文豪の心は鎌倉にあり

【文豪の心は鎌倉にあり 第8回】林房雄:鎌倉文士の代名詞的存在の顔と三島由紀夫との交流・後編《天狼院書店 湘南ローカル企画》


2021/08/30/公開
記事:篁五郎(たかむら ごろう)(READING LIFE編集部公認ライター)
 
 
来年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の舞台でもある鎌倉には多くの文学者や作家が集った文豪の町としての顔があります。明治22年に横須賀線が鎌倉に開通して以降、100人以上の作家や文学者移り住み、街並みに色濃く香りを残しています。
 
その文学の町として顔を象徴するのが鎌倉文学館です。鎌倉ゆかりの文士を中心に多くの展示をしています。その館長を務め、文芸評論家としても多くの仕事をしてきた富岡幸一郎氏に鎌倉ゆかりの文士についてお話を伺う連載が今回で8回目を迎えました。
 
8回目は鎌倉文士の代名詞的存在である林房雄です。三島由紀夫から尊敬されており、長く深い交流をしてきました。二人の絆について館長にお話を聞いてきましたのでご覧ください。
 
前編はこちらになります。
 
 

語り手:富岡幸一郎


 
昭和32年(1957)東京生まれ。54年、中央大学在学中に「群像」新人文学賞評論優秀作を受賞し、文芸評論を書き始める。平成2年より鎌倉市雪ノ下に在住。関東学院女子短期大学助教授を経て関東学院大学国際文化学部教授。神奈川文学振興会理事。24年4月、鎌倉文学館館長に就任。著書に『内村鑑三』(中公文庫)、『川端康成―魔界の文学』(岩波書店)、『天皇論―江藤淳と三島由紀夫』(文藝春秋)等がある。
 
鎌倉文学館HP
http://kamakurabungaku.com/index.html
 
関東学院大学 公式Webサイト|富岡幸一郎 国際文化学部比較文化学科教授
https://univ.kanto-gakuin.ac.jp/index.php/ja/profile/1547-2016-06-23-12-09-44.html
http://kokusai.kanto-gakuin.ac.jp/teacher/comparative_culture/tomioka-koichiro/
 
 

〇川端康成と共に三島由紀夫を見出す


三島由紀夫と林房雄のことについてちょっとお話したいと思います。前に三島由紀夫は昭和と満年齢が重なるいうのをお話しました。三島由紀夫は戦争が終わった年に二〇歳だった。その時に林さんは四二歳です。二〇歳以上離れています。それだけ年が離れていて、しかも林さんは戦前に左翼運動、プロレタリア文学の作家から転向した。その人と三島由紀夫にはすごく大きな接点があったのです。
 
一つは三島由紀夫が作家としてデビューするときに鎌倉文士の川端康成の紹介で「煙草」(鎌倉文庫)という短編を「人間」(鎌倉文庫)という雑誌、鎌倉文庫という林さんや川端康成がやっていた出版社なんですけど、そこから出してい文芸誌です。そこに大学を出て当時大蔵省に勤めていた三島が川端康成の推薦で『煙草』という短編を出して戦後の文壇にデビューをします。その縁で林房雄と知り合ったと思います。三島由紀夫は戦前学習院のときに小説を書いていましたけど戦後の文壇に認められたのは『煙草』です。その縁で林さんと出会ったといえます。
 

 
 

〇三島由紀夫が唯一本にして評論した作家


それで、三島由紀夫は後に「林房雄論」(新潮社)という評論を書いています。一冊の本にしているのです。この林房雄という文学者を三島由紀夫は見事な評論で分析して一冊の本にしているのです。その本の中で三島は林房雄と初めて会った時のことを書いています。
 
戦後の混乱のただ中の昭和22年に新橋の焼け残ったビルにあった新夕刊という新聞社に林さんがいて訪ねていったそうです。こんな風に書いています。
 
《焼けて角がごろごろになったままの暗い階段を三階だか四階まで上がり、その編集室で酒を飲んでいた林氏と会った。林氏は既に酩酊していて、帰りがけに碌にガラスもない三階の窓裏から放尿をした。》
 
非常に豪放らい落な文学者・林房雄という作家に出会ったわけです。それが三島由紀夫に魅力だったのでしょう。
 
三島由紀夫は巧みな表現で
 
《戦前戦後の日本の文学界をわたってきた悪名高い船長が激変する時代を乗り切ろうと大胆な取り舵を取り、しかも今まで何度かの取り舵や面舵とは違う、かつてない孤独な状況において右にも左にも、岩礁の露出する海峡を強引に渡っていく姿であった。》
 
だから右も左も色々な思想とぶつかりながら大正・昭和・戦後という時代という荒波を乗り越えてきた姿を三島由紀夫が描いています。三島は小説家として高名ですけど評論家としてもシャープな評論をしています。一冊の本にした作家は林房雄しかいません。それほど林房雄を尊敬していたのがわかります。恐らくさっきの『獄中記』(創元社)なんかも評価していますし、『青年』(中央公論社)もです。『大東亜戦争肯定論』(中公文庫)も読んでいて、歴史観に共鳴するところがあります。
 
 

〇三島と二人で「日本人とは何か?」を議論



 
この二人が文学史の上で残る仕事をやっているのが昭和41年に『対話・日本人論』(番町書房)というのを刊行しています。これは語り下ろしで昭和41年の夏頃に話したものを10月に書籍にしています。三島由紀夫は昭和45年に自決する前の昭和41年から『豊饒の海』(新潮社)というライフワーク4巻を書き始めました。
 
ですから丁度『豊饒の海』(新潮社)第一巻『春の海』(新潮社)を書き終えて、第二巻の『奔馬』(新潮社)という昭和維新の話を書いているところで、神風連の乱について取材をしている頃です。熊本に行って神風連の乱の取材をする前に林房雄とがっぷり四つに組んで「日本人とは何か」を議論しています。
 
この本は非常に興味深くて、芸術とか文学の在り方についても議論していますし、戦後日本の高度経済成長は良かったのか?という議論もしています。そして日本は独立国家になっているのかという政治社会についても議論もしていて、更に何より日本人とは何か?というのも天皇論から論じています。林房雄と三島由紀夫が二〇歳以上違う世代の二人が日本の歴史と思想を縦横無尽に論じ尽くした本です。
 

 
三島由紀夫は林房雄を信頼して尊敬したのでしょう。率直な思いがぶつけられています。だからこの頃(昭和41年夏)から、あの市ヶ谷の事件を三島が構想していたとは思えませんが、あの四五歳で自決するのを4年間を予告しているかのような表現もあります。林房雄は「三島由紀夫は真剣に自分を問い詰めているし、時代を問い詰めているな」という意識を持ったようですし、この本が出たというのは非常に重要なものだと思っています。昭和45年の事件は林房雄にとっても衝撃だったと思うし、もちろん事前に何も明かすことはできなかったけど予感していたと思います。
 
 

〇自裁した後輩ヘのレクイエム


その後、昭和47年に『悲しみの琴 三島由紀夫への鎮魂歌』(文藝春秋)という本を出しています。鎮魂歌ですからレクイエムですよね。三島由紀夫との交流、文学、死について書いています。これを読みますと毎年三島由紀夫は先輩作家に対して義理堅くて、正月に鎌倉の川端康成と林房雄のところに挨拶に来ていたそうです。毎年正月2日に必ず林房雄邸に来ていた。当時林さんは浄妙寺の先に住んでいたのかな。報国寺のずっと奥に林房雄の家があるのです。そこに訪ねていたと思います。
 

 
先に林さんの家に行って、それから一緒に川端康成の家に年賀に行っていたそうです。亡くなる前の年に年賀に来た時、非常に折り目正しく訪問してくるから林さんは少し重荷になっていたみたいです。
 
三島由紀夫はノーベル文学賞の候補になるほどの作家になっていたので「自分を先輩扱いしなくてもいいよ」という感じになっていたらしい。林さんが三島由紀夫に亡くなる前の年くらいに「折り目正しく来てくれるとこっちも苦しいよ。来年からはもう止めてくれ」みたいなことを言ったみたいです。
 
《敗戦直後の焼け跡の中で初めて会った時の彼は二〇歳を過ぎたばかりの少年作家であったから、二二も年上の私を先輩として見るのは自然であったが、その後の彼の目を見張るばかりの急成長は後輩どころか同輩以上のものにしてしまった。川端氏を文学上の師として仰ぎ続けるのは当然だが、私に対して先輩の礼を取り続けるのは不自然であるだけではなく虚しい礼節だと言いたくなる。》
 
と思っていたみたいです。すると三島由紀夫から即座に返事が返ってきたみたいです。
 
「実は僕も重荷になりかけていたところです」こう言ったみたいです。虚を突かれたというか、一瞬たじろいだ気持ちになったけど、それに続く三島の言葉は後輩の礼儀に外れていなかったと記しています。
 
《お会いするのは楽しいのですが、交通事情が困難になっており一日仕事。それと、もし長くお待たせしたらと思う途中のいらいらがやり切れない。》
 
こう述べたのです。これは三島由紀夫が来年に事件を構想していたので来られないのはわかっていたのだと思います。だから敢えて、こういう言い方をしたのでしょう。こういうやり取りがあったことを三島由紀夫の自決の後に林房雄が書いています。非常に深い交流と尊敬が二人の間にあった。そういう風に三島由紀夫という天才的な作家に慕われている林房雄という作家像と人間像が現れている思います。
 
この二人の関係も文学史の上でもっともっと論じられる必要がある気がします。
 

 
 

〇三島の意思を受け継いだ晩年の仕事


三島由紀夫の没後に出た色々な評論や伝記の中で林房雄の『悲しみの琴』は歴史的な文献になっていると思います。三島由紀夫が四五歳で自決した事件の後に林房雄は『天皇論』を書き出すのです。ある意味、林房雄の晩年の仕事を作ったのは三島由紀夫なのは間違いない。そういう仕事をしていた。亡くなるのは昭和50年(1975年)七二歳です。三島由紀夫の自決から5年ですけど、その間に「悲しみの琴」「天皇論」を書いていて非常に大きな仕事を晩年にしているといえます。
 
当時林さんは「天皇論」を連載していた雑集の名前が「浪漫」といいます。これは林さんが中心に刊行していました。そこに林さんの晩年の「日本論」とか「天皇論」を書いています。後は「西郷隆盛」の加筆もそこでしています。「浪漫」という雑誌は文芸雑誌というか思想雑誌として重要だと思います。関わっていたのが宮崎正弘さんという「憂国忌」をやっている方です。宮崎さんも編集をしていました。僕もこの雑誌は買っていた記憶があります。全部揃っているかはわからないけど非常に貴重な雑誌です。林さんの最後の仕事が三島由紀夫の志を受け継ぐ形で完成していったというのがあると思います。
 
 

〇公職追放されてエンタメ小説を書いていた


そしてもう一つあまり知られていないのですが、小説家としての顔で必要なのがあります。戦後林さんは戦中の言動とかで戦争責任というのが文学者でも言われていまして、昭和21年(1946年)四三歳の時にGHQに追放されて、雑誌などに書けなくなりました。当時戦争を応援していた人たちに発表の場を与えないという時期がありました。占領下で歌舞伎の上演はダメとか剣道もダメとか、今思えば「えっ?」と思うようなことがありました。検閲も厳しくて、江藤淳が占領問題の検閲をやっています。林さんも追放になってしまい有力誌に作品が発表できなくなったのです。
 

 
それで、新聞社の仕事をしたり、中間小説、いわゆるエンターテインメント小説などを昭和20年代に書いています。林房雄は本名が後藤ですのでペンネームなんですけど、GHQから追放された時期に「白井明」という名前を使って中間小説を書いていました。その頃に書いた名作が『息子の青春』(新潮文庫)という小説です。これは越智という貧しく生まれて苦労して育った小説家が主人公です。小説を書いていて、妻と二人の息子と生活をしているのですが、戦後社会の背景の中で息子二人を育てていく家庭の親父の話です。
 
ちょうど敗戦の痛手から立ち直り始めた昭和20年後半、一つの理想の家庭像を描いてブームを巻き起こした作品です。この小説は今、新潮文庫で読むことができます。そういった作品を林さんは書いていて、戦後の一つの家庭像とそこで奮闘する父親像が描かれた作品です。実はこういった作品も残しています。非常に幅の広い活躍をした文学者だと思います。
 
まとまった林房雄論はないのですが、これから彼の戦前戦後の歩みと文学的、思想的業績は再評価されていくと思います。大東亜戦争肯定論だけではなくトータルな意味での林房雄論が出てくるだろうと。余談ですけど、ある大学4年生から連絡があって「林房雄を研究したい」と連絡がありました。そういう人が出てきて大学院に進んで「林房雄論をやりたい」というから詳細な年譜を作っています。作家研究は詳細な年譜が必要で、まず多面的な仕事をされているのでまとめた年譜が必要だろうと思います。
 

 
一部簡単な略年譜はあるのですけど調べて行くと大正末から昭和の色々な出来事や事件、社会主義運動とかに関わっていく姿も出てくるし、戦後の追放時代の中間小説、それから大東亜戦争肯定論以降の仕事、晩年の天皇論が明確に出てくる気がします。そしてライフワークの「西郷隆盛」ですね。これの全体像も明らかになるようと思います。。これから著作集とか出てくると思います。鎌倉文士の一人というのを超えた近代日本の文学者としての再評価が待たれていると思います。《終わり》
 

(文・篁五郎、写真・山中菜摘)
 
 

〇林房雄の歩み

・1903年(明治36年):5月30日に大分県大分市に生まれる。本名は本名は後藤 寿夫(ごとう ひさお)。
・1916年(大正5年):旧制大分中学(現県立大分上野丘高校)入学。銀行家の小野家の住み込み家庭教師として働きながら勉強を続ける。
・1919年(大正8年):第五高等学校に入学。東京帝国大学法科(現東京大学法学部)中退。
・1926年(大正15年) – 京都学連事件で検挙・起訴(禁固10か月)。『文芸戦線』に小説『林檎』を発表しプロレタリア文学の作家として出発する。
・1927年(昭和2年) – 日本プロレタリア芸術連盟を脱退し、中野重治・鹿地亘・江馬修らは残留し、脱退した青野季吉・蔵原惟人らと労農芸術家連盟を創立。
・1930年(昭和5年) – 日本共産党への資金提供を理由に検挙。治安維持法違反で検挙。のち起訴され、豊多摩刑務所に入る。
・1932年(昭和7年) – 転向して出所。鎌倉に転入。『青年』発表。「新潮」で『作家として』で転向を表明。
・1933年(昭和8年) – 小林秀雄、武田麟太郎、川端康成、深田久弥、広津和郎、宇野浩二らと同人誌『文学界』を創刊。
・1939年(昭和14年) – 『西郷隆盛』を発表。1970年(昭和45年)に完結。
・1948年(昭和23年) – 戦争協力により、文筆家として公職追放
・1963年(昭和38年) – 三島由紀夫『林房雄論』が発表される。『中央公論』に『大東亜戦争肯定論』を発表。大きな物議を醸した。
・1966年(昭和41年) – 三島由紀夫と対談した『対話・日本人論』を出す。
・1972年(昭和47年) -『悲しみの琴―三島由紀夫への鎮魂歌』を発表。
・1975年(昭和50年) – 胃癌のため死去[3]。享年72。墓地は鎌倉報国寺にある。

□ライターズプロフィール
篁五郎(たかむら ごろう)(READING LIFE編集部公認ライター)

神奈川県綾瀬市出身。現在、神奈川県相模原市在住。
幼い頃から鎌倉や藤沢の海で海水浴をし、鶴岡八幡宮で初詣をしてきた神奈川っ子。現在も神奈川で仕事をしておりグルメ情報を中心にローカルネタを探す日々。藤沢出身のプロレスラー諏訪魔(すわま)のサイン入り色紙は宝物の一つ。

□カメラマンプロフィール
山中菜摘(やまなか なつみ)

神奈川県横浜市生まれ。
天狼院書店 「湘南天狼院」店長。雑誌『READING LIFE』カメラマン。天狼院フォト部マネージャーとして様々なカメラマンに師事。天狼院書店スタッフとして働く傍ら、カメラマンとしても活動中。

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2021-08-30 | Posted in 文豪の心は鎌倉にあり

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