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文豪の心は鎌倉にあり

【文豪の心は鎌倉にあり 第7回】芥川龍之介は鎌倉で青春時代を明るく過ごしていた【前編】《天狼院書店 湘南ローカル企画》


2021/05/10/公開
記事:篁五郎(たかむら ごろう)(READING LIFE編集部公認ライター)
 
 
歴史と文学の町・鎌倉はいつ来ても時代の香りを感じさせる風景があちこちに見えてくる町です。明治22年に横須賀線が開通してから多くの文人や文学者が鎌倉に移住をしてきて、多くの作品を書いてきました。
 
そういった文豪達を「鎌倉文士」と呼び、今日も鎌倉に文学の香りを残してくれています。その象徴の一つが鎌倉文学館です。
 
館長の富岡幸一郎先生に、鎌倉ゆかりの文士のお話を聞く連載が今回で7回目を迎えました。今回はどんなエピソードが出てくるのでしょう。是非最後までご覧ください。
 
 

■第七回:芥川龍之介は鎌倉で青春時代を明るく過ごしていた
●語り手:富岡幸一郎

昭和32年(1957)東京生まれ。54年、中央大学在学中に「群像」新人文学賞評論優秀作を受賞し、文芸評論を書き始める。平成2年より鎌倉市雪ノ下に在住。関東学院女子短期大学助教授を経て関東学院大学国際文化学部教授。神奈川文学振興会理事。24年4月、鎌倉文学館館長に就任。著書に『内村鑑三』(中公文庫)、『川端康成―魔界の文学』(岩波書店)、『天皇論―江藤淳と三島由紀夫』(文藝春秋)等がある。

 
鎌倉文学館HP
http://kamakurabungaku.com/index.html
関東学院大学 公式Webサイト|富岡幸一郎 国際文化学部比較文化学科教授
https://univ.kanto-gakuin.ac.jp/index.php/ja/profile/1547-2016-06-23-12-09-44.html
http://kokusai.kanto-gakuin.ac.jp/teacher/comparative_culture/tomioka-koichiro/
 
第7回目の文豪は芥川龍之介です。後年の作品や自殺したイメージから暗い人の印象を受けますが、実はとても明るい時代もあったそうです。富岡館長が企画した特別展を中心に意外な素顔と芥川と鎌倉との関わりについてお話を伺いました。
 
 

●師匠・夏目漱石に絶賛された『鼻』


実は鎌倉文学館で2021年10月3日から12月23日の木曜日まで芥川龍之介の特別展を予定しています。芥川が鎌倉に来て105年という時期にあたりますのでそれを記念してということです。
 
鎌倉文学館では、平成18年の秋の特別展で「芥川龍之介の鎌倉物語」という展示をやりました。この時私はまだ館長ではなかったのですが、監修を担当しておりましてタイトルを「芥川龍之介の鎌倉物語 青春の歌」としました。なぜかと言いますと、鎌倉と芥川のつながりというのは単に住んでいただけではなかったからです。
 

 
芥川が大正5年(1916年)11月に、今はない鎌倉由比ヶ浜の海浜ホテル隣の野間西洋洗濯店の離れに翌6年9月まで下宿していました。どういうことかと言いますと、芥川は東京帝国大学(現・東京大学)英吉利文学科卒業した後、『芋粥』(阿蘭陀書房)という小説を「新小説」という雑誌に発表して作家デビューしています。同時に横須賀の海軍機関学校教授嘱託、英語の先生になりました。それもあって横須賀の学校に通うために鎌倉に居住したのです。それで大正5年に鎌倉にやってきました。
 
実はその年に夏目漱石が死去しています。芥川は夏目の門下生と言われておりまして、東大在学中に漱石の所を久米正雄や菊池寛といった人たちと訪ねたりしています。木曜会というのがありまして、漱石は毎週木曜日に自分の弟子たちのために時間を作っていました。その会に大学生だった芥川が強い影響を受けて小説を書き始めます。そして『羅生門』(阿蘭陀書房)という代表作を書きあげました。
 
漱石が芥川の作品をもの凄く高く評価したのは大正5年に「新思潮」という同人誌に発表した『鼻』(阿蘭陀書房)です。漱石は「こういうものをいくつか書いていけば、これまでいない作家として評価されるだろう」という言葉を残しています。漱石とは僅かな時間しか交流していませんけど、芥川に大きな影響を与えました。
 

 
そして漱石が亡くなり、芥川は本格的に作家として活動していくことになります。大正6年25歳ですけども、『羅生門』(阿蘭陀書房)というタイトルの作品集を出しました。ご存知のように芥川は短編作家ですので短編を集めて出したものです。
 
 

●鎌倉で過ごした青春時代は「明るい芥川」


大正7年に塚本文(ふみ)という女性と結婚して、2月に鎌倉八幡前の家などを見に行きました。この頃、鎌倉で新居を探しており、八幡宮があった鎌倉大町の小山別邸に転居します。芥川はこの時期に結婚して鎌倉に住んでいました。夏目漱石は前にお話ししたように、鎌倉の円覚寺へ座禅に来ていてたんですけど、芥川の場合は本格的に鎌倉に住んでいたのです。鎌倉文士というのは、以前お話ししましたように昭和に入ってから鎌倉に集い雑誌「文学界」を結成した小林秀雄や林房雄、川端康成になります。でも、芥川も少し前の時代に鎌倉と深い縁があった文士だったのは間違いないと思います。
 
そして作家として、これまでにない今昔物語や古典を題材にしながら、最も伸びやかな文体で次々に大変面白いまた機知に富んだ短編を見事に書きました。
 

 
芥川の文学は晩年の印象や自殺があるため暗いイメージがあるのですが、明るい芥川というのはこの時期だったと思います。平成18年の展示では、徹底的に明るいイメージを強調したかったので新緑の写真と一緒に友人への手紙の一文を載せました。
 
《これから鎌倉はいい。平地からだんだん高いところへ移っていった春が今は山々の上にある。新緑という語では言い足りない複雑な光沢のある若葉がどの山にもいっぱいになっている。そうしてその上で時鳥(ほととぎす)が啼く》
 
これまさに今なんです。ホトトギスがあちこちで啼いています。こういう感じで大正6年の5月3日に友人へ手紙を送っています。他にはサーフィンの写真に芥川が海に入っていたのも前の特別展で紹介しています。
 
《この頃は毎日海へ入ります。大分黒くなりました。夏休みはどうしようかと思って考えています》
 
この明るい青春時代の芥川を強調しました。ついでにサザンオールスターズの桑田さんに芥川龍之介の鎌倉物語という歌を作ってもらって、庭でサザンのコンサートをやりたいという企画を出しました。残念ながら予算の関係もあって却下されましたけど、桑田さんが芥川~と歌詞付けて歌いそうですよね(笑い)。
 
 

●庭付き一戸建てだった鎌倉の自宅


もう一つは、芥川文さんと新婚生活を送り、最初の作品を書いていた家を再現したことです。二人が暮らした家は残っていませんけども、芥川が書き残したものといくつかの証言から住んだ家を再現しようと言うことでイメージのイラストを展示しました。
 

 
今なら3 D プリンターで作れるのかもしれませんけど、なかなか面白かった。芥川は新婚時代の鎌倉大町での生活についてこんなこと書いてます。
 
《僕は学校を出た後、『芋粥』という短編を「新小説」に発表しました。原稿料は1枚40銭だった。いかに当時としても衣食を求めるのにも心細いことに違いない。そのために口を探し、同じ年の12月に海軍機関学校の教官となった。夏目先生に死なれたのはその年12月の九日だった。僕は一月60円の月給をもらい、英語の和訳を教え、夜はせっせと仕事をした。それから一年ばかりした後、僕に月給は100円となり、原稿料は2円前後なった。僕はこれらを合わせてどうにか家計を営めると思い前から結婚するはずだった友達の姪と結婚した。僕の下の付き合い(古い机)は、この時夏目先生の奥さんに祝っていただいたものである》
 
芥川が写っている写真にその机が一緒に写っています。見たところ立派ですよね。今の大町にあった自宅の書斎で写った芥川になります。火鉢なんかもありまして、新婚時代や作家として揚々とデビューしたことを
 
《僕らはこういう四畳半の一間に小さい火鉢を置いて太平口に暮らしていた》
 
こう残しています。芥川が新婚時代を過ごした家には、庭にちょっとした池があり、芭蕉の花が咲いていました。家は8畳二間、6畳一間、4畳半二間、風呂場や台所までついています。 当時、家に風呂場があるのは珍しかった。鎌倉だったからかもしれないけど割と良い環境で過ごしていました。
 
ただ、芥川全体としては昭和2年に35歳で自殺をしていますから、そのイメージが強いです。けれども、やはり芥川は本当に見事な散文の使い手です。おそらく明治以降の二葉亭四迷とか国木田独歩、漱石、森鷗外などが作ってきた言文一致体というのは、芥川によって一つのピークを迎えたというのは間違いないと思います。我々が今読んでいる現代日本語を作り上げたと言っていい。そういう意味では、近代文学の言葉の密度というのが芥川において一つの頂点を形成したというのは非常に重要です。もちろん物語の面白さとか、そこにはらんでいる寓話(アレゴリー)とかありますけど、文体の見事さというのは高く評価できるのではないかと思います。
 
 

●村上春樹が芥川龍之介を大絶賛


前回の特別展の図録に、村上春樹が芥川を非常に高く評価していた一文を掲載しました。村上は芥川が好きなのです。2006年3月にペンギンブックスから『羅生門&セブンティーン Another Story』という芥川の英訳本が出ておりまして、その序文を村上春樹が書いています。実は村上春樹のエッセイ集にこの文章が再録されています。
 

 
前回の展示をした時は、まだエッセイ集に納められておらずペンギンブックスから取り寄せて英文を日本語に訳してもらいました。僕の家の近くにいる英語の先生にお願いして、その一部を展示しました。これも面白くて、村上春樹はこう評価しています。
 
《まず何より流れがいい。文章が淀むことなくするすると生き物のように流れていく。言葉の選び方が直感的に自然で、しかも美しい。芥川は若くして外国語にも漢文にも精通した教養人であったから現代の作家には使い切れないような優雅典麗な言葉をどこからともなく持ってきて、それを自由自在に配置し、いかようにも動かすことができる「才筆」という表現が一番近いかもしれない。その文章の筋の良さは『鼻』『羅生門』『地獄変』『芋粥』あるいは『六の宮の姫君』といった、12世紀に書かれた『今昔物語集』(そこには1059にも及ぶ実に様々な種類の民間説話が収められている)あるいは『宇治拾遺物語』から採られた物語を、現代語でリライトした作品群を読めばおのずから明らかである。この古典的な、浮世離れした説話世界を、現代の生活圏に、何の留保もなくすらりと持ち込んでくる鮮やかな筆力には、まさに息ののむものがある 》(ペンギンブックス 平成18年3月より引用)
 
村上春樹はアメリカ現代小説に影響を受けたとか色々あるけども、芥川に非常に共鳴していて、芥川に近い現代作家という気がします。村上春樹は僕の中では、長編よりも中短編のほうが、言葉の良さとか面白さが出ていると思います。だからね、新しい芥川龍之介という印象があるのです。だから村上がこんな風に共鳴していたんだと驚いています。
 

 
ノーベル文学賞の候補になってから長編を書くようになっていますけども、短編作家でいったほうが良かったんじゃないかなという気がします。今でも短編の切れ味はとてもいいと思います。だから芥川はそういう現代作家にも影響を与え続けているそういう近代日本の文学を作り上げた一人だと思います。
 
 

●芥川が抱いた「ぼんやりした不安」


日本語のピークが来たのは明治維新から70年ぐらいです。これはロシアの文学なんかと比べると早い。ロシアも西洋化が遅れた国でした。ロシアの場合、だいたい18世紀に前半ぐらいにピョートル一世がペテルブルグに首都を構えて西洋化します。西ヨーロッパの文化を導入し、ロシアの文学の改革をして言文一致運動が起こります。50年100年くらい紆余曲折してカラムージンという人が口語と文語を作ります。
 
19世紀に入ってようやくロシアの新しい言葉ができて、プーシキンという詩人が出てきました。さらに19世紀後半にドストエフスキーとかトルストイとかチェーホフなど世界文学級の作家が次々と出てきます。ロシア文学のピークは近代化から開いて150年ぐらいかかっています。大体100年ないし150年かかっているのに日本の場合は非常に早い。明治維新から50年から70年ぐらいで一つのピークがきているのです。
 

 
それだけ早い近代化を成し遂げたらそこには色々な無理があったり、歪みがあったり、飛躍があったりします。その辺りの話題は佐藤優さんとの対談本『危機の日本史 近代日本150年を読み解く』(講談社)(https://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000034186319&Action_id=121&Sza_id=C0)で話していますのでご覧いただけたらと思います。
 
芥川は、この真ん中で存在を残し、昭和2年に自殺をしています。自殺した年は、日本の近代化の一つのピークであると同時に、すごく西洋化を急いだ日本の近代化の歪みとか問題点、社会的にも国家的にも一気に噴き出してくる時期です。世界の状況も帝国主義の時代のなかで戦争の時代に突入していく。世界恐慌も起きています。そういう時代に芥川が昭和2年7月24日に薬物で自殺をしています。
 
これは一作家の死というよりは、時代の不安というのを象徴する自殺だったと思います。芥川は遺書に「ぼんやりした不安」という言葉を残しています。「ぼんやりした不安」というのは芥川の創作に行き止まりとか、身体の衰弱とか健康状態、プロレタリア文学が隆盛になってきた中で芥川のブルジョア文学への批判、他にも義理の兄の家が全焼してしまい、その後始末といった個人的な事情が重なっていったのもあるかもしれません。しかし「ぼんやりした不安」というのは、明治維新以降の日本の近代化の問題点とか不安、時代の不安ですね。今日にも繋がりますけど、その言葉に象徴されていると気がします。その辺りが芥川という人間というか作家が、今日も論じられたり興味を持たれたりする大きな要素になっていると思います。(後編へ続く)
 
 

●芥川龍之介の歩み


1892年 誕生 生後7ヵ月で母が精神に異常をきたし母の実家・芥川家に預けられ、母の鬼夫婦と叔母に養育される
1902年 母親のふくが亡くなる
1904年 芥川家に正式に養子になる
1914年 大学で菊池寛、久米正雄らと同人誌「新思潮」を刊行。
1915年 「芥川龍之介」名で「帝国文学」に「羅生門」を発表。級友・鈴木三重吉の紹介で夏目漱石の門下に入る。
1916年 第四次「新思潮」の創刊号に掲載した「鼻」が夏目漱石に絶賛される。11月に鎌倉由比ガ浜海浜ホテル隣の野間西洋洗濯店の離れに下宿。塚本文と婚約
1917年 海軍機関学校の嘱託教官に赴任
1918年 大阪毎日新聞社に入社する
1919年 塚本文と結婚。鎌倉八幡前の家を見に行く
1921年 海外視察員として中国へ派遣される
1926年 胃潰瘍や神経衰弱などの症状が出る
1927年 義兄西川豊が放火と保険金詐欺の嫌疑をかけられ鉄道自殺、後始末に追われる。『或阿呆の一生 』を脱稿し、久米正雄に原稿を託して睡眠薬を飲んで自殺。享年35歳
 
(鎌倉文学館冊子「芥川龍之介の鎌倉物語 青春の歌」を参照)


 
 

□ライターズプロフィール
篁五郎(たかむら ごろう)(READING LIFE編集部公認ライター)

神奈川県綾瀬市出身。現在、神奈川県相模原市在住。
幼い頃から鎌倉や藤沢の海で海水浴をし、鶴岡八幡宮で初詣をしてきた神奈川っ子。現在も神奈川で仕事をしておりグルメ情報を中心にローカルネタを探す日々。藤沢出身のプロレスラー諏訪魔(すわま)のサイン入り色紙は宝物の一つ。

□カメラマンプロフィール
山中菜摘(やまなか なつみ)

神奈川県横浜市生まれ。
天狼院書店 「湘南天狼院」店長。雑誌『READING LIFE』カメラマン。天狼院フォト部マネージャーとして様々なカメラマンに師事。天狼院書店スタッフとして働く傍ら、カメラマンとしても活動中。

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2021-05-10 | Posted in 文豪の心は鎌倉にあり

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