メディアグランプリ

定年直前の先輩から教えられたこと


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:高林忠正(ライティング・ゼミ夏休み集中コース)
 
 
「あれ、ない!」
大型のブリーフケースに入れたはずの提案書が見当たらなかった。
東京都中央区八丁堀のカフェで私は自分のうかつさに愕然としていた。
クリアファイルに入れた提案書20セット分をその前に立ち寄った、江東区東雲の会社の倉庫に置き忘れてしまったのである。
 
 
その日の午前11時から、カフェから徒歩5分の距離にある大手飲料メーカーさんでプレゼンテーションが予定されていた。
時計を見ると午前10時30分。
しかも時間の変更をお願いできる状態ではなかった。
プレゼンはそもそも先方から指定された時間だったからである。
 
 
その飲料メーカーさんは、自社の缶コーヒーのリニューアルにあたり、社運をかけたキャンペーンを予定していた。
 
 
キャンペーンにあたって、販売促進のノベルティの提案を、百貨店各社、広告代理店、ノベルティ制作会社をはじめ全部で16社に依頼してきたのである。
品物のイメージに合って、しかもお客さまから「これ欲しい」と思っていただくノベルティであること。1社だけが受注できるとのことだった。
売上高(ノベルティの単価✕数量)は、いままで私が担当したビジネスの最高額の10倍以上だった。
 
 
そして、私たちが16社のトップとして、その時間に割り振られたのである。
 
 
私の所属する法人営業のミッションは3つあった。
クライアントの売上拡大に寄与すること。
クライアントのマーケットシェア拡大に寄与すること。
クライアントの企業イメージ向上に寄与すること。
 
 
私たちの提案は、缶コーヒーのシンボルカラーをベースとしたブルゾンの提案だった。
ただし、過去にはその飲料メーカーさんとのお取引はゼロ。
お客さまにとってみれば、私たちは新規同然であった。
 
 
時間の変更は即、チャンスがなくなることを意味した。
どうしても資料を用意しなくてはならない。
倉庫まで取りに行っては、午前11時にはとても間に合わない。
 
 
絶体絶命の状態である。
解決策としては、資料のデータを新たにプリントアウトして持参してもらうしかなかった。
イチかバチか事務所に電話をかけてみた。
 
 
緊急のときほど、電話はなかなかつながらないものである。
送信音だけが無情に続いた。
(午前9時だったら、フロアだけでも150人はいるのに……)
 
 
ミスは取り返せないかもしれないと思ったそのとき、電話はつながった。
「もし、も〜し」
訛りのある声のアシスタント女性、荒木さん(仮名)だった。
ほっとしたのもつかの間。
 
 
PCのデータのプリントアウトの話をしたものの、じつはアシスタントの方たちには、PCを作動する権限がなかった。
さらにその日に限って、自分の机の上に予備の資料も残していなかった。
 
 

「社員の皆さん、今出払ってるんですよね」
こちらの気持ちとは裏腹のリアクションが返ってきた。
 
 

時計を見ると10時40分。
今回のプレゼンテーションには間に合いそうもない。自分のミスを悔いた。
そのときである。PHSの着信音が鳴った。
 
 
電話は同じセクションの森さんからだった。
ひと月前に店頭から異動してきた方で、定年を半年後に控えていた。
朝一番に出勤して、無口ながらも淡々と仕事をして定時に帰宅する方。
仕事の接点はなく、会話をしたことも数えるほどだった。
 
 
「どうしたの?」
アシスタントの荒木さんから聞いたとのことだった。
森さんがPCを使っているところを見たことはなかったが状況を話してみた。
 
 
さらに、データ上の資料のファイル名と必要な総数。
そして、クライアントの住所を伝えた。
「わかった」
もしも分からなかったら連絡すると言われた私は電話を切った。
 
 
(ほんとに森さんにお願いしてよかったのかな)
半信半疑だった。
時間は10時50分となっていた。
 
 
そのとき、PHSに別の着信が入った。
飲料メーカーの担当者さんからだった。
それは都合により、私のプレゼンテーションが11時ではなく、11時15分になったという連絡だった。
 
 
(これって、もしかすると)
淡い期待が生まれた。
 
 
そして11時7分。
飲料メーカーさんの1階のロビーにいた私の前に、紙袋を持った森さんが現れた。
口数の少ない森さんである。別に微笑むわけでもない。
さりとて、面倒な仕事させやがってという表情でもなく淡々と私の前に歩んできた。
20部の資料はすべてクリアファイルにセットされていた。
 
 
「これで良かったか?」
と言われた私は1部を取り出して確認した。
正真正銘の私が制作した資料である。
今回の提案において、問いから始まる企画書だった。
資料のもれはなかった。
 
 
信じられなかった。お礼を言おうにも言葉にならない。
 
 
「早く行け」
 
 
黙って頭を下げた私はエレベーターに向けて歩き出した。
 
 
エレベーター前で振り返ると、さきほどの場所にいる森さんと目が合った。
プレゼンテーションは1人でも、決して1人ではない。
そんな思いでエレベーターに乗り込んだ。
 
 
15分間のプレゼンテーションは無事終了。
帰社後、まっさきに森さんに報告に行った。
森さんは電話で私と話したあと、とっさに手の空いた同僚3人に声をかけたという。
1人がプリントアウト、1人がクリアファイルにセット、もうひとりが社用車の手配。
緊急の段取りをしたのは森さんだった。
 
 
「このお礼は……」と言いかけた私に森さんは言った。
 
 
「先輩にしてもらったことをしているまでさ」と。
 
 
しかも”恩送り”と言われた。
 
 
自らが先達や、先輩からしていただいたこと。
それをこんどは、次の世代の人たちにさせていただくことが自分たちのミッションとのことだった。
 
 
そのときのキャンペーンを受注したことで、私の会社人生は大きく変わることになった。
すべては森さんのおかげである。
 
 
あれから20年が経った。
気がつくと、あのときの森さんの年齢を越えている。
こんどは私が恩送りをする番である。

 
 
 
 
 

***

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2019-08-14 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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