天狼院通信

温泉で片方のコンタクトを落としてしまった話《代ノート》



きっと疲れていたんだと思う。

いつもはそんなこと、するはずはないのに、あまりに温泉がきもちよかったせいなのか、コンタクトをつけたまま顔を洗ってしまった。そう、私はコンタクトをしているんだけれども、家ではメガネにしているし、お風呂に入るときはもちろん、メガネやコンタクトを外すので顔を洗っても大丈夫だった。

気づいたときには遅かった。恐る恐る、目を開けてみると温泉の薄暗い壁がぼんやりとしかみえなかった。それでも、一縷の希望にすがって、まぶたの上から眼球をさわってみる、もしかして、ズレただけでまだ目の中にいてくれているのかも知れない。もし、いなかったらどうしよう。私は強度の近眼だし、乱視も入っている。コンタクトレンズやメガネがなければとても家にたどり着けるとは思えない。家どころか、更衣室の自分のロッカーも探し当てられないかもしれない。

胃のあたりが重くなってきた。いやな感覚だった。
誰かに電話して、温泉で顔を洗ったらコンタクトが流れて帰れなくなったから迎えに来て、なんて幼稚園児みたいなことは私にはいえない。かといって、夜道を帰るとき、視力のない私は真っ暗闇を歩くようなものだから、手探りで帰らなければならない。
しかも、今日はとても暑かったから、薄着だ。夜道でそんな怪しげな動きをしていたら、声をかけてくださいと言っているようなものだ。

おねがい、あって!

もう一度、目を開けてみる。
右目が見える。やっぱり、右目はズレていただけだったんだ。

「よかったー」

と、ほっとした瞬間だった。左の頬のあたりから、何かがこぼれ落ちる感覚が皮膚の上に残った。

え、何? まさか……。

ふと、水面をみると、一部分が小さく丸く凹んでいるのがわかった。最初は泡かと思ったけれども、もしかして、と手を伸ばしてみてもその凹みは消えてなくならない。

右目だけではっきりとはわからなかったけれども、間違いないと思う、左目から落ちたコンタクトが温泉の水面に浮いている。危ういバランスを取りながら、たしかに浮いていた。でも、どうやってすくい取ればいいの? 不幸にも、そこにある数ある温泉の中で、もっとも濁っている泉質の温泉に、そのとき、私はいた。他の温泉なら、湯の中の脚が上からでも白く見えるだろうけど、この濁り湯は視界がほとんどゼロだった。たぶん、ワンチャンスしかない。金魚すくいの要領で行けばいいんだろうか、でも、小さい頃から私はお祭りの金魚すくいで金魚を救ったためしがなかったし、きっと金魚すくいよりも濁り湯温泉でのコンタクト救いは難易度が高い。

掬おうと手を近づけると、ゆらゆらとその水面の凹みは遠ざかっていく。危ない、バランスを崩すと水没してしまう。そうこう静かに悪戦苦闘しているうちに、すっと右の方に影がさすのがわかった。え、まさか、と思うまもなく、水面は大きく揺れた。新しく入ってきた人がいた。

「あっ……」

と私は、きっと切ないような声を出してしまったはずだ。でも、私の今の苦悩や奮闘なんで、今入ってきたその人にはわかるはずなかった。きっと私の左目から落ちたコンタクトだったろう水面の凹みは、一回転して濁った水底へとおちていった。掬おうとしても、もちろん、手に収まるはずがなかった。何度かかき上げようとしたけれど、もうコンタクトらしきものは水面に戻って来なかった。

後から入ってきたひとを恨んでも仕方がない。だって、誰も水面にコンタクトを落としてそれを拾おうとしていただなんて思うはずがない。そう、マヌケな私が悪いのだ。

諦めて、私はふうっとため息を吐いて、あらためてその私の左目のコンタクトを飲み込んだ温泉に身を委ねてみた。気持ちいい。憎たらしいほどに気持ちいい。

試しに、片目ずつ、世界を見てみた。
右目はまだコンタクトが乗っているから、くっきりと見える。湯気の向こう側に私の他にも何人かの人がいた。同僚と一緒にきてきゃっきゃ言っている若い人たちもいた。見渡すと、湯気をカーテンにして、白い裸がたくさんあった。考えてみると、人の裸をこんなに多く見る機会もない。
今度は右目を閉じて左目だけで見てみると、コンタクトが乗っていないから、ぼんやりとしか見えなかった。きゃっきゃ言っている若い人たちは、もう、幽霊のような白い影にしか見えなかった。けれども、不思議と視界がさやかではない分、耳が冴えるようだった。どうすればいいと思う、と振り向いてくれない恋人のことについて話しているようだった。
見える世界と見えない世界。
2つを比べると案外面白いことに気づいた。

その温泉にはバーデという男女共用部分があって、そこには水着を着用して出ていくことになる。私は水着を見られるのにちょっと抵抗はあったけど、うん、誰も知らない人だから大丈夫、と自分に言い聞かせると気にならなくなった。

共用部分の温水プールに出て行くと、視線が私に集まったように思えた。前に旅行のときに買った水着だったからちょっとバカンスっぽくて、他の人がつけているような競泳用の水着みたいな感じじゃなかったので、目立ったのかなと思った。それに海に行くとみんなに「あなたは色が白いから海が似合わない」と言われるのを思い出したけど、ま、知っている人はいないだろうから、気にしない、気にしない。誰も私を見ているはずなんかない。

温水プールに入って、下から泡がぷくぷく出ているところに行って、体を浮かせてみた。気持ちいい。重力から自由になると、なぜか、全てから自由になれるような錯覚を覚えた。

浮かびながら、ライトでキラキラと光る水面を見てみる。
右目はまだコンタクトが乗っているから、くっきりと見える。小波のように波だった水面にライトが反射して、キラキラときれいだった。私はあやうく、少女のように「わぁ」と声を上げそうになった。
今度は右目を閉じて左目だけで見てみると、コンタクトが乗っていないから、ぼんやりとしか見えなかった。けれども、乱視の目に、光が綺麗に拡散して、星の光のように、より綺麗に見えた。見えないのも、悪くない。そして、見えない分だけ、耳が冴えるように思えた。水が流れる音が心地よかった。なぜか落ち着いた。
見える世界と見えない世界。
2つを比べるとやはり、面白い。

外に行って、サウナの小屋に入ってみた。
一組のカップルが先客でいて、ひとりで来た私をガン見したけれど、気にしない。サウナで汗を流してみようと思った。
右上に12分計という12分で一周する針が一本の時計があった。外には10分位で出たほうがいいというようなことが書いてあったけど、どうせなら、一周するまでいようと思った。
少しするとカップルが、もうダメだ、暑い、なんて言いながら去って行った。ちょっと勝ったと思った。けど、あの二人は私よりもはるかに前に来ていたから、これは勝ったうちには入らない。つぎに大学生くらいの男の子二人が入ってきた。私は、なぜか、負けられないと思った。そう、こう見えて私はとても負けず嫌いなのだ。ムダに負けず嫌いなのだ。彼らは結構粘った。十二分計で4分位はいたと思う。でも、暑い、もう無理、なんて言いながら去って行った。完璧に勝ったと思った。よし、と小さくひとりでガッツポーズした。つぎに、なんだかいわく有りげな、壮年の男性と若い女性のカップルが入ってきた。壮年の男性はお金持ちの風格を持っていた。裸でも、わかる。男には風格というものがきっとある。そして、若い女性の方はそのお金を享受している雰囲気をもっていた。私は、庶民代表として、この二人だけは負けらないと思った。もちろん、誰も私を代表に選んだわけではないけれども。たしかに、ハンデはあった。私はもう6分は入っている。でも、このカップルはたった今入ってきたばかりだ。不利な戦いになるとはわかっていた。でも、ムダに負けず嫌いの私は負けられないと思った。
サウナに入ってから10分が経とうとしていた。私はほとんど限界だった。汗みずくだった。けれども、そのお金に物を言わせていそうなカップルは、いや、それも勝手な妄想だったけれども、汗を流しながらも、まだ談笑していた。もうダメなのか。でも、私にはひとつだけ勝算があった。おそらく、壮年の男性は、リッチマンだ。ということは、基本的にMだ。Mは努力をするのが苦にならないし、逆境にも強いから、成功する可能性が高い。だから、サウナなんてへっちゃらだと思う。でも、一緒にいる女性は違う。きっと、彼女がはじめに音を上げるはず!
私は、ターゲットを完全にその女性に絞っていた。私はもう11分は入っているが、彼女だって5分くらいは入っている。
そろそろ、音を上げる。
音を上げるはず!
音を上げて!
お願いだから、音を上げて!
私のその思いが通じたのか、念力となって彼女を息苦しくさせたのか、彼女はついに「もう、私限界!」と言って、サウナから出た。壮年の男性ももちろん、それについていった。
勝った!やったー!
予想以上に嬉しかった。意味のない勝負だけど、嬉しかった!庶民代表として面目を保ったと、私はどこか誇らしかった。

でも、ダメージが大きかった。12分はやはり、長かった。
私はサウナから出て、入り口の水飲み場で水を飲み、外のロングチェアーにバスタオルを布いて、横になった。
ぼーっとする頭で、裸の夜の空を眺めた。
田舎とは違って、星はそんなには見えなかった。けれども、上空を飛行機が飛んで行くのが見えた。翼の先の灯りが見えた。機体の影が見えた。

右目はまだコンタクトが乗っているから、夜だけどくっきりとその機影が見えた。
今度は右目を閉じて左目だけで見てみると、コンタクトが乗っていないから、少しも見えなかった。そうか、視力がないと見えないものもあるんだ、と思った。
もしかして、世の中にも、ある人にはくっきりと見えていて、でも、他の人には見えないことって案外多くなるのかも知れない。
同時に、見えなくてもいいことが、世の中には多くあるのかも知れないと思った。
見える世界と見えない世界。
2つを比べるとやはり、面白い。

 

―あ、いっけね。
申し遅れました、今回の記事の担当は天狼院書店店主の三浦でした。

今、エースの川代が夏休みで沖縄旅行に行っているので、《川代ノート》の「代わり」に《代ノート(かわりノート)》を書かせて頂きました笑。
途中で、あれ?なんか、今回、川代さんと違うな、と思った方、さすがです!読み人です!
最後に、えー!そうだったの!?と思った方、いや、まさか、いないとは思いますが、万が一いたら、まだまだ修行が足りませんなー笑。

では、川代が戻って来て、新しい記事がアップされるのをお楽しみに!
じゃ!

ちなみに、騙されてしまった方、もう一度、僕が書いたと思い直して読んでみると、案外、面白いかもです。なんていっても、この話、実話なんで。

 

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2014-08-13 | Posted in 天狼院通信, 記事

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