメージできるようになると、ぼくは思う」
真剣な眼差しで彼は聞いていた。
ぼくは付け加えた。
「帰宅してからも読み返す時間はある。興味が湧いてくれば人間関係の専門書を読みたいという意欲も湧いてくる」
彼は考え込んでいるようだったが、ぼくはさらに付け加えた。
「君を床の間の社長にしたのは、親会社の内藤社長の『粋な計らい』だったと思う。内藤社長は君の努力を知っていた。顧客名簿のこともすべて承知していた。だから、君に感謝の念を込めて関連会社への異動を命じた。君にもう一度、一花咲かせてもらいたかったのだ」
彼は嬉しそうに笑った。昔の笑顔のように見えた。
「先輩、きょうはこれで失礼します。居ても立っても居られなくなりました。帰ってすぐ取りかかります。お礼は改めて伺います。有難うございました」
深々とお辞儀をして彼は去っていった。
ぼくも嬉しかった。しばしその感慨に浸っていた。
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