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幼稚園児が見た「超巨大台風」の恐怖


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:やまもととおる(ライティング・ゼミ平日コース)
 
「もっと注意して歩きなさい!」「早く、早く!」と、何度も何度も、両親から怒号が飛んだ。
 
真っ暗な暴風雨のなか、一家4人が大慌てで避難した先は、父親が勤めていた紡績工場だった。
屋根瓦や木板が強風で飛ばされて空を舞っており、母親は生まれて間もない弟を抱いていた。
 
大きな台風が来るということは、その日の朝から、両親が怖い顔をして話していた。
そのうちに、凄い雨風の音がして、木造一軒家の社宅が、ガタガタと激しく揺れ出すようになった。
弟はまだ生まれて1年も経っていなかった。そのベビーベッドの上に、天井から雨水が浸水してポタポタ落ちるようになった頃、「工場へ避難するように」との連絡が家にも回ってきた。
当時一家4人で、三重県四日市近くの楠(くす)という町の、紡績会社の工場団地に住んでいた。
工場の周りで、そこで働く従業員の家族が、社宅住まいで日々の生活を送っていた。
高度成長時代。父親は、工芸繊維大学を卒業して、そこで働く技術者だった。
そしてボクは、工場の女性社員さんが先生を務める併設幼稚園の園児だった。
 
1959年(昭和34年)9月26日。18時過ぎ。
和歌山県潮岬に上陸した「伊勢湾台風」は、最低気圧が895ヘクトパスカルという超巨大台風。
上陸時にも930ヘクトパスカル。瞬間最大風速は45m/秒。
阪神・淡路大震災後にインターネットで調べて初めて知ったのだが、伊勢湾台風は死者4,697人・行方不明者401人といい、死者3,000人以上を出した昭和の3大台風の中でも、最悪の被害の台風だったらしい。神戸の地震までは、「戦後、最も多い犠牲者を出した自然災害」だったのだ。
 
でも、そんな知識は、幼稚園児にはない。
初めて足を踏み入れた、父親の勤める工場の現場ライン。
しかも夜中に幼稚園の友達とそこで会うという、とんでもない非日常な状況の中で、子供たちはみな興奮状態になった。夜なので稼働を停止している、見たこともない大きな繊維製造機械は、ジャングルジムとしか見えなかった。
「そのうち眠くなるだろうから、好きなように遊ばせとけ」という親たちの声も聞こえた。
危なくないかどうか見守る大人が付きはしたが、どのくらいの時間遊んだのかはよく覚えていない。
目が覚めたら、もう朝だった。
 
朝、既に台風は去っていたが、家へ帰ると、自宅は悲惨なことになっていた。
台所が半分消えてなくなっていた。これで母親は三度の食事の準備に四苦八苦することとなった。
樹木があちこちでなぎ倒されていた。庭を囲んでいた木の塀は、三方向、道路側に倒れていた。
そのため、暫くのあいだ、道行く人から自宅が丸見えだった。
 
これも後で知ったのだが、この時、名古屋港が6メートル近い高潮に襲われ、濃尾平野があっという間にまるで海のようになってしまい、多くの方々が溺死で亡くなったとのことだ。
行方不明者の数が多いのも、そうしたことが原因なのだろう。
 
社宅では床上浸水の家も多かったが、不幸中の幸いで、自宅は床下で済んだようだった。
しかし台風が去った後に、伝染病を防ぐための消毒車が各戸を回って、白い煙のような消毒薬を家じゅうに散布していった。
怪獣みたいな大きな車が突然来て、煙を家の中に一気に吐くのがとても怖くて、ボクは家の近くを泣き回っていたらしい。長い間、両親にも近所の人にも、このことで随分からかわれた。
 
大人になってから、単なる巡り合わせであるが、阪神・淡路大震災や東日本大震災時に、会社の対策本部の一翼を担わせていただいた。
災害に関する「ニュース」や、自社の「状況」の把握と集約。
会社施設に来られている「お客様」や、働く「従業員・ご家族」の安否確認。
「お得意先」の状況確認、支援手配。
「施設」の損壊状況の把握、復旧手配。
被害に遭われた方々への最大限の「お見舞い」と「援助」。
そして「社会や地元」の方々への救援物資、義援金の提供や、復旧支援。
 
そうなって初めて分かることだが、様々な準備をしているつもりでも、実は漏れていたり抜けていたりすることが多い。そもそも、「想定外」のことが次々と発生するのが、「巨大自然災害」の恐ろしさだ。
例えば、一度電話や携帯の通話を切ってしまうと、現地とは2度とつながらない。
今は多くの企業が、災害時にも切れることのない専用衛星電話を主要事業所に備え置くようになったが、阪神・淡路や東日本の時ですらも、そんな準備は殆どの企業ができていなかった。
神戸は1995年だが、社員に携帯電話さえ、1台も配備していなかったのだ。
 
伊勢湾台風は、1959年。会社の方々や社宅の人々は、どれほど不安で、大変だっただろうか。
 
避難した工場で、機械をジャングルジムに見立てて遊んでいた自分が、今になって凄く申し訳ない気持になる。子供に罪はないだろうが、自分自身のことだ。どうしても、そうした思いになってしまう。
 
地球環境の変化と開発のやり過ぎで、世界的にも、また日本でも、近年は「異常気象」が続く。
「大きな地震の発生確率が、近い未来に50%から70%」との予測数字が、平気で巷を賑わすようになっている。
 
いくら想定外が起こる災害であっても、「事前にできうる最大限の備えをしておくこと」と、「いざ災害が起こった際に、慌てずに情報を素早く集めて即断即決。常に、お互いに助けあう行動をする」ことが、最も重要な鍵であることは、改めていうまでもないだろう。
 
「巨大な自然災害が、極力起こらない」ことを心から祈りつつ、改めて「せめて自分自身の備えは、きちんとしておこう」と、幼稚園児だった昔をふと思い出して、心に誓った。
 
 
 
 
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2019-04-22 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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