小説『ゴッドマザーの成功法則』西城潤著

小説『ゴッドマザーの成功法則』西城潤著


天狼院書店店主の三浦でございます。

あるいはご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、天狼院は「西城潤(SAIJO URUO)」という名前で様々な書籍でストーリーを担当させてもらっております。

『なぜ小さなコスメ店が大型ドラッグストアに逆襲できたのか?』(中経出版)
『ドラクエ式自分の強みを知る冒険』(フォレスト出版)

などがそうです。
その「西城潤」の名前で、Web天狼院書店で、新しいストーリービジネスの作品を発表することにしました。
田舎から出てきた女子大生藤村遥香が、とある成功法則を教わりながら、成長していく話ですが、秘密結社あり、ミステリーあり、恋愛ありの軽快な内容になっています。
第一部、47,000字、一気にアップします。

小説『ゴッドマザーの成功法則』西城潤著
プロローグ 行方不明の女子大生が残した唯一の言葉「サイレンス・ヘル」
第1講 成功者は誰にも明かさない「成功の秘密」を持っている
第2講 あなたが成功できないたった1つの理由
第3講 成功リミッターを木っ端微塵に粉砕する方法
第4講 「ノブレス・オブリージュ」を身につける
第5講 成功の上昇螺旋の登り方

 

「サイレンス・ヘル」シリーズvol.1/ゴッドマザーの成功法則

【登場人物】
□藤村遥香〔女子大生〕
「何か」で成功することを夢見て、田舎から上京する。田舎では成績優秀、地元の名士の娘だが、都会ではただの「田舎者」扱いされて、なかなか馴染めない。普通に就職活動するために上京したんじゃないと、成功するための秘密を探るべく、とあるパーティーに足を踏み入れる。
□保科秋〔イヤフォンの男・アップル・ファイナルクラブ「SIGRE HIKO」支配人〕
渋沢恭子によって見出された後、学術の道へと進む。その素性は明らかにされていない。講師として講義を担当するが、単位取得が最も難しい上につまらないということで、毎年、学生には全く人気がない。常にアップル純正のイヤフォンをつけているので、生徒たちの間からは「アップル」「イヤフォン」とあだ名される。渋沢が運営する組織のほぼ全てを実質的に取り仕切る。
□渋沢恭子〔ゴッドマザー・早慶大学経営学部学部長・早慶メディア・ラボ所長・ファイナルクラブ「SIGRE HIKO」主宰・フューチャリストファンド代表〕
母校である早慶大学経営学部で講師をしている際に、保科秋を見出し、彼を助手にする。それからめきめきと頭角をあらわす。助手の保科とともにアメリカの有名大学を渡り歩き、帰国後助教授(現在の准教授)、教授に進み、学部長に就任する。ハーバード大学のファイナルクラブを模して、早慶大学内にファイナルクラブ「SIGRE HIKO」を設立、自らその主宰となる。SIGRE HIKOのメンバーは各界で活躍し、特にIT業界においてその出身者が大きな影響力を担うようになり、いつしか渋沢恭子は「ゴッドマザー」と呼ばれるようになる。「SIGRE HIKO」のメンバーがスポンサーとなり、MITメディア・ラボの早慶版、早慶メディア・ラボを設立。同時に学部長選挙で圧勝して初の女性学部長となる。また、新しいベンチャー企業への投資を行う投資ファンド、「フューチャリストファンド」代表として、ファンドマネージャーの顔も持つ。
□長瀬真奈美〔女子大生・女優志望〕
藤村遥香の友人。遥香とともにとあるパーティーに潜入。その後、連絡がつかなくなる。
□西條宗介〔ITベンチャー企業「オートクラシー」CEO・ファイナルクラブ「SIGRE HIKO」メンバー〕

〔プロローグ〕 サイレンス・ヘル

たったひとつの言葉だった。
真奈美が、たぶん身体を犠牲にしてまで手に入れてくれた情報は、意味がわからない本当に短い言葉でしかなかった。
昨晩、あの場所から私だけ無事に帰されたのは、彼らの言葉をそのまま借りれば、私が「後がめんどくさそう」だったからだ。
「まずは男に抱かれてから来いよ」
そう言って、私の頭を小突いた男の、ニヤついた顔は一生忘れない。時代の寵児だか、IT業界に旋風を巻き起こす男だかしらないけれども、女子に対してそんな言い方をする男は、絶対にろくなことにはならない。
「本当に頭にくる!」
思わずそう叫ぶと、周りを歩いていた学生たちが、一斉に私のほうを見る。「なにあの子」と囁きあって、笑いながら足早に私から離れていく。
どうせまた田舎者って馬鹿にするんでしょ、もう慣れているからいいけど。
学内の案内板を確認して、先を急ぐ。この大学に通って3年目だけれども、そのラボに行くのは今日が初めてだった。
心配なのは真奈美のことだった。
「私は平気だから」と明らかに怯えた顔で、VIPルームと呼ばれたあの薄暗い個室に消えた後すぐに、男たちの「シャンパンファイト!」という歓声が聞こえてきた。
真奈美の他にも、モデルのような子やテレビや雑誌で見たことのあるタレントも何人かいたようなので、その場で何かあるようなことはないだろうけれども、その後、いくら電話をしても真奈美は出なかった。
ただ、朝になって、真奈美からLINEでこんなメッセージがきただけだった。

「私は大丈夫。それより『サイレンス・ヘル』って言葉を調べてみて。たぶん、渋沢学部長に関係していることだと思う」
すぐに電話をしたけれど、真奈美はやはり電話に出なかった。
いくら探しても、友達に聞いても、大学にも来ていないようだった。それで、思い切ってあの場所に行こうと決めた。
思えば、真奈美が「平気」というのはいつも緊張しているときだった。
そして、「大丈夫」というときは私にも知られたくない何かがあったときだ。

確かに、私たちはあそこに行くのが危険だということは知っていた。
日本初の本格的なファイナルクラブ「SIGRE HIKO」のメンバーになるには、現在のメンバー全員から「承認」される必要があって、そのためには「儀式」を経なければならないという。
「儀式」の内容が完全に秘密にされていたから、どんなことをされるのか、憶測が憶測を読んで、学内では様々な噂が飛び交っていた。
ましなのでは、IQが140以上なら合格だとか、Facebookの友達が1000人以上でなければならないとか。
中くらいのでは、保証金1千万円をクラブの口座に振り込まなければならないとか、夜の東京を、裸でハイキングしなければならないとか。
ひどいのでは、記憶を失うまで酔わされて、無人島に置き去りにされて自力で東京に戻ってこなければならないとか。戦闘地域で、傭兵になって生き延びて帰ってこなければならないとか。
とくに、今まで女性は一人もメンバーになったことはなかったから、その憶測はひどくて、メンバー全員に抱かれて満足させなければならないとか。
これはきっと、トム・ハンクスが主演して映画にもなったベストセラー小説『ダヴィンチコード』の影響によるものだろうけれども。

でも、これらの噂があながち嘘ではなかったということだ。
真奈美があの後、電話をくれなかったのはただ単に疲れただけだとは考えにくい。私には言いたくない出来事があのVIPルームの中であったのだろう。綺麗で男子学生にも人気がある真奈美に、あのニヤついた男が興味を持たないはずがない。
ちなみに、日本ではあまり馴染みのないファイナルクラブとは、アメリカの大学生なら誰もが知っているものだ。
選ばれた者だけが入れる秘密結社で、秘密結社というと、日本では何だか怪しげな宗教団体のように聞こえるかもしれないけれど、イメージとしては超エリートたちのサロンといえば近いかもしれない。
ハーバード大学で一番権威のある「ポーセリアン」には、ルーズベルト大統領やロックフェラー家も在籍していたこともあるらしいし、イェール大学の「スカル・アンド・ボーンズ」にはブッシュ大統領親子が入っていたことで有名。
その絆は大学卒業後にこそ威力を発揮し、様々な業界でメンバーに引き上げられることになる。つまり、一度そのメンバーになると、社会に出てからも様々なことで有利になるということだ。
歴史の浅い日本のファイナルクラブ「SIGRE HIKO」では、さすがにまだ大統領とかは出てないけれど、メンバーの多くがベンチャー企業を設立し、瞬く間に成功して、特にIT業界では、このクラブのメンバーが一大勢力を築きつつあった。
それだから、「SIGRE HIKO」では、門外不出の「成功の法則」が共有されているというまことしやかな噂が立っていた。
噂だけでなく、実際に雑誌でもテレビでも「ゴッドマザーの成功法則」として特集されるようになった。その中身は、ライターや構成作家が憶測で描いたもので、本物とはまるで違う、完全なまがいものだったということが後でわかったのだけれど。
それは、ビジネス書を読んでも、ビジネススクールに通っても決して手に入れることができないものだろうと、なんとなく想像がつくが、そんな秘密の成功法則なんて、本当にあるんだろうか。
私は目的の建物の前に立っていた。
その奇抜な造形をしたラボには、きっと、気が遠くなるほどに膨大な資金が投入されて作られたんだろう。
モデルとなったMITメディア・ラボとも違い、研究所というよりはむしろ、近未来の美術館といったほうが近いかもしれない。まるで、ルーブル美術館の広場の前にあるガラスのピラミッドのような外観をしていて、入り口は周囲の壁と同化していて一見するとわからない。地上部分だけを見ると、大した広いようにも見えないが、地下に広大な施設をもっているという、もっぱらの噂だ。大学の研究所という扱いだけれども、授業で使われることはほとんどなく、限られた学生しか入れないようになっている。もちろん、私も入ったことがない。
この建物がファイナルクラブ「SIGRE HIKO」のモニュメントであり、総本山でもある。
しばらく、入り口を探すのに行ったり来たりしていたけれども、小さなプレートを見つけた。それにはこう書かれている。
「早慶メディア・ラボ」
早慶大学経営学部学部長であり、ファイナルクラブ「SIGRE HIKO」の創設者でもある、渋沢恭子が設立した最新鋭の研究所だった。
そう、渋沢恭子こそが「ゴッドマザー」と呼ばれる人である。
なんだか、不時着したUFOに足を踏み入れるみたいで、さすがに入るのを少し躊躇したが、真奈美のことを考えるとためらっている場合ではなかった。
『アリババの40人の盗賊』の「開けゴマ」って合言葉でもあるまいし、真奈美がもたらした「サイレンス・ヘル」という言葉だけでは、ファイナルクラブの分厚い扉が開くとも思えなかったけど、行くしかなかった。

中は想像以上に広かった。エントランスから、らせん状になだらかな下りになっていて、階段を使わずに地下へと迎えるようになっていた。自動ドアを抜けると、小さな部屋があり、メガネをかけた受付の女性がいた。
彼女は、下から上まで私を見て、露骨に嫌な顔をした。垢抜けていないのは、自分でもわかってる。でも、そんな顔をしなくたって、とちょっと怯みかけたけど、「何かご用ですか?」と問われてこう答えた。
「渋沢学部長にご相談したいことがあるんですけど」
受付の女性は、今度は上から下まで私を見て、訝しそうにこう言った。
「あなた、うちの学生さん?」
彼女がそういうのも無理はない。
わかる、そう言いたい気持ち。
それはきっと私が学内にいる女子大生たちとは似ても似つかない格好をしているからだろう。
正直言うと、私には「ファッション」という感覚がなく、代わりに「被服」という概念があるだけだ。つまり、それは寒ければ服を着る、暑ければ服を脱ぐという意味であり、おしゃれをするなんて、そんな大それた、となぜかどうしても思ってしまうのだ。
だから、着るのはいつもUNIQLOで、数年前からUNIQLOもおしゃれになってくれているからちょっとは助かっているけれども、その中でも選ぶのは地味なものだったし、美容院にも行っていなかったから、周りのステキ女子との差は日に日に開く一方だった。
高校の時はとりあえず制服があったし、田舎の進学校だったから、おしゃれをそんなにしている子も多くはなく、おしゃれじゃなくてもあまり目立たなかったんだけどと言い訳してもどうしようもない。正直、完全にデビューをする機会を逃したのだ。
そう思うと急にテンションが下がった。
「ええ、一応」
と、か細く答えていると、自分でも不思議なことに、本当にここの学生なのか不安になってきた。
「アポイントはとってあるの?」
「いえ、急だったものですから」
「だったら、アポを取ってから出直してちょうだい」
受付の女性は、もはや私の方を見ようとせずに、ハエを払うように手をヒラヒラさせた。
仕方ない、退散するか、と振り向きかけたとき、ふと先ほどの言葉を思い出した。

「あの、サイレンス・ヘルって知ってますか?」

この言葉を発した瞬間、気のせいか、その部屋の音という音が全てなくなったような気がした。いや、この部屋だけではなく、周囲の部屋からも。
目の前の受付の女性も、固まったまま止まっているようだった。
まるで、時間を止める魔法をかけてしまったかのようだ。
「あの、サイレンス……」
と、言い直そうとした私の言葉を打ち消すように受付の女性の言葉が覆いかぶさった。
「それ以上、言わないで!」
言葉、というより、それは叫びに近かった。
あの、と言おうとするのを、手のひらを向けられて今度は囁くように私を制した。
「わかったから、その言葉は二度と口にしないで」
何が起きているのか、私には皆目見当もつかなかったが、どうやら、何らかの扉が開かれそうな予感はした。
真奈美が身を挺して掴んだ言葉には、何か、意味があるらしい。そして、口にするのも憚られるような言葉らしい。
まもなく、奥のドアが乱暴に開けられた。
息を切らせて現れたのは、耳に白いイヤフォンをつけ、白衣を着た若い男だった。
あ、と私とその男は同時にお互いの顔を指した。そして同時にこう言った。
「どうして、ここに?」

学生たちからのあだ名は「イヤフォン」。または「アップル」。
それは通勤最中や休憩中だけではなく、その男が四六時中耳にアップルの白い純正イヤフォンをつけているからだ。その音の響きを聞いただけで、およそ、学生たちから少なくとも尊敬はされていないということは推し測れるだろうと思う。
事実、経営学部の講師「イヤフォン」こと保科秋は、生徒から人気がなかった。ただ人気がないだけでなく、ダントツに人気がなかった。
その理由は簡単だった。
講義がめちゃくちゃに難しいのだ。その上、めちゃくちゃにつまらない。しかも、最悪なことに、単位が取りにくい。
毎年、春に出回る講義のオススメランキングでは、常に最下位をキープしていて、今年はそれが殿堂入りになったようで、イヤフォンは、通勤途中に、アメフト部のみんなに校門のところで唐突に胴上げされて、いたく困っていた。
それでクビにならないのは、実は渋沢学部長の男だからではないかとの噂もあったが、それは単なる噂に過ぎないと思う。
40歳を超えているといっても、渋沢恭子は豪奢で美しく、一方の保科は典型的なうだつがあがらない男だからだ。
まえに、一度、保科先生本人に、理系の研究者でもないのになぜいつも白衣を着ているのか聞いたことがあった。その答えは単純だった。
「いや、だって毎日着替えるの、面倒だろう」
そう言って、実に面倒くさそうに頭をかいた。
その答えを聞いて、私はとても安心感を覚えた。それなので、私は保科先生のゼミを受けることにしたのだ。ちなみに、保科先生のゼミ生は私一人だった。
「私一人なんですか!?」
驚く私に対して、保科先生はこう言った。
「いや、いない年もあるんだよ」
とんでもないことになったと一瞬思ったけれども、考えてもみれば、ゼミ生の飲み会とか、煩わしいこともないし、気楽でいいということにすぐに気づいた。
そう、保科先生も私も、似たもの同士で私にしてみれば案外居心地がいいのだ。それに、先生の授業はいわれているように難しくも単位を取りにくくもなかった。でも、そしたら、どうしてあんな噂が流れているんだろう。

その保科先生が、いつもとは違った緊張した面持ちで、私の前に座っていた。私も、それに合わせてきちんと座り、膝の上に手を置いて言葉を待った。
「あのさっきの言葉だけど」
ああ、と私がその言葉を言おうとするのを、保科先生は、いや、いいんだ、と慌てて制した。
ええ、と呼吸を飲んで、私は頷く。
「あれ、どこで聞いた? 誰に聞いた? そして、誰と誰に話した?」
と、保科先生は徐々に興奮し、早口になって言った。それに自分でも気づいたのだろう。
あ、すみません、と言って聞き直した。
「どこで聞いた?」
それで、私はあの言葉を聞くことになった経緯を正直に話すことにした。
「六本木の、たしか、オーパス・ズィーいう名前のクラブです」
それを聞くと、保科先生は何ら反応を示さなかった。知らないからではなく、あえて無反応にしているように見えた。
「なぜそこに?」
なぜそこに私たちは行ってしまったのか。それはとても重要なポイントだった。

私も真奈美も、早慶大学の三年生だ。
ふたりとも、就職活動なんか絶対にしないということで意見が一致していた。
「つまらない人生なんて送りたくないよね」
会うたびにふたりでそう話していた。
真奈美には女優になりたいというちゃんとした夢があって、日本でも有名な学内の演劇サークルに入っていた。
けれども、見た目は華があるんだけれど、演技力が足りずにエースの座には付けなくて、壁に突き当たっていた。このまま女優を目指してもいいのだろうか。それとも親がいうように就職活動を始めなければならないのか。彼女はいつもそんな悩みを抱えていた。
私は、もっとひどくて、なりたいものすら見つからなくて、でもせっかく東京に来たからには普通に就職だけはしたくなくて、必ず何かで成功したいと思っていた。何で成功したいのかって聞かれると困るけど。

3年生になり、就活の解禁日があと8ヶ月、7ヶ月、6ヶ月と徐々に近づいてくるにつれて、不安が膨らんできて、ちょうどそのとき発売されていた雑誌の特集を見て、私たちはついに噂の「SIGRE HIKO」に飛び込むことにした。
都市伝説よりはきっと可能性は高いよね、などと言ってふたりで笑っていたが、ファイナルクラブの特集記事を見たときには、唯一残された希望のような気がした。
きっと、成功者は自分たちだけが知っている「成功の法則」を知っているに違いない。それを手に入れることができれば、私達も成功して幸せを勝ち取ることができる。少なくとも、一生蟹工船で働くような惨めな生活を送らなくて済むはず。
飛び込むと言っても、メンバーへのつては全然なくて、同じ早慶生だし、女子大生だし、真奈美は綺麗だから何とかなるだろうと思い、卒業してITベンチャー企業で大成功をしている西條宗介のパーティーに潜入した。まあ、私は潜入に失敗したのだけれども。
潜入した、真奈美が手に入れた手がかりは、「サイレンス・ヘル」という言葉だけだった。

「ということは」
と、保科先生は言った。
「そこであの言葉を聞いたのは、君とその子だけだったということだね」
私はこくりと頷いた。正確にはそこで西條宗介から直接その言葉を聞いたのは真奈美だけで、私は今朝LINEで知らされただけだけど。
「それで、その子は今どこに?」
「連絡がつかないんです。朝にメッセージをもらったきり」
すると、保科先生は携帯電話を操作しながらひとりごとのようにこう言った。
「あいつ、イエローカードって言ったのに」
「イエローカード?」
私のほうをチラリと見て言った。
「あ、もちろん、さっきの言葉については忘れるように。友達のことは心配ない。僕が何とかするよ」
そう言って立ち上がり、携帯電話を耳に押し当てながらどこかに行こうとする保科先生の手を、慌てて掴んで引き止めた。これが最後のチャンスのような気がした。
「あの、私もファイナルクラブに入りたいんですけど!」
保科先生は、携帯電話を一度下ろし、きょとんとした顔でしばらく私を見つめて、やがて大笑いした。
「君がSIGRE HIKOに入りたいだって? それ、本当にウケるよ」
ひとりしきり笑うと、保科先生は思い出したように「あ、悪い、僕だ」と電話に出て、その部屋を後にした。
私は、なんだかとても恥ずかしい気持ちになって、しばらくの間、ひとり、その席に座っていた。

急転直下。
そう、あとになってその日のことを思い出すと、あそこを境に、まさに急転直下に人生が変わったのだと思うようになった。
そのターニングポイントとなったのは、まちがいない、「サイレンス・ヘル」という言葉を、私が発したあのシーンだ。
あれ以来、私の周りの時間が、急に速度を増し、私が見える景色が変わっていったように思う。
保科先生と早慶メディア・ラボで妙な対面をした翌日、なんだか気乗りがしなくて、1限目をさぼってベッドの上でうだうだしていると、何気なくつけていたテレビから、気になる言葉が聞こえてきた。
『たった今入った情報です! 今話題のIT企業オートクラシー本社に東京地検特捜部が強制捜査に入りました。インサイダー取引の容疑で、CEOの西條宗介氏が逮捕された模様です。繰り返します、オートクラシー本社に強制捜査が入りました』
……オートクラシー、……西條宗介?
「えっ!?」
私はベッドから飛び起きて、なぜかテレビの前に正座した。
ビルのエントランスから捜査員に挟まれて連行されてくるのは、一昨日の夜、私に「まずは男に抱かれてから来いよ」と言った、あの男だった。
しかも、少しも悪びれた様子もなく、顔を隠すこともなく、あのときのようにニヤついていた。今テレビに映っているのは、まちがいない、あの嫌な顔だった。
ふと、昨日の保科先生の言葉が耳に蘇った。

あいつ、イエローカードって言ったのに。

サッカーに詳しくない私でも、ワールドカップはテレビで何度か観たからいくらかルールはわかる。イエローカードの次はレッドカードだ。
「もし、これがレッドカードだとしたら……」
それからまもなく、携帯が振動し始めた。LINEのメッセージの受信。
真奈美からだった。

『遥香へ。心配かけてごめんね。急なんだけど、私、九州の田舎に帰ることにした。実家の文房具屋、やってみようと思って。相談もせずにごめんね。私は大丈夫だから』

すぐに私は真奈美に電話をした。何かの冗談かと思った。
着信音が鳴らずに、すぐに通話に変わった。
「もしもし、真奈美!? あなた、本当に……」
そうまくし立てるように携帯電話に向かっていう私に応答したのは、録音された無機質な音声だった。
この電話番号は現在使われておりません……。
いったい、どういうことだろうか。何が起きているんだろう。
西條宗介はインサイダーの容疑で逮捕され、真奈美は急に九州の実家に帰る?
あの夜、共に過ごしたふたりが、東京での居場所を失おうとしている。とても偶然だとは思えない。誰かの意図が介在しているはずだ。とても力を持った誰かだ。
保科先生は、昨日、こうも言っていた。
友達のことは心配ない。僕が何とかする。
何とかするって、こういうことなの?
でも、あの保科にそんなことができるとも思えない。保科はそもそも助手に過ぎないのだ。だとすれば、このすべてを命じているのは――。
「ゴッドマザー」
その言葉を口にすると、一瞬、背筋が寒ったような気がした。
まちがいない、「ゴッドマザー」の異名を持つ渋沢恭子が裏で手を回しているのだ。
「こうしてはいられない」
私は大慌てで着替えを済ませて、マンションを後にした。すっぴんなのはいつものことだ。

早慶メディア・ラボに行き、また昨日の受付の女性の前に立つと、今日は打って変わって怯えたような表情を見せた。
私はほくそ笑んで、あえてゆっくりと大きく呼吸を吸って、あの言葉の頭文字、「さ」の発声の口をして見せると、待って、と彼女は制した。
「わかったから、それ以上は言わないで! すぐに呼ぶから!」
まもなく、出てきたのは、思ったとおり、今日も保科先生だった。
ただし、昨日と違って、全然慌てたそぶりは見せなかった。
しかも、事件への関与をてっきりとぼけるものと思っていたが、意外にも相手はこう切り出した。
「さて、穏便に話し合おう。君の望みはなんだ?」
それは自分たちが事件に関わっていることを暗に認めたも同然だった。変に突っぱねて、学内で噂になってしまったり、最悪ネットやマスコミに情報を流されるよりも、ここで処理してしまったほうがいいと考えたのだろう。と、いうことは、逆に考えると私は有効なカードを握っているということになる。
「直接お伝えしたいので、まずは渋沢学部長に会わせてもらえますか」
どうせカードを使うなら、ボスに使ったほうがいい。
「それはできない。僕が学部長の全権代理だと思ってもらっていい。もちろん、学部長へは君のことも含めて僕のほうから全て説明しておく。つまり、僕がこれから君に約束することは、すべて学部長本人が言ったとみなしていいということだ」
「なら、すぐに長瀬真奈美を連れ戻してください。確かに、首を突っ込みすぎたかも知れませんが、九州に帰って夢を諦めるだなんて、あんまりです」
「何か、君は勘違いしているようだ。長瀬君が君に何を言ったか知れないけれど、事実はそうじゃない。あの夜、彼女はSIGRE HIKOのテストを受けて、その先のテストを受けることを自ら辞退したんだ。こんなことに巻き込まれるんなら、もう東京にはいたくない、もう成功なんかしたくないと」
その言葉に、私はちょっとショックを受けた。
「真奈美がファイナルクラブの入会テストを受けたんですか? ひとりで?」
「テスト、といっても、本当の入会テストを受ける前の、度胸試しみたいなものさ。これで、彼女には『成功する覚悟』ができていないということがわかった。そして、そのことを自覚した彼女は、自ら九州の家族の元に帰ることを選んだ。ただ、それだけのことだ」
あの場所で何があったのかはわからない。
どんな状況からそんな話になったのかはわからないけれども、私は真奈美に抜け駆けされて寂しいような、悲しいような、複雑な気持ちになった。やっぱり、真奈美みたいな華やかな女子はVIPルームに通されて、私みたいな垢抜けない女子は帰される――。それが世の中の仕組みなのかと思うと、悔しかった。とても悔しかった。
「保科先生、私の望みは何かってさっき聞きましたよね?」
「ああ、それがどうかしたか?」
そういう保科先生の目に、怯えのようなものが一瞬見えた。
「私をファイナルクラブ『SIGRE HIKO』に入会させてください。入会テストを受けさせてください」
まだわからないようだね、と保科先生は心底呆れたように言った。
「それはできないんだよ。なぜなら、はい、どうぞ入会を許します、といえるほどSIGRE HIKOは簡単じゃない。僕にはもちろん、学部長にだって入会させる権限はない。クラブのメンバー全員の承認が必要だからね」
だったら、と私は言った。
「学部長とクラブのメンバー全員の承認が得られるように、先生が私を鍛えてください。私、どうしても成功したいんです。このまま田舎に帰るわけにはいかないんです」
保科先生は、今までに見たことのないくらいの真剣な眼差しでじっと私の目を見つめた。
そのとき、保科先生がその一瞬で何を企んだのか、私にはわからない。けれども、この沈黙の一瞬で、彼は何らかの可能性を見出したんだろうと思う。保科先生の眼差しの奥に、微かな火が灯されたようにも思えた。なぜか、一気に風向きが変わった。
保科先生は、やがて、掠れるような声でこう私に言った。
「本気か?」
私はその眼差しをまっすぐに受け止めてこくりと頷いた。頷いた瞬間、これから起こることに対して、恐怖心を抱かないでもなかった。しかし、恐怖心や後悔よりも、期待のほうがはるかに大きかった。
「垢抜けない田舎娘を一流に仕上げるのも、面白いかもしれないな」
そう言った保科先生は、もしかして、私を鍛えることを単なる余興と考えているのか知れない。けれども、そのときの私にしてみれば、理由なんてどうでも良かった。秘密の成功法則への好奇心を止められなかった。
息をのんで、次の言葉を待った。
「わかった。僕が全力で君に『ゴッドマザーの成功法則』を叩きこもう。君が成功から逃げない限り、ちゃんと教えると約束するよ」
「やったー!」と思わず私は腕を突き上げて叫んでいた。
「成功したくて上京したんです。逃げるはずないじゃないですか!」
保科先生は耳から垂れていたイヤフォンのコードを指で弄びながら、それを鼻で笑った。
「はたしてそうかな」

 

 

〔第1講〕 成功者は誰にも明かさない「成功の秘密」を持っている/成功の仕組み

保科秋。
彼のことを調べてみると、意外なことがわかってきた。
大学では、経営学部の講師として、うだつがあがらないとしか言いようがないのだけれども、MITメディア・ラボ(米国・マサチューセッツ工科大学内に設置された研究所。 主にデジタル技術の研究、教育を専門としている)を模して、早慶版のメディア・ラボを作るという計画が持ち上がったとき、大学側と交渉し、資金を集め、実務面を全て取り仕切ったのは、何と彼だったという。
また、日本初の本格的ファイナルクラブ「SIGRE HIKO」を立ち上げる際も、彼は全ての段取りをつけた。成立後は支配人として主宰の渋沢恭子を支え続けている。
つまり、渋沢恭子にとって、いつしか保科秋は、なくてはならない存在になっていたのだ。
なぜそれを私が知っているか?
保科先生を待っているときに、メガネの秘書が全て教えてくれたからだ。保科先生の特別講義を受けることになってから、先生が彼女に対して私のことを説明してくれたらしい。警戒心むき出しだった彼女は、それから手のひらを返したように、打ち解けるようになった。私が聞かなくともいろいろ教えてくれることになった。
秘書さんはこうも言っていた。
「大学の講師なんて表の顔よ。保科さんの仕事は渋沢先生の仕事全てを完璧にサポートすること。あなた、アルプスの少女ハイジって知ってるかしら」
「ええ、なんとなく」
「あれのクララのセバスチャンが、保科さんよ」
クララのセバスチャンの意味がわからなくて、後でGoogleで調べたところ、それはどうやら「忠実な執事」という意味らしい。
だとすれば、『ゴッドマザーの成功法則』を誰よりもよく知っているのは保科秋だと言える。
わかっていると思うけど、と最後に秘書は言った。
「これ、誰にも言っちゃダメね」
ここ数時間で、そのセリフはもはや私たちの間では決まり文句になりつつあった。
予定の時間よりもきっかり3時間遅れて、保科先生は現れた。まるで悪びれる様子もなく、よっ!と手を挙げる。
いつものように耳にはイヤフォンをつけて白衣をつけている。まさか、大事な用事とかいって、昼寝でもしていたのではないだろうか。そう思えるほどリラックスしていた。

特別講義は、早慶メディア・ラボ内にある保科先生の研究室で行われることになった。
研究室といっても、何もない。本当になにもない。黒板代わりのガラスボードとデスクの上にMacBook Airが1台あるだけ。私のために、とりあえず机と椅子を一組用意はしてくれたらしい。
「あの、ここで本当に『成功の法則』を教えてもらえるんですか?」
思わず、懸念が口に出てしまう。
君はおかしなことを言うね、と保科先生は笑った。
「それじゃあ、逆に聞くけど、どういうところでなら、『成功の法則』を教えられるに相応しいと思っている? そもそも、『成功の法則』ってどんな形をしているんだろうか」
「やっぱり、有名な大学の大講義室とか? あとは最新の設備を使ったプレゼンテーションとか?」
「君は、あれだな、サンデル教授の白熱教室とTEDの見過ぎだな」
と、保科先生は笑う。
「ハーバード白熱教室とかTEDって誰にも見られてもいいというのが前提でしょう。つまり、それは裏を返せば誰もが知り得る情報でしかないということであって、別にそれ自体に成功の秘密が詰まっているわけではない」
たしかに、簡単に触れられる情報に、成功の秘密が詰め込まれているのであれば、誰もが簡単に成功できるはず。でも現実はそうはなっていない。
「『一子相伝』という考え方って聞いたことがあるかな。学問とか芸術とか、芸能とかの奥義を、自分の子ども一人だけに代々受け継がせるという考え方なんだけどね。今から君に伝えることは、それに近い」
「歌舞伎とか剣術とかですかね」
そう、と保科先生は頷く。

「もちろん、宗家を継ぐ人以外にもたくさんの弟子がいるから、『ある程度のこと』は教えるんだよ。宗家だの家元だのと言われる人は。けれども、本当に大切なコアな部分は、自分の後を継ぐ子ども一人にしか受け継がなかったんだ。実はね、これは大昔のことではなく、日本だけのことでなく、世界中で大昔から行われてきたことなんだよね。秘密結社やギルドや、まあ、宗教もだろうけど、そういった本当のコアな秘密を守るために組織が出来上がったと考えていい。世界的に有名な秘密結社フリーメンとかも、元々は職人たちのギルドが大元になっているというしね。彼らはメンバー内だけで、コアの情報を共有したんだ。それぞれが『成功の法則』を持っていた」
なるほど、と私は頷く。
「そうして自分たちだけで成功を独占した、ということですね。他の人が真似されると、富が分散してしまうから、本当のコアの部分は誰にも教えないようにしたということ」
「案外、飲み込みが早いね。そう考えてみると、世の中の仕組みって本当に簡単だよね。何らかの手段で『成功の法則』を手にした、ほんの一部の人だけが、成功と富を独占している。法則というと難しいかもしれないから、『成功のコツ』といってもいいかな。もちろん、『伝授』されるということは、どの『成功法則』にも必ず起源となったひとがいる。その人は多分、相当なリスクを負って、相当な数の失敗を繰り返したあとに、ようやくその法則を手にしたのだろう。それを簡単に他人に教えて上げるはずがないよね。普通に考えれば、家族か、あるいは自分が信頼する仲間か部下に、その秘密を託そうと考えるのが自然なはず」
「だとすれば、世の中に出回っている、成功できると謳っているビジネス書って」
「あんなもの、味のなくなったチューイングガムみたいなもんさ」
と、保科先生は笑った。
「たとえば、よく、『これで儲かる!』みたいな株式投資の方法を描いたような本が時々ブームになるよね。でも、あんなのもう本になっている時点で嘘っぱち。普通に考えてみて。もしそれが本当に有効だったら、誰にも教えたくないよね。教えたとしても、自分の利益が減らないような部分だけしか教えないはず。じゃないと、せっかく誰も見つけていなかった自分だけの果樹園に多くの人を招き入れることになるからね。でも、実っている果物の数は一定で、多くの人が来れば――」
「当然、自分の収穫量が減る」
そのとおりだよ、と保科先生は私の顔を指す。
「そんなお人好し、いるはずがない。そう言った本に書かれていることって、もう味がなくなっているか、教えても自分の利益を圧迫しない情報でしかない。成功者は、人に味のなくなったチューイングガムを掴ませておいて、その間に自分はまた新しい味のあるガムを独り占めする」
「でも、なんで多くの人がそれに騙されてしまうんでしょうか。簡単に成功するってうたっている本って今でもかなりたくさんありますよね」
「そこが成功者のずる賢いところだよ。成功者は味のなくなったチューイングガムを、味があるように見せかけるのが上手なんだ。味がなくなっていることを悟らせない。実際に、自分はその方法で成功したんだから、実体験としての説得力がある。重要なのは、彼らが先行者として使ったときはその法則は使えたけれども、読者が本を読む時点ではすでに使えなくなっているということ。だから、読者はいとも簡単に騙されてしまう。実際には使えないと考えたほうがいい」
「だれも自分の果樹園には招きたくないですもんね。果樹園の場所を教えるのは、もう果物の収穫量が落ちてから、ということですね」
「そのとおり! そもそも考えてもみなよ、世の中には胡散臭いコンサルタントがいて、起業に助言したりして高額なコンサルタント料をせしめているけど、本当に成功法則を知っているんなら、自分でやったほうが遥かに儲かるでしょ」
「本当ですよね。じゃあ、どうしてそういうコンサルタントは自分でやらないんですか?」
その答えも単純明快、と保科先生は不敵な笑みを浮かべた。
「彼らは本当の『成功の法則』を知らないんだよ。もしくは、その成功法則が、その程度のものでしかなく、その方法を人にコンサルをするほうが儲かる程度のものなのか。本当に成功の方法を知っている超一流のマーケターは、そもそも怪しげなコンサルタントになんかならない。自分の事業でその成功法則を試してみる。たとえば、楽天の三木谷浩史さんはその代表だよね。彼はハーバードの大学院でMBAを取る際に、マネジメントやマーケティングを徹底して勉強した。彼の著書を読むと、特にフィリップ・コトラーの書いた大著『マーケティング・マネジメント』に多大な影響を受けたと見ていい。何せ、三木谷さんの著作にある例は、その本からまるまる引用している部分もあるからね」
「でも、さっきの話からすれば、それってもう味のなくなったチューイングガムになっているってことじゃないですか?」
「いや、違うんだよ。海を超えることによって、時を遡ることができる場合もある。楽天の三木谷さんやソフトバンクの孫さんは、どちらもアメリカで学んで日本でマーケットを作ったんだけれども、そもそもアメリカで流行ったことは3年後に日本でも流行るということも言われているくらいだから、同じ成功法則でも、海を渡ることによって、タイムスリップしたと同じように使える場合がある。彼らはこの法則に気づいて、リスクをとって実行したということなんだね。もっとも、これからの時代は更にインターネットでの結びつきが強くなり、しかも、翻訳機能も精度が上がっているので、このタイムラグがどんどん縮んでくると思うけどね」
「つまり、アメリカで流行ったことが、すぐに日本でも流行るようになる、ということですね」
そう、と保科先生はうなずく。
「いずれ、タイムラグが全くなくなって、逆に日本で流行ったものがアメリカで流行る時代にもなると思う。その可能性を見せているのが、君もやっているLINEだよね」
「あ、LINEってこの?」
と、私はスマートフォンを指す。今ではガラケー時代のメールに変わって、友達とコミュニケーションを取る上でなくてはならないものになっている。
「これはじつは、日本のNHNという企業が作ったサービスだ。NAVERまとめのサイトも運営している会社だけどね。今までは、アメリカでTwitterが流行ってFacebookが流行って、Kindleで電子書籍が流行って、何年後かにようやく日本に上陸していたという、完全な一方通行だったけど、逆流する可能性もあるよね。我々ファイナルクラブ『SIGRE HIKO』は、まさにそこを狙おうとしているんだ」
「日本発の、世界のスタンダード」
自分で口にして、鳥肌が全身に広がるのがわかった。
まさにそう、と自信に満ちた目で、保科先生は頷く。一瞬だけれども、その眼差しをかっこいいと思った。
もしかして、思っていた以上に「SIGRE HIKO」ってすごいのかも知れない。今のままの私がメンバーになれないのも当然の話だ。
「SIGRE HIKO」に入れてくれと言った自分を改めて恥ずかしいと思った。
成功するために、知らなければならないことは、まだまだ数多くあるような気がする。
「初回の今日は、『成功の仕組み』について話したんだけれども、どうだろう。理解できた? ちょっと書いてみようか」
ええ、と私は頷きながら、今日の話を思い起こす。ペンを持って、ガラスボードに要点を書いていく。

 

《成功の仕組み》
①成功者は誰にも明かさない「成功の秘密」を持っている。家族や組織でそれを共有し、成功と富を独占する。
②成功者が他者を「秘密の果樹園」に導き入れるときはその果樹園の収穫量が落ちたときだ。
③成功者は「味のなくなったチューイングガム」を他人につかませているうちに、自分はまた新しい「美味しいガム」を手に入れている
④本当に「成功の法則」を手に入れた超一流のマーケターは、コンサルタントにならずに自分で事業を興して成功を独占する。
⑤海を超えると時を超えられる場合がある。ただし、近年はタイムラグがフラットになってきていて、日本初の世界スタンダードが生まれる可能性もある。

 

「ま、そんなところだろう」
そう言うや否や、保科先生はガラスボードに書いた文字を一気に消しはじめた。
「えっ、まだノートに取ってません!」
そういうと、保科先生は呆れたように私を振り返った。
「ノートになんて取らせるものか。もちろん、録音も禁止。ここで一度に覚えろ」
おそらくぶすっとした表情を私はしていたのだろう。保科先生は穏やかにこう付け加えた。
「君が今聞いた話には、それだけの価値があるということだ」
たしかに、保科先生の言うとおりだ。今の講義はこれまで受けたどの授業や講義よりも、役に立つと思う。
「次回は、君が成功できない理由について、話そうと思う」
「私が成功できない?」
「ああ、今のままでは絶対に成功できない。君はある病にかかっているからね。そのことについて話そう」
私が病気にかかっている? 病気のために成功できない?
もちろん、まるで心当たりがなかった。
「それってどういうことですか? あれ?」
何のことか、考えているうちに、いつの間にか保科先生は部屋からいなくなっていた。

 

 

〔第2講〕 あなたが成功できないたった1つの理由

成功の仕組みについての話を聞いてからというもの、ますます、保科秋という人のことがわからなくなった。
ファイナルクラブ「SIGRE HIKO」の支配人でもあり、ゴッドマザー渋沢恭子の実務面を取り仕切る有能な執事であるなら、当然、「ゴッドマザーの成功法則」にも精通しているということだ。
だったら、なぜ、自分がこれを活かそうとしないのだろうか。うだつのあがらない講師をして、学生たちに馬鹿にされている現状を、簡単に打破できるのではないのか。
この前の特別講義のポイントにもこうあったはずだ。

④本当に「成功の法則」を手に入れた超一流のマーケターは、コンサルタントにならずに自分で事業を興して成功を独占する。

そうじゃなかったとしたら、保科先生もいんちきコンサルタントと何ら変わらないではない。
それとも――、と思うところがあった。
「まさか、別にもうひとつの顔があるということ?」
それというのも、保科は学内にいることがあまりないらしく、しかも、相当に忙しいらしいからだ。メガネの秘書に聞いても、学外で保科先生が何をやっているかは知らないらしい。いや、単にふらふらしているのかもしれないが。
真相を突き止めるために、私は保科先生の後をつけることにした。
一応、サングラスとマスクと帽子で変装もして、尾行をした。保科先生は大学へはママチャリで通っていたが、走れば何とかなるだろうと思ったのが甘かった。このママチャリ、まるでエンジンがついているかのように早い。
慌ててタクシーを拾ったが、ママチャリは渋滞に引っかかる車を尻目にすいすいと進んでいく。結構いいところまでついていったんだけれども、渋谷あたりの入り組んだ住宅地でママチャリを完全に見失ってしまった。
仕方なく、タクシーを降りて、途方に暮れてとぼとぼと歩き始めると、後ろから何かが迫っている空気を感じた。感じた時にはすでに遅かった。後ろに体ごといきなり引っ張られて、私の身体は宙に浮いていた。
「きゃー!!」
と、生まれて初めて女の子らしい悲鳴を上げてみると、周りには誰もおらず、私は黒塗りの大きな車の中に引きずり込まれた。
すぐに口の中に何か布のような物を入れられて猿轡をされて、腕は手錠で固く拘束された。それでも涙ながらに足をバタバタさせていると、足首も紐で固定された。
「おとなしくしろ。騒げばすぐに殺す」
耳元で、男の声が言った。私は黒塗りの車の後部座席で、屈強な男に左右を固められていた。
横腹に、何か硬いものが押し当てられているのがわかった。
まさか、ピストル!?
怖くて、それを見ることができなかった。
いやー!!と騒いだつもりが、声は出なかった。もがいても、拘束がきつくなるだけだった。
どうして私が?
最初はそう思ったけれども、考えてみれば心当たりがあった。
インサイダー取引で逮捕された西條宗介の仲間か、彼に覚せい剤を卸していた裏の組織ではないだろうか。とにかく、強制捜査が入った六本木の「プラワー」というクラブに、あの日私がいたことが誰かに知れてしまったのだろう。
あそこには、確かに、そこにいたことが知られるとまずい人たちもたくさんいた。タレントやモデルのように見えた人たち。または西條宗介の仲間と思われる、他のベンチャー企業の代表たちだ。
誰にも言いません! あなた達があの日、あの場にいたことは、絶対にマスコミや警察にリークしません!
そう全力で言おうとしたが、猿轡をされているので、もごもご言っているようにしか聞こえない。
最後に目隠しをされたとき、私は本気で殺されるのではないかと思った。殺されなかったとしても、無傷では帰れないだろう。
成功したいという私の夢は、ここで潰えるのだ。
そう、そもそも私が成功しようと考えたこと自体が間違いだった。おじいちゃんやお父さんがいうように、地元の国立大学を出て、公務員試験を受けて県庁か市役所に勤めて、同じ公務員の人と結婚して、無難な人生を送っていればよかったのだ。
人には分相応ということがある。
垢抜けない私が、いくら背伸びしたって、やはり渋沢恭子のようにはなれないのだ。あっちは血統証明書付きのペルシャ猫だとすれば、こっちは雑種の野良猫だ。どうせ、私には無理だったのだ。田舎で、ちょっとだけ周りよりもいい暮らしをして、優越感に浸るのが関の山だったのだ。
2分の1で不利な結果が出るとしたら、ハズレに当たるのは私のほうだ。思い返してみれば私の人生とはそういうものだった。
地元の進学校を出て、運良く、いい大学にも入れたので勘違いしていたけれども、いつもそうだった。
爪は横爪だし、目は一重だ。2分の1の確立の場合、私は常に劣性の結果がついて回ってきた。逆に、下手に当たるよりも、外れた方が心地いいように思える時もあった。
なぜなら、私は成功するはずがないからだ。きっと、成功してはならない宿命だからだ。
この騒動が落ち着いたら、実家に帰ろう。
お母さん、お父さん、おじいちゃんにおばあちゃん、妹にチャコ。みんな私を「よく頑張った、精一杯頑張った。これ以上無理しないでいい」と優しく労ってくれるに違いない。
これからは大人しく生きよう。大人しく生きるから、頼むから、頼むから助けて。もう成功したいなんて大それたことは考えないから、田舎の家族の元に返して。
私は猿轡をされ、目隠しをされながら、おいおい泣いていた。鼻水を垂らしながら、泣いていた。
そのあと、気を失ってしまったのか、眠ってしまったのかわからない。
次に気づいた時には手足が自由になっていたし、猿轡も目隠しも外されていた。
ただ、あまりに泣いたために、目の辺りが重く目が霞んでいた。薄暗い部屋にいるようで、周りに人の気配がした。
「気がついたようだね」
声が聞こえていた。まだ夢見心地で、聞いたことがある声のようにも思えたし、初めて聞く声のようにも思えた。
「もう、田舎に帰りたくなったんじゃないか。家族が君を待ってる」
なんで私の心の中がこの人にはわかるんだろう。
ええ、帰ります。もう、分相応な夢は見ません。田舎に帰りますから、命だけは助けて下さい――。
そう言おうとした瞬間に、視界がクリアになった。
たぶん、カーテンが閉められているので部屋は全体的に薄暗かったが、目の前にいる男の顔ははっきりと認識できた。言おうとした言葉を飲んだ。代わりに出てきたのは、率直な疑問と、そして怒りだった。
「なんで……?」
眼の前にいる男の耳にはアップル純正の白いイヤフォンが付けられていた。間違いない、ママチャリで消えたはずの保科秋だった。
保科先生の周りには黒服の男たちがいる。
下がっていい、と保科先生が合図をすると、男たちは部屋を出ていった。
「なんでって、これが今回の講義なんだよ。この後、本当に君はファイナルクラブ『SIGRE HIKO』のメンバーになれるかどうかを試す、試験でもあった」
試験って、と私は一度絶句した。
「私、本当に殺されるかと思ったんですよ!」
「そうでもしなければ、人間、自分でも本音がわからない。それだから、あえて極限の状況を作った」
私の怒りに対して、表情一つ帰ることなく、保科先生は淡々と言った。
「暗闇を思い出してほしい。君は何を思った? 心から田舎に帰りたいと思ったんじゃないか? ささやかな普通の幸せがほしいと思ったんじゃないか?」
図星だった。保科先生が言うとおりだった。私の沈黙は、保科先生が肯定と受け取るには十分だった。
「つまり、君にはファイナルクラブ『SIGRE HIKO』に入る資格がないということさ。『成功法則』を知ったところで、君にはそれを活用することができない」
「どうして……」
「どうしてだって? それは一番君がよくわかっているだろう。君は本当は成功したくないんだよ。暗闇で、君の心はそう叫んでいなかったか?」
私は本当は成功をしたくない?
でたらめを言われていると思ったのもつかの間のことだった。その言葉が、徐々に胸に馴染んで来るように思えた。
保科先生がいうように、私は本当は成功したくないのではないだろうか。
「何も君だけじゃないんだ」
保科先生は、打って変わって優しい口調で言った。
「実はね、この世の中のほとんどの人は、成功したくないと思っている。自分でそれに気づいている人は確かに少ないだろうけど、さっきの君と同じ状況に置かれると、みんなこう思うんだよ。調子に乗って、分不相応な夢を抱いてしまって申し訳ありませんと」
「それが、本音っていうことですか」
そう、と保科先生は頷く。
「表層の心理は自分自身さえも騙すこともあるけれども、深層心理は嘘をつかない。そして、成功するためには、さっき君が体験したような、いや、もっと過酷な暗闇を何度も潜り抜けなければならないんだよ。成功とは、数少ない何かを勝ち取ることだ。そのためには、近しい人を犠牲にしなければならないときもあるだろうし、人から恨まれることにもなる。妬まれることにもなる。普通の人が思う以上に、孤独なんだよ。華やかなスポットライトを浴びながら、真実、毎日が暗闇だといってもいい。成功の階段を登っている最中に、暗闇に遭遇するたびに、君の深層心理は今日のように泣き叫ぶことになる。成功したくない。本当は成功したくないのだと」
なぜか、保科先生の言葉には説得力があった。まるで、自分自身の体験を語っているかのような臨場感があった。
ふと、保科先生の先日の言葉を思い出した。
成功したくて上京した、成功から逃げるはずない、といった私を鼻で笑ってこういったのだ。
果たしてそうかな、と。
そして、前回の特別講義が終わった後、こうも言っていた。
「今のままでは絶対に成功できない、君はある病にかかっているから」
それはつまり、と私は一筋の光明を見たような気がした。

「でも、保科先生は、私がかかっているその病を治す方法を知っているんですよね」
治す方法は知っている。けれども、相応の覚悟がなければ結果的に痛い目に会うことは目に見えている。だから、今、こうして私を試すようなことを言っているのだ。
保科先生は一度うつむいて、ふっと笑ったように見えた。
「藤村遥香君」
と、初めて私のフルネームを呼んだ。
はい、と思わず返事をする。
「君は本当に面白い素材だよ。もちろん、今までの『SIGRE HIKO』のメンバーにはいなかったタイプだけれども。長瀬真奈美君とも違うようだな」
「え、真奈美?」
意外な名前がここで出てきた。が、すぐに思い当たることがあった。
「まさか、真奈美が受けた入会テストって……」
そう、と保科先生は頷く。
「あの夜、さっき君にやったのと全く同じ試験をしたんだよ。そして、彼女は自ら成功の階段から降りることを決意した」
もしかして本当に死ぬのではないかという極限状態におかれたときに、痛感したことは今考えるととても単純なことだった。

世の中に存在する富は限られている。それに比例して成功の数も限られている。

そう考えると、たとえば、もし私が成功したとすれば、誰かの成功する機会か、既得権益を侵すことになる。要するに、誰かが手に入れるはずの富や成功を、私が手に入れることになるので、当然のように、そこには恨みや憎しみという感情が生まれてくる。
もし、既得権益をもっている人が、自分に恨みや憎しみを抱いたとしたら、いったい、どうなるだろうか。本当に、さっきのようなことにもなりかねない。
そんなとき、「やっぱり、私には無理なんだ」と思うことは当然のことだ。それをはねのけてまで成功したした時には、また恨みや憎しみとともに、今度は世間の妬みなどに身が晒されることになる。成功が大きくなれば、メディアへの露出も多くなり、好奇の目にさらされ、何かミスがあると一斉に非難されることになるかもしれない。
そんなことになるくらいなら、その箱は開けないでおこうと思うのは、もしかして、本能的なものなのかも。
富や名声という豪奢な装飾をほどこされた「成功」という名のその箱は、扱い方を間違えれば「パンドラの匣」になるのかもしれない。
真奈美はそのことに気づいたのだ。そして、その箱を開けないことにした。

私はどうだろうか。
たしかに、成功は怖いものなのだと思う。下手をすれば、身を滅ぼすことにもなりかねないし、そう考えるとおとなしくして田舎の家族と過ごすほうが断然いいようにも思える。それがみんなにとって正解のなのだろうとも思う。
けれども、みんなにとっての正解がつねに私にとっての正解にとは限らない。
想像してみる。
田舎に帰って、私はいったい、どんな生活をするのだろう。公務員になって、堅実な旦那と結婚して、やがて子どもが生まれて、穏やかに老いていく。表面的には幸せだろうし、たぶん、しわしわのおばあちゃんになって死の床にあるときは、多くの孫達に囲まれて、息も絶え絶えになりながら、こんな声を耳にするのではないだろうか。
「おばあちゃん、本当に幸せな人生だったよね。こんなに多くの家族にも囲まれて、本当にいい人生だったよね」
みんな勝手にそう結論づけて、おばあちゃん、ありがとう、本当にありがとね、と涙ながらに口々にいい、それはそれで見た目上はこれ以上ないくらいのハッピーエンドなんだろうけど、意識が朦朧として死の床にいる私はそのとき、いったい、何を思うのだろうか。
「私は本当はこんな人生を送るはずじゃなかった! もっと面白い人生を精一杯生きるはずだった! 戻れるなら、あの時に戻りたい。そして、人生をもう一度やり直したい」
不思議なことに、魔女のようにしわがれたその声が、はっきりと聞こえたような気がした。
私は途端に怖くなり、急かさせるようにしてこう言った。
「私は、降りません」
そう、今逃げることで私の人生はきっと取り返しのないことになる。今この時点の私の決断を、将来の私は事あるごとに振り返り、後悔することになる。

「その病について、そしてその病を克服する方法を教えて下さい。私は成功したいんです。自分の人生を精一杯生きてみたいんです」
まるで私の心の裡を見透かしたように、保科先生は穏やかに微笑んでこう言った。
「ここからは後戻りはできないが、それでもいいか」
はい、と私はしっかりと頷く。
「わかった」
そう言って、保科先生が壁際のスイッチを押すと、窓側の暗幕が開きだした。強烈な光が差し込む。
目隠しをされ、しかも薄暗い部屋にいたので、そのまばゆさに慣れるまで時間がかかった。その部屋は思った以上に広いオフィスの一室だった。
設備は最新のビルのように思えた。足元もクリムゾン・レッドの見るからに高そうな絨毯が敷き詰めてあり、部屋の遠い方の壁には、おそらく、会社の紋章が掲げられていた。「D&E」という文字がロゴになっていた。よくみれば、その紋章は絨毯の四隅にも大きく刺繍されていた。
窓の外を見ると、予想外に高層階にいるらしかった。恐る恐る、窓のほうに寄ってみる。隣接するビルは、このビルより背が低い。見覚えのある建物がビル間に見えた。
「恵比寿……」
きっと、下に見えているのは恵比寿ガーデンプレイスのレストランだ。
「そう、恵比寿D&Eビルディング。これは僕のビルだ」
振り返ると、仕立てのいいスーツに身を包んだ、保科秋がいた。薄暗くて、さっきまでよく見えなかった。いつものヨレヨレの白衣ではなかったからか、別人のように見えた。スーツばかりではない。髪型も今日はきっちりと整えられていた。ただし、白いイヤフォンをだけは耳に付けられたままだった。
「この建物が、保科先生のもの?」
言葉が音として脳の表層を漂い、なかなか意味として中に入って来なかった。
ようやく言葉の意味が飲み込めてくると、湧き上がるのは疑問ばかりだった。
なぜ、うだつのあがらない大学の講師がこんな最新鋭のビルを持っているのか?
なぜいつもと格好が違うのか?
「そう。これが僕のもうひとつの顔だ」
そう言って差し出した名刺にはこう書かれていた。

株式会社D&Eコーポレーション
代表取締役社長 保科秋

その名前は私も聞いたことがある。
今話題の、世界を股にかけて活躍していると言われる、日本発エクセレントカンパニー。

 

 

 

 

〔第3講〕 成功リミッターを木っ端微塵に粉砕する方法

D&Eコーポレーションについては、前にテレビで特集していたのを観たことがあった。そのときは、確か、広報担当の女性社員が応対したので社長は出ていなかった。
それが、まさか、私のゼミの先生だったなんて。
この会社が商うものは「情報」だと、広報の女性が言っていたことが強く印象に残っている。今はコンピュータの性能が飛躍的に上がっているので、データを集めるのが一昔前よりも格段に容易になっているということだった。
たしかに、スマートフォンまで普及するようになり、日常的に私たちの周りには夥しい数の、いや、途方もない規模の情報が行き来しているのは間違いことなのだろう。
様々な場面で必然的に集められるデータを「ビッグデータ」と呼ぶのだという。人は昔よりも幅広い趣向を持つようになっており、市場調査でデータを取る場合、昔よりも膨大できめ細かいデータが集まってくる。
Amazonなどいい例で、メールやホームページで「こんな商品はいかがですか?」とおすすめして来る。それが「どうしてわかったの!?」と思わず聞き返してしまいたくなるほどに精度が高くなっているが、あれがまさに「ビッグデータ」の活用だと私は解釈した。
広報の女性は、その番組でこうも言っていた。
『ビッグデータを制するものが世界を制すると言われて久しいのですが、実は、有効なデータが手元に多くあっても、それを正しく解析する人間が圧倒的に不足しているんです』
それは、たとえばこういうことではないだろうか。
鉱山から貴金属を多く含んだ鉱石を大量に掘り出す技術は確立しつつあるんだけれども、その鉱石から貴金属を取り出す技術を持っている人はあまりに少ないと。
『我々、D&Eコーポレーションは、まさに使えるデータを選り分けるための、世界で最も精度の高い技術を持った企業なのです。ですから主に海外ではこう呼ばれています。「情報の錬金術師」と』
その「情報の錬金術師」と呼ばれる男が、今、目の前にいる。しかも、私一人のために。その現実をどう受け止めていいのか、わからない。もしかして、幸福とは、後になって思い返したときにしか感じないものなのかもしれない。
「さて、君がかかっている病のことについて、一緒に考えてみよう」
そう保科先生は言った。言葉とは裏腹に、科学者のように冷たくはなく、温かい言い方だった。
「成功したくない病、ですか」
「または、成功回避の心理、とも言う」
成功回避の心理。そう心の中で唱えてみれば、何か、語感としてしっくりいくような気がした。
「これがなぜ恐ろしいかと言えば、自分ではまったく気づかないからなんだ。たとえば、あと少し、アクセルを踏み続ければライバルに勝てるのに、自分には無理だと思って、アクセルを緩めてしまう。自分で決断しているように思えるので、まさかそんなリミッターが作動していたなんて自分でもわからない。負けたとしても、やっぱり自分には無理だったんだ、と納得し、そしてどこかで安心している自分がいる」
「わかります、それ、とってもわかります。でも、どうして人間には成功リミッターなんてあるんでしょうか? 世の中が拡大する上でも、邪魔になりますよね。まるでウィルスのようなものじゃないですか」
「なるほど、成功回避の心理がウィルスか。これが蔓延すると、たしかに国家は力を失い、大変なことになるね」
「もしかして、今の日本はこのウィルスに冒されてしまっているのかも知れないね。ただ、症状は出ないし、死ぬこともないから多くの人が感染していることに気づかないのかも」
「確かに、君の推理も面白い。けれども、僕はちょっと違うんじゃないかなと思っている。ウィルスではないく、防衛本能なんだよ、この成功リミッターというやつは」
「防衛本能? 自分の身を守るための、ですか」
そう、と保科先生は頷く。
「すごい大雑把にいうと、日本人は宗教に頼らない世界でも特異な民族だ。キリスト教系の大学が、明治時代に日本に結構たくさんできたんだけど、それでも日本人の多くは別にキリスト教徒になったわけじゃない。禁じられているわけでもないのにね。ただ、宗教心の代わりに、『恥』という概念を持っている。たとえば、武士道などではそれがわかりやすい形で表れてくる。卑怯と言われ、おめおめと生き恥をさらすことができるか、と腹を切るということが実際にあった。生き恥の『恥』ことが、僕は日本人の宗教観の根底部分にあるものものだろうと思う。西洋人にとっては、この考え方は理解不能だと思うよ。今を生きる僕らにも、それは完璧には理解できないけれども、そんな日本人的な精神性はわからないでもない。そして『恥』は当然のように『常識』というものと表裏一体の関係にある。この『常識』が、日本人にとって、『聖書』や『コーラン』に代わる教典の役割を果たしたんだろうと思う」
わかるような気がする。大学でもそうだ。女子大生らしい化粧やおしゃれをしない私は、他の学生たちから見れば、「常識」外れの存在ということになる。つまり、目に見えない「教典」を破っている。だから、彼らはそういう存在をハブるのだ。
「まじ、あの子、浮いてない? ありえないんだけど」
そう彼女たちが言うときの「ありえない」とは女子大生の「常識」に照らせばありえないということだ。
「日本という国は元々は、農村などの村社会の寄せ集めだと考えていい。その基本単位である村の論理が、『常識』として受け継がれてきた。その常識にはバグがあったんだよ」
「バグって、コンピュータのバグみたいな?」
「そう、バグが常識に取り込まれたままに、淘汰されずに現代まで生き延びてしまったとも言えるかもしれないね。それこそが、成功回避の心理さ」
「成功したくないというバグ?」
「いや、ちょっと違う。失敗することだけではなく、成功することも『常識』から外れているとみなされることになったんだ。言ってしまえば、成功でも失敗でも他と違って目立つことが『常識』外れの悪とされるようになったんだよ。その根源が江戸時代の村社会にあったんだと僕は思う。その代表的なものが『五人組制度』だった」
「聞いたことがあります。日本史でやりました。百姓が年貢を納めるときに、五人で連帯して責任を負った制度のことですね」
「そんなところだ。ま、実際は百姓だけではなく、武士にも町人にもそんな連帯責任制度があって、5人だけではなく、もっと大勢が1単位になる場合もあったんだけども、1人の失態をみんなで補わなければならないという点では同じだ。それはたとえば、四人五脚で徒競走しているようなもので、1人が転ぶとみんなが転ぶ仕組みだった。だから、1人がコースを外れてとんでもないようなことをすれば、仲間全員がその1人を叩くようになった」
「たしかに、1人遅い人がいると、みんなの足手まといになりますもんね」
「ここでポイントなのは、遅い人だけではなく、早い人も、みんなにとって『悪』になったということだ」
「『みんな同じペースを守る』という絶対正義の中では、早いことも悪いことになったということですね」
そのとおり、と保科先生は頷く。
「このバグ、高度経済成長期には表面に出てこなかったんだよ。経済が右肩上がりに新調しているあの時代においては、みんなペースを守って同じ物を同じように大量生産することは、そのまま富につながった特異な時代だったからね。ところが、そんな特異な時代が終わったときに、そのバグの問題が一気に噴出するようになった。まるで、仕組まれた時限爆弾が炸裂したみたいに」
「リーダーや天才が出にくい世の中になった、ということですね」
「そう。日本で政治のトップである総理大臣がめまぐるしく代わり、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズやベゾスやザッカーバーグが日本で生まれないのは、このバグのせいなんじゃないかと僕は思っている」
「みんな、まわりのペースを乱さないように、アクセスを緩めるときがあるということですか?」
「本当はもっと早く走れる能力があったとしてもね。目立ってはいけない、みんなと同じペースで走らなければならないという村社会から引き継がれた『常識』が、成功回避の心理というおそるべきリミッターを生んだ」
江戸時代も高度経済成長期も、社会は天才よりも協調性を欲していたんで、その心理は防衛本当として作用しただろうと思う。けれども、今はそんな時代ではない。常識的な考えでは解決できない問題が、政治でも経済でも山積みになっている。そして、他国の天才たちにどんどん成功と富を奪われ、日本は明らかに弱くなってきている。
そういうことなんだろうと思う。
「それって、日本人だけでなく、女性にも言えることかも知れませんよね。長い間、男性の影になって、家庭を守ることを担ってきたんで、自分は成功してはいけないと潜在的に思っているものなのかも知れません」
「そうだね。歴史的にみて抑圧されていた側は、成功することになれていないから、成功回避の心理に冒されていることが多い。自分が成功してはいけないと、どこかで感じている。だから、最後の最後のギリギリの局面で、本当はアクセルを踏み込まなければならない場面で、アクセルを戻してしまうんだ。しかし、その一方で、自分こそが成功すべきだと考え、最後まで力強くアクセルを踏み続けられる人もいる。その両者に、実は能力の差はほとんどないんだよ。『成功回避の心理』というリミッターがあるかないかという違いでしかない場合が多い」
「でも、人生ってそんな僅差で勝負が決まる場面だけではないですよね」
確かに、と保科先生は頷く。
「僅差で勝負が決まる場面だけではない。だが、頂点に行けば行くほど、実力の差は拮抗し、僅差で勝敗が決る場合が多いんだよ。たとえば、モーターレースの最高峰、F1では、世界中からトップのレーシングドライバーが参戦しているんだけれども、2時間近くレースをする中で、たったの0.5秒しか差がつかないこともある。将棋も1手に泣く場合があり、試験勉強も何年間もそのときのために勉強してきたというのに、1点で泣く場合がある。競馬でも鼻差で勝敗が決まり、大統領選挙でも再集計するまで結果がわからないこともある。そんな僅かな差だというのに、1位と2位では得られるものに大きな差ができてしまう。実はね、世の中は勝者総取りが基本的なルールになっているんだよ。『成功』と客観的にみなされることになる頂点付近はそれが特に顕著だ」
「勝者総取りがこの世のルール……」
「そう。現実にだよ、2011年5月にボストン・コンサルティンググループが発表した、世界中の富の約4割が上位の1%の成功者が独占しているっていう調査結果を知ってるかい? それは、まぎれもない現実のことなんだ。その一方で、発展国の22%の人が一日1・25ドル以下で生活していて、2ドル未満で生活している人は43%にのぼっているにも関わらずだ。このルールの中で勝つためには、アクセルを絶対に緩めずに勝ち切るということがとても重要になってくる。ゴールテープをしっかりと切るということだね。そのためには『底力』が必要であって、多くの日本人はこの面において弱い。西洋人に比べて、圧倒的に弱い」
「その原因が、『成功回避の心理』、ということなんですね」
そうだ、と保科先生は頷く。
「切りがいいところで、『成功回避の心理』についてまとめてみようか。口頭で要点を言ってみなさい」

 

《成功回避の心理とは》
①「ウィルス」ではなく「防衛本能」として生まれた
②「常識」にバグとして入り込んだ
③リミッターが働いていることに自分では気づかない
④これまでの時代には影響があまりなかった
⑤僅差で勝敗が決る場面で決定的な差となって表れてくる

 

「まあ、そんなところだろう」
「でも、それってどうすれば克服できるんですか? 生まれつきのもので、治らないように思えるんですけど」
「いや、基本的にこれは慣れの問題なんで、治るんだよ。2つのことを守れれば、なんだけど」
「2つ、たった2つでいいんですか?」
「それを教える前に、ひとつ、確認したいんだけど、君の家はどうだろうか、成功者の家といえるだろうか。家族で成功した人はいる?」
「成功、って言っていいのかわかりませんけど、父は普通に市役所に務める公務員でしたが、祖父が昔、市会議員を勤めていて、副議長までなりました」
「おじいさんの名前は?」
「え、藤村徳造ですけど」
「いや、おじいさんは成功者じゃないよ」
その言葉に少しむっとした。地元では名士で通っているのだ。
「どうしてそんなことが言えるんですか?」
「僕が知らないからだよ。きっと、恵比寿の駅で道行く人に聞いても、ほぼ100%誰も君のおじいさんのことは知らないだろう。それだから、君のおじいさんは成功者ではない」
「別に、有名だから成功者だってわけではないじゃないですか。私たちにとっては祖父は誇りであり、成功者です」
だったら、と保科先生は鼻で笑って言った。
「田舎に帰ればいいじゃないか。もし、君がなりたい成功者の定義がそんなものなら、SIGRE HIKOの成功法則は宝の持ち腐れになる。そして、その郷愁こそが君の成功リミッターの主な原因になっていると言える」
「故郷を思う気持ちがいけないっていうんですか?」
「いや、全然悪くないよ。むしろ、家族思いなことはいいことだ。しかし、成功するためにはこれがメンタル面で大きなブレーキになることは間違いない。こんな詩を聞いたことはあるか?」
そう言って、保科先生は胸の内ポケットから手帳と万年筆を取り出し、こう書いて見せた。

男子志を持って郷関を出づ 学もしならずんば死すとも帰らず

口ずさんで見る。何か、悲壮なまでの決意が伝わってくる。
「夢を持って故郷を後にしたんだから、もしそれが叶わなければ死んでも帰らない……」
「まあ、そんなところだろうね。これは幕末長州の勤王の僧 月性の「出関」という詩で、明治維新の志士たちが当時好んで口にしたものだ。この覚悟が、それまでの国の常識をひっくり返すまでになった」
いいかい、と保科先生は改めて私の目を見て言った。
「郷愁とは、とてつもない強烈な想いだ。たとえば東京で夢を叶えるために故郷を離れて一生懸命奮闘している人は、石川啄木の『訛り懐かし停車場の』の短歌じゃないけど、ふとテレビから故郷の訛りを聞こえてくると、どうしようもなく胸が締めつけられてしまうことがある。もちろん、両親や年老いた祖父母、幼い弟や妹のことをもう気持ちは尊いものだ。けれどもね、尊いからこそ、その磁力というものは強烈で、それは容易にブレーキへと転用されることになる」
わかるような気がする。とてもわかるような気がする。
家族はいつも私に優しい。もうダメかもと弱音を吐いてしまうときは、いつでも帰って来なさい、と言い、ちょっと疲れたと言うと、無理をしないで休みなさい、と言う。
その優しさはもちろんありがたいけれども、確かに成功するということを考えるとブレーキにもなりえる。
「ということで、もうわかっていると思うけど、成功リミッターを粉砕するために守るべき約束事の1つ目は、これだ。男子志を持って郷関を出づ、学もしならずんば死すとも帰らず」
「え、でも」
「でもじゃない。明日からでもない。たった今から、この瞬間から、成功するまで故郷には帰らないと約束しなさい。もちろん、仕送りは受け取らず、故郷から米を送ってもらっているようであれば、それも返しなさい」
「でも、急に連絡を絶ったら、家族が心配します」
大丈夫、と言いながら、保科先生は先ほどの詩を書いた手帳のページを破って私に差し出す。
「手紙でこれを送ればいい。そして、以後支援は無用と一筆添えればいい。これができないのなら」
「わかりました」
と、私は保科先生に最後まで言わせずに、その紙片を受け取る。
「成功するまでもう故郷に帰らないと約束します」
やけくそで言ったわけではない。成功することは簡単なことではないと、このビルにいて感じるのだ。
窓の外を眺めると、東京には無数の人が住んでいることがわかる。成功するとは、保科先生が言うように、ここに住む多くの人に知られるということなのだ。
簡単なわけがない。何かを犠牲にしなければ、成し遂げられないことなんだろうと思う。そして、故郷には、成功してから堂々と帰ればいい。故郷にでかでかと錦に飾ればいい。
「それで、もう1つの約束事って何ですか?」
保科先生は、少し俯いて笑ったようだった。
「君は、本当に面白い素材だよ。今はまだ磨かれていないけれども、磨き様によっては、本当に面白いことにもなりかねない。それと、守るべきもう1つの約束事なんだけれども、もしかして、君はもうできているかも知れないね」
「え?」
「前向きに勘違いする。これがもう1つの約束事。少しの成功を衒うことなく、慢心することもなく、自分だけは必ず成功するはずだ、成功しなければおかしいと、自己暗示でもいいから思うことだよ。君は僕とこうして話すうちに、実際に成功に対して前向きになってきている。しかも、自分の能力を過信することもない。これはとってもいい兆候だね」
まさか、ほめられるとは思っていなかったから、どうしていいかわからず、きょとんとしてしまった。
「でも、できているという感覚がないんですけど」
なら、1つ付け加えよう、と保科先生は人差し指を上にぴんと立てて見せる。
「君は成功する可能性はどれくらいあると思う?」
「それって、多くの人に知られるくらいの、際立った成功ということですよね」
「もちろん」
「それなら、本当に一握りでしょうから、0.01%くらい? あ、これでも1万人に1人だから、0.0001%くらいでしょうか」
自分でそういうと、改めて成功することは難しいということを実感する。やはり無理ではないかと思えてくる。
「残念、不正解」
と、楽しそうに保科先生は言う。
「答えは50%。成功する可能性は50%なんだよ」
「だって……」
それだよ、と保科先生は私の顔を指す。
「その、だって、がマイナス思考を生み、それがブレーキとなる。だって、成功したい人は多いし、だって、難しいし、だって、自分よりも優秀な人はたくさんいるし、だって、恵まれた人もたくさんいるしと、だってだってとどんどん可能性を低く見積もっていき、芥子粒ほども希望がないように錯覚してしまう。けれども、世の中は実にシンプルだ。成功するか、成功しないかの2択しかない」
「だから、成功する可能性は50%……」
「そうさ。少なくとも、本当に成功する人はそう考える。いや、ひどい人になると100%成功すると信じるんだね。そして、そう思う人ほど、実際に成功する可能性が高い。なぜそういうことになるかといえば、メカニズムは至極簡単なんだ」
「メカニズム?」
「たとえば、合格率が5%の難関国家試験があるとする。成功する人はそれを100%に近づけるためにはどうするかを考え、合格という達成目標から逆算して、今の時点で何をやればいいかを洗い出し、それに向けて実践する。一方の成功できない人は20回受ければようやく1回受かる確率だと考え、運が良ければ受かるだろうけど自分には無理だと考える。そして無理だと思う人には、『この方法でいいのだろうか?』『本当に受かるか?』といったような悩む時間が膨大に生じる。結局、行動に写した時間はほとんどないという状態になる。一方で、受かると信じている人間には、そんな無駄に悩んでいる時間は1秒たりとも生じず、行動に邁進するものだから、どんどん成功に近づいていくことができる」
なるほど、と私は言う。
「前向きに勘違いする人は、目標達成するまでの道筋が明確に描ける人でもあるんですね。そうすれば、自然と達成する可能性が高くなる」
「そのとおり! 至極簡単なメカニズムだよ。このメカニズムを前にすれば、多少の能力差など問題ではなくなる」
なんとなく『ゴッドマザーの成功法則』の仕組みがわかってきた。
「あの、私勘違いしていました。成功法則、と聞けば、なんだか仰々しくて、分厚い教典を暗唱しなければならないんじゃないかと身構えていましたが、要は成功するための「コツ」を掴めばいいんですね。考え方の「コツ」。でも、たしかに、この「コツ」を知っているかどうかで、人生は大きく変わるものなのかも知れませんね」
「人生は壮大なゲームなんだよ」
「ゲーム? テレビゲームみたいなですか?」
「そう、ドラクエやファイナルファンタジーみたいなゲームみたいなもの。ちょっとしたコツ、攻略法さえ知っていれば、ヒーローになれる。みんなその攻略法をしらないばかりに、ザコキャラに苦戦する人生を送ることになる」
たしかに、そうかも知れない。
「では、今回はこれくらいにするか。最後に、今日のまとめを書いてみて」
そう言って、保科先生は自分の手帳とペンを私に渡す。

 

《成功リミッターを粉砕する方法》
①「男子志を持って郷関を出づ学もしならずんば死すとも帰らず」を実践する。
②成功する可能性は50%だと考える。〔前向きに勘違いする〕
③達成から逆算して今の時点で何をすべきかを洗い出し、それを実践して成功の可能性を100%に近づける。〔成功のメカニズムに乗せる〕
④「人生は壮大なゲーム」であり、攻略法を知ればヒーローになれるとイメージする。

 

「ま、そんなところだろ」
と保科先生は手帳を胸のポケットにしまう。
「覚えろってことですね」
当然、と微笑む。
「つぎの講義は街に出るぞ」
ついて来い、という風に保科先生は出口のドアのほうに視線を向ける。
「え? 今からですか?」
「そう。ノブレス・オブリージュについて一緒に考えてみよう」
「ノブレス……」
「来ればわかるさ」
と、戸惑う私の手を引く。その手の温もりに、何だか胸が高鳴った。

 

 

 

 

〔第4講〕「ノブレス・オブリージュ」を身につける

信じられなかった。まるで夢を見ているようだった。
「ででつくてーん、ででつくてーん♪」
私はご機嫌で銀座のブランド・ショップ街を歩いていた。しかも、今をときめく世界企業の社長を従えて。
「さっきから、なんだそれは」
汚いものを見るような目で、保科先生は私をみる。
「知りません? 『プリティ・ウーマン』ですよ、映画の! ジュリア・ロバーツとリチャード・ギアの!」
「いや、『プリティ・ウーマン』は知ってるけど、そんな音楽じゃなかっただろう。それに、さっきまでファッションの感覚がないだの、被服の概念だの言ってたけど、君のそのポリシーはいったいどこへ行った」
「もういいですよ、そんなの! やっぱり、女子はおしゃれに限ります! UNIQLOよ、さようならです!」
まずは身なりは整えていたほうがいい。そんなつまらないところで引け目を感じるくらいつまらないことはない。そして、プロの手にかかれば、センスがないことは十分にカバーできる。
保科先生のその言葉で、私版プリティ・ウーマンはスタートした。
何店か、ブランド・ショップに入り、そこにいるプロの手にかかると、魔法にでもかけられたように私は変身した。鏡に映る自分はさっきまでとはまるで違う自分だった。自分で言うのもなんだけど。
今はパーティー用の真紅のドレスを着ているけれど、普段着用に様々な服やバッグ、靴やアクセサリーを買ってもらった。ただ、普段は脚を出したことがないので、スカート丈の短さが気になって仕方がなかった。
「君はもしかして、本当に大成功するかもしれないな」
と、保科先生は冷笑しながら私に言った。
「何言ってるんですか、成功するに決まってるじゃないですか!」
もはや、保科先生は何も答えなかった。
次に私たちを乗せた黒塗りの車は、表参道に向かった。
「服は完璧になっだけど、その髪はないだろう」
美容室では、タレントやモデルさんのメイクやヘアーを担当している美容師さんにやってもらったんだけれども、あまりに気持ちよくて、途中から寝てしまっていた。
意識の彼方で「パーティー用に仕上げてくれ」という保科先生の声が聞こえたような気がした。
目覚めた私は驚いた。何が起きたのか、わからなかった。
目の前の、おそらく鏡の中には、信じられないほどの美人がいた。
「目覚めたようね、どう? すごくない?」
横から一緒に鏡の中の美人を見つめながら美容師の男性?が言う。
私の動きに合わせて、鏡の中の美人は同じように動いた。いや、寸分違わず動いた。
まさか――。
「これって、私!? 特殊メイクですか?」
そう言うと、美容師と保科先生は顔を見合わせて爆笑した。
「それとも、寝ている間に整形したんですか?」
「いや、特殊メイクも整形もしてないよ」
「そうよ、あなた、普段、全然化粧していなかったでしょう。だから、肌が赤ちゃんみたいにプルプルで、化粧の乗りがいいのよ。髪はさすがに酷かったから、とりあえず、トリートメントして栄養分を吸わせてから、ちょっと巻いてみた。いいでしょ?」
うんうん、と私は激しく頷く。いいなんてもんじゃない。今でも自分だって信じられないくらいだ。
「でも、目は? 私一重なのに」
普段よりもどう少なく見積もっても4割増の大きさに見えるのだ。
「何も、二重だけが美人の条件じゃない。あなたのように切れ長の一重の場合はこんなふうに大人メイクをしてあげるととても映えるのよ。エキゾチックよねー! どう、保科さんも驚いたんじゃない?」
「さすがに、ここまで変わるとはね」
と、保科先生は苦笑いしている。
「それより、そろそろ時間だ。行くぞ」
「行くぞって、どこへ」
「大使館の晩餐会だよ。今日の講義はそこでやる」
そういって、保科先生が私に手渡したのは、シルクのドレス用グローブだった。そして、美容師がパーティー用に整えられた髪に、小さなティアラを挿してくれ、耳元でそっとこうささやいてくれた。
「きれいよー」
自然と笑みが溢れる。自分でも、もしかして、まんざらでもないというような気になってくる。
外には来た時と違って、白のリムジンが止まっていた。運転手が後部座席を開けて待っていた。
まさか、と保科先生の方をみると、こう言った。
「さあ、乗って」
私は大使館に入るのも、晩餐会に参加するのも、もちろん、初めての経験だった。
保科先生にエスコートされ、軽く腕を組み、中へと入った。豪華なシャンデリアに、チェロやバイオリン、ピアノの生演奏で迎えられた。
「まるで『タイタニック』みたいですね」
「ま、沈まないけどな」
それで、どんな感じだ、とウェルカムドリンクのシャンパンを私の分まで取ってくれながら、保科先生は言う。
「それは緊張しますよ! でも、このドレスのせいでしょうか、あまり引け目を感じません」
保科先生は深くひとつ頷いて言う。
「お金が全てではないが、お金で解決できることが世の中には意外に多い。君の場合、おしゃれに対してコンプレックスがあって、頑なになっていた。けれども、少しのきっかけを与えてあげると逆におしゃれをすることをもう楽しんでいる。おしゃれと聞くと顔をしかめていた君が、今は別人のように堂々とした笑顔でいる。単にきっかけとお金が少々あったに過ぎない。そして、ここからが重要なことなんだが、いわゆる上流階級に属する人間というのは、自分と同じ種類の人間だとみなすと、途端に心を開くようになる」
言っている側から、保科先生のもとには、外国人も、日本人も、人種を問わず次々に集まってくる。そして、連れである私にも敬意を払ってくれる。普段の私なら、きっと見向きもされなかっただろう。
ひとしきり、挨拶が終わると、保科先生はこう言った。
「まずは形から入ってもいい。中身なんて後から詰め込んでも間に合うから、はったりでも堂々としていればいい」
「確かに、『タイタック』でも、レオナルド・デカプリオは成り上がりのおばさんから自分も鉱山を持っていると思いなさいと言われていました」
「まさにそれだよ。君は今日は私のパートナーだと思えばいい」
それはとてもステキな響きに聞こえた。思わず、顔が紅潮してくるのがわかった。まずい、と思えば思うほど、顔が熱くなるのを抑えることができなかった。
「どうかしたか?」
「いえ、大丈夫です」
あっちを見てみろ、と保科先生は小声で言う。その視線の先をみると、ロマンスグレーの髪を丁寧に整えた、とても品のいい老紳士がいた。その向かいにも、風格のある髭を蓄えた紳士がいて、ふたりは穏やかに談笑していた。
「あれが、この晩餐会の主宰者、駐日大使だよ。向かいにいるのは、サーの称号を持つ、イギリスの実業家」
「サー?」
「ナイトの称号を持っているということ。本物の貴族だよ」
「初めて見ました」
「そりゃあ、そんじょそこらにはいないからな。彼らを見て、君はどう思う」
「どうって、普通の人間ですね」
「それも重要なことだね。あとは?」
「なんだか、貴族や偉い人って欲張りで威張り散らしているイメージがあったんですけど、意外に穏やかで優しそうに見えますね」
「そうだね。まず、普通の人間に見える。これは重要なこと。大使って国を代表して日本に来ている人で、相当な役割を担っているんだけれども、やっぱり、普通の人間だよね。大使であろうと1日は24時間だし、食事や睡眠を取らなければ生きていけないし、排泄だってしなければならない。貴族の人も同じ。莫大な財産があり、自分でも企業を経営しているんで、数千人の数の社員とその家族の運命をあの身体一つで背負っているんだ。信じられるか?」
「そう考えると、不思議ですね。1人の人間が国や大勢の家族の運命を担うなんて、とてつもないプレッシャーを受けるでしょうね。でも、なんで、あんなに穏やかで凛とした佇まいをしているのでしょうか」
「それこそが、ノブレス・オブリージュだよ」
「ノブレス・オブリージュ? さっき、言ってた言葉ですね。それはどういう意味なんですか?」
「元々はフランス語で、日本語にすれば、高貴なる義務感とでも言えばいいかな。主にヨーロッパの上流社会に根付いている考え方なんだけど、高い地位にある人は、それに相応しい義務感を持たなければならないというものだよ。日本の武士道や騎士道にも近いものがあるよね。つまり、彼らには一国の大使として、そして大企業のトップとして担わなければならない義務があり、それらが気品となって表れているんだよ。プライドの昇華した形とでも言えばいいかな」
「確かに、オーラを感じます。その原因となっているのが、ノブレス・オブリージュの精神なんですね。そのオーラがバリアとなって、想像できないほど大きなプレッシャーから守ってくれている」
「そう、プレッシャーをむしろ力に変えるともいえる」
「でも、それってどうやれば身につけることができるんでしょうか? 私は貴族の出でもありませんし、大企業の社長の娘でもありません」
これでいいんだよ、と保科先生は私を指す。
「まずは形から入っていい。秀吉の一夜城の話を聞いたことがあるか」
「一夜城? あ、知ってます。秀吉が美濃を攻めるときの逸話ですよね」
たしか、川の上流である程度部品を組み立てて、筏にして流して、下流の敵陣地前の森の中に、一夜にして城を築き上げたという話だったと思う。
「そう、墨俣城の話なんだけどね、もちろん、一夜で急造したから、最初は中身は空っぽなんだよ。でも、外から見たら、立派な城にか見えない。秀吉はそうして敵を驚かせ、欺いているうちに、中もしっかりと構築してしまい、ちゃんとした城にしてしまったんだ」
「なるほど、まずは外見から作って、後で中身を詰めていいってことですね」
「こういった会に出て、本物と接しているうちに、そして自分も重責を担っていくうちに、ノブレス・オブリージュは次第に身についていくものさ。どんな高貴なる家系もはじめは普通の人だったはずだからね。苦労して成功し、その人が王となり、子孫が高貴なる家系を受け継いだに過ぎない。君が系統の麒麟児になっても構わないんだ」
「系統の麒麟児?」
「成功者の家系の初代となるということさ」
なるほど、それが系統の麒麟児。面白い言葉だと思った。
「いずれにせよ、ノブレス・オブリージュさえ身につけることができれば、もう成功リミッターが作動する心配はなくなるということだ。リーダーとして自分がやらねば、と自然と思うようになるからね」
「攻撃は最大の防御の応用版みたいなものですね」
「当たらずとも遠からずってところかな。よし、今日はこれくらいにしよう。まとめるとどういうことになるか、これに書いてみよう」
そう言って、保科先生はペーパーナプキンとペンを差し出した。

 

《ノブレス・オブリージュを身につける方法》
①まずは形から入っていい。
②形を作ったあとは急いで中身を詰め込む。
③少しずつ重責を担っていき、リーダーとしての責任感を身につける。

 

「ま、そんなところだろ」
と言って、保科先生はペーパーナプキンをくしゃくしゃに丸めて、捨ててください、とウエイターに渡す。
「はい、ありがとうございます」
「それでは、講義はこのくらいにして、踊るか!」
「え? 踊るって、いや、私は無理です! 踊ったことなんてありませんから!」
「何、僕に身を任せていればいい。ただし、転ばないように」
そういうと、保科先生は私の手を取って、ダンスフロアへと誘った。
そのあとのことは、あまりに頭がふわふわしていて覚えていない。おそらく、転ぶことはなかっただろうと思う。

 

 

 

〔第5講〕 成功の上昇螺旋の登り方

なんで私はこんなことをしているんだろう。
なんで……。
私は、一人で真夜中の富士山を登っていた。さっきまで新宿からの高速バスで一緒だったという外国人の男性にやたらと絡まれていたけれども、面倒だったし、それ以上に息が上がっていたので、相手にしなくなったら、幸い諦めて先に行ってくれた。
でも一人になると、意外に寂しかった。
「おかしい。富士山って今はブームで行列になっているんじゃなかったの?」
声に出して言っても、誰も反応するはずもない。人がいない理由は、考えてもみれば明白だ。大型の台風が近づいてきているのだ。
なぜ、私が富士山に登っているかというと、別に山ガールだからではない。山ガールどころか、私はまともに登山をしたことすらなかった。
理由はこの一枚の紙だった。

次の講義は富士山でやる。
本八合目の山小屋で待つ。
酸素持ってくるの、忘れるなよ。

差出人は言うまでもなく保科先生だった。
あの晩餐会以来、三週間ほど姿を見せなかった。ようやくメガネの秘書さんに言づけがあったと思えば、このメモである。
無視しようかと思ったが、保科先生のことだ、何か深い思慮があって言っているに違いないと思い直し、富士山五合目まで直通の高速バスにとるものもとりあえず、飛び乗った。
一応、UNIQLOのフリースと帽子は持ったけれども、五合に着いたとき、まわりの人の装備を見て、なんだか、申し訳ないような気がした。
子どもでも登山用の立派なシューズを履いているのに、私ときたら、体育の講義で使っているスニーカーである。みんなの真似して、鈴のついた杖は五合目で買ったけれども、リュックの中身はポッキーとカロリーメイト、午後の紅茶とタオル1枚だけだ。
そう、保科先生が言っていた、酸素は買う時間がなかった。五合目で買おうかと思ったけれども、冗談じゃないくらいに高かったのでやめた。
1人で何とか六合目につき、まだ六合目かと軽く絶望感を覚えながら、ぜいぜい休んでいると、山小屋の中から男性が出てきて私の姿をまじまじとみた。
「あなた1人?」
「はい」
「懐中電灯は?」
「いえ、ありません」
「靴もそれだけしかないの?」
「はい」
そう答えると、その男はあからさまに舌打ちをした。
「山をなめてもらうと困るんだよねー」
すみません、と謝って逃げるようにそこを後にしようとすると、後から怒声がついてくる。
「ちょっと待ちなさい!」
怒られるのかと思い、直立不動で待っていると、その男が頭に何かつけてくれる。目の前が急に明るくなった。比喩ではなく、物理的に。
頭に巻くタイプの懐中電灯をつけてくれたのだ。
「あの、これ……」
「危ないから、持って行きなさい。帰りに寄って返してくれればいいから。それとこれ」
と、その男は酸素を私に手渡す。
「あんた、あんまり運動やらないでしょう。六合目でこれだと、上で高山病になると思うから、今のうちから休憩のたびに酸素吸いながら行きなさい。体調悪くなったら、ムリしないで引き返すか、山小屋に一泊して様子をみるんだよ」
「ありがとうございます!」
山で会う人はみんないい人だって誰かが言っていたような気がする。この状況における光と酸素は本当にありがたかった。
もしかして、人のありがたみをわからせるために、保科先生は私を山に登らせたのだろうか。
いや、第一、本当にあの人は本八合目で私を待っているのだろうか?
とにかく、今は登るしかない。幸い、風もパラついていた雨も止んできたようだ。
おそらく、八合目の山小屋に到着した私の姿は夜叉のようだったろう、実際に夜叉はどんなか見たことがないから、イメージ的に。
なんというか、富士山は本当にひどいのだ。人を馬鹿にしているのだ。七合目が終わって、八合目についたと思ったら、延々と八合目が続くのだ。どこまで行っても八合目。ちなみにこれは後から知ったことだけど、本八合目は、本当の八合目という意味で、実はその他の八合目はただ八合目を名乗っているだけで本当は高さ的に言って八合目に満たないらしい。
そのうちに、もらった酸素もなくなり、息もぜいぜいいうようになり、膝がかくかくなってきて、しまいには頭が痛くなってきた。
「まさか、高山病……」
そう思うと、絶望感が更にこみ上げてきた。いや、絶望感だけではなく、本当にこみ上げてきた。車に酷く酔ったときのように、私は登山道の外に吐いた。あまり食べていなかったので、すぐに吐くものがなくなったが、吐き気は止まらなかった。頭の痛さも尋常じゃなくなっていった。
もう少し、もう少しで本八合目のはず。たぶん、1m進むのに10分くらいかかりながらも、とにかく杖に身を任せて私は登った。この先にきっと成功があるはずだ。成功の秘密が待っているはずだ。保科先生が待っていてくれるはずだ。優しく「よくがんばったな」と迎えてくれるはずだ。そんなことを言われ、腕を大きく広がられたら、今の私はもしかして保科先生の胸に飛び込んでいってしまうかもしれない――。
ところが、待っていたのは、大きな笑い声だった。聞き覚えのある声だった。
「君、なんだよ、その姿、死にそうじゃないか! まじでウケるよ、その姿」
声のほうを見上げると、本八合目と大きく書かれた山小屋から保科先生がこちらを見下ろしていた。私の姿を見ながら、腹を抱えて爆笑していた。
一瞬、殺意を覚えたが、安心感の方が勝って、私は気を失った。
目が覚めると、私はおじさんたちの間に挟まるようにして寝かされていた。随分、眠っていたように思えるけれども、まだ周りは暗いらしかった。
私に覆いかぶさっていた、隣のおじさんの腕をどけて、恐る恐る身体を起こしてみた。
あれ? おかしい。もう具合悪くない。
「だいぶ、顔色がよくなったな。ま、丸一日寝てたから、空気が薄いこの環境に、身体がなれたんだろうな」
そう言って、保科先生はペットボトルの水をこっちに投げてよこした。
掴みそこねて、額にヒットした。
「いったーい!」
「あ、悪い。まだ体調悪かったか」
「いえ、元々運動神経悪いので。もう、だいぶいいです」
額を押さえながら、憮然として言った。苦しんでいる私の姿を見て、先生が大笑いした恨みはまだ晴れてはいない。
「それにしても、なんでおじさんたちと一緒に寝かされているんですか? 私、これでも女子なんですけど」
「山小屋ってそういうものだろ」
と、保科先生はあっけらかんとして言う。
「そういうものでも、危ないじゃないですか! 襲われたらどうするんですか!」
「あれ? えらく機嫌が悪いな。ま、起きがけ、機嫌が悪い女の子っているもんな。まあまあ、落ち着いて」
起きがけのせいではなく、あなたのせいですと言おうと思ったが、この人に何を言っても無駄だろうから、止めておいた。
「それより、もうすぐご来光だよ。外に出て見よう」
外に出てみると、もうすでに大勢の登山客が外に出て、ご来光を待っていた。
あたり一面の雲海の美しさに、息を飲む。徐々に辺りが白み始め、その瞬間を迎える。
「あれ、そこ?」
私は思わずそう言ってしまう。雲海の一番奥から壮大に大きく朝日が登ってくるのだと思っていたが、予想よりも遥か手前にぽっかりと太陽が浮かんできたのだ。
「初めはみんなそう思うかもね」
「でも、本当に綺麗ですね」
体調が心配なら引き返すという選択肢もある、と保科先生に言われたが、思った以上に身体は回復していた。よく寝たせいもあるのか、快調と言ってもいいくらいだった。
お腹が酷く空いていたので、山小屋でうどんを注文したんだけれど、それもぺろりと平らげて、今なお高山病の只中の人から好奇の目で見られた。
私は頂上に登ることに決めた。
本八合目から九合目まではそれほど苦労せずに登れた。九合目についたところで、石に腰掛け休憩することにした。
「さて、今日の講義を始めるとしようか」
「え、ここでですか?」
「まずいのか?」
「いや、てっきり、頂上でやるものだと思っていたので」
安易な、と保科先生は笑った。
「ちょっと下のほうを見てみな。たとえば、七合目の辺りを1周するのとこの九合目辺りを一周するのでは、どちらが距離が短いだろうか」
「それはもちろん、山は円錐形をしているので、上に行くほど円周の長さは短くなりますよね。それで最終的に山頂は点に近くなる」
「その通りだよ。もっとも、富士山は大昔に噴火しているんで、点ではなく、頂上はお鉢廻りと言って、円周になっているが基本的にその考え方でいい。また、体積で言えば、円周と比例するから上に来れば来るほど少なくなる」
「何を言いたいんですか?」
「成功者の分布もピラミッド状になっていて、まさにこの富士山のような形になっているんだよ。頂上付近ほど、数が少なくなり、彼らが利益を独占することになる。また、数が少なくなるんで、成功者同士が繋がりやすくなる。芸能人とスポーツ選手が友達になっているのは、そういうふうに成功者の社交界というのが、一般よりのだいぶ体積が小さいからなんだよ」
まさか、と私は口ごもった。
「どうした?」
「まさか、保科先生、私にそれを伝えたくて、わざわざここで講義をしたんですか」
怒りがふつふつとこみ上げてきて、それを抑えるのに必死だった。だが、声にも明らかに怒りが滲んでいただろうと思う。
「そうだけど。だって、こうして見たほうがわかりやすいだろ」
「そんなの、メモに図を書けばわかるじゃないですか! どれだけ苦しい思いをしてここまで登ってきたと思っているんですか! 外国人にはストーキングされるし、山小屋では軽装備だって怒られるし、いや優しくしてもらったけど、高山病にはかかって頭がいたくなるし、吐くし、おじさんたちに挟まれて寝ることになったし、ご来光も予想外に手前だったし!」
「いや、ご来光は別に悪くなかったと思うけど」
と、保科先生は笑う。
「まあ、そうですけど、私を馬鹿にするのはやめてください! 私だって、暇じゃないんですから」
「だったら、ここから引き返すかい?」
「ここまで来て、引き返すわけないじゃないですか! 引き返したいなら、どうぞ、1人で引き返してください。私は1人でも頂上に行きますから!」
そういうと、保科先生は、ふっと微笑んだように思えた。それが、今までないくらい優しく感じられた。
「わかったよ。僕も君についていくことにするよ」
「じゃあ、遅れないでくださいね、足手まといになるのは迷惑ですから!」
もう頂上ははっきりと見えていた。手の届くところに頂上があった。
けれども、そこは不毛地帯で、更に空気が薄く、こめかみ辺りに違和感を覚えた。
まさか、また高山病がぶり返すんじゃないでしょうね。そう思うと、さらに高いところに行くのが怖くなった。しかし、啖呵を切ってしまった手前、振り返ることなどもうできなかった。意地でも頂上に到達しようと思った。それに別にもう吐くのは慣れたし、寝れば治るだろう。
最後の急な勾配を登り切ると、ついに、山頂を示す標識があった。
膝に手をついて、息を整える。大丈夫、高山病はぶり返していない。いつの間にか、横には保科先生がいた。少しも息が切れていなかった。笑みさえ浮かべていた。
「先生、本当は山男じゃないんですか?」
「かもね」
山頂で、ふたりで笑った。
「見てみな」
促されて振り返ると、今までの人生で見たことのない光景が広がっていた。雲が晴れて、遠くまで見渡せた。遠くの高い山まで見渡せた。
けれども、どの山よりも私はその時一番高い山にいた。その頂上にいた。
寒くて、顔の皮膚の感覚が鈍っていたので、自分でも泣いているのに気づくのが遅れた。目からは涙が流れ落ちているようだった。そう意識すると、一気に視界が曇った。手の甲で拭わないとこの素晴らしい景色が見えなくなった。
「わるくないだろ、この感覚」
保科先生の静かな言葉に私はこくりと頷く。声に出してしまうと泣いているのがばれてしまいそうだったからだ。
この感覚。今まで味わったことのない達成感。この感動を得るためなら、多少の苦労は忘れてしまうようだった。
「成功も一度覚えてしまうとやめられなくなってしまうものさ。中毒症、つまり、成功ジャンキーになってしまうんだよ。その道のりが辛ければ辛いほどね、その麻薬的効果は高くなる」
とめどなく、涙が流れた。
保科先生の言うことが、今の私にはよくわかった。
成功とは、もしかして、こういうことなのかも知れない。
そうなのだ。本当は保科先生は、この感動を私に知って欲しくて、富士山に連れてきたのだろう。
「そうならそうって最初から言ってくださいよ」
ついに私は嗚咽しながら言った。
「だって、最初から言ったら、つまらないだろう」
保科先生は下界の景色を眺めながら、そう言って笑っていた。その耳にはいつものようにアップル純正の白いイヤフォンがつけられていた。

《成功の特性》
①成功者の割合は全体からみると非常に少ない
②成功者同士の距離は小さく、お互いにつながりやすい
③成功は一度味わってしまうと中毒になる

 

「まあ、こんなもんだろ」
私はひとり、保科先生の口真似をしてそう言って、この前の富士山での講義の要点を書いたメモを、くしゃくしゃにしてゴミ箱に放り込んだ。
日常はとてつもなくつまらなかった。
一度、保科先生の講義の面白さを知ってしまうと、大学の講義が途端に色あせて見えた。
講義のときは男子生徒に声をかけられるようになり、学食では女子の集まりに、一緒のに食べよう、と招かれるようになった。もう私を垢抜けない田舎者と馬鹿にする人はいなくなった。
保科先生は、あいからずアップル純正の白いイヤフォンをつけている。ヨレヨレの白衣を着ている。
それだから、学生からは今まで通り「アップル」と呼ばれて馬鹿にされていた。時折、校門のところでアメフト部に胴上げされていた。
その姿を見ていると、あの出来事は本当だったのだろうかと、未だに不思議に思うことがある。もしかして、私は壮大なドッキリカメラに騙されていたのではないだろうか。
そういえば、ジム・キャリー主演の『トゥルーマンショー』という映画があったけれども、あれはその街全体で、生まれた時から主人公を騙しているというとんでもないものだった。もしかして、この大学全体で私を騙していて、その姿がテレビ放送されていて、全国のお茶の間で私は笑いものになっているかも知れない。
ありえる。十分にありえる。
そういえば、この前、初めて早慶メディア・ラボで、渋沢恭子に会った。
私がいつものように受付の女性と話しているときに、いや、いつものように主に受付の女性が一方的に話していて私は聞いているだけだったけれども、その時、普通にあの渋沢恭子が現れたのだ。考えてもみれば、入り口がひとつしかないラボで、今まで会わなかったほうが不思議だった。
ゴッドマザーと呼ばれるIT業界の支配者であり、ファイナルクラブ「SIGRE HIKO」の主宰であり、私の憧れの女性である。
あれだけ会うことを渇望していたのだけれども、会ってみると、なんだか思ったよりも劇的でも、感動的でもなかった。
それでもやはり会えたことが嬉しかったし、保科先生は私のことを伝えていると言っていたので、思い切って渋沢恭子に話しかけてみた。
「あの、藤村遥香です。今回はSIGRE HIKOへの入会のチャンスを頂き、本当にありがとうございます。女性初のメンバーになれるように全力で頑張ります。実は、私は渋沢学部長の……」
そこまで捲し立てるように言って初めて、渋沢恭子が私のほうを訝しそうに見ていることに気づいた。眉間には、間違いない、深い深いシワが刻まれていた。
「誰ですって?」
「藤村遥香です。あの、保科先生に聞いていませんか? 今、ファイナルクラブに入れてもらえるように鍛えてもらっているんですど」
「知らないわよ」
まるで、汚いものでも見るような目で私を見て、吐き捨てるようにしてこう付け加えた。
「それに、ファイナルクラブには女性は入れない決まりなの。残念だけど、いくら頑張ったって、あなたが入会するのは無理ね」
目の前が、すこしずつ、ほんのすこしずつ、暗くなって行くのがわかった。
映画でいうところの、フェイドアウトだ。
これまでのことは、いったい、何だったのだろうか。保科秋という男は、いったい、何をしたかったのだろうか。
まさか、暇つぶし……。

恵比寿B&Eビルディングに行き、何といえば通してもらえるかなとあれこれ悩みながら、受付に、あのー、と声をかけると思いがけず、受付の女性は笑顔でこう言ったのだった。
「お待ちしておりました」
「へ?」
と、頓狂な声を出してしまう。
「藤村遥香様ですよね。申し使っておりました。上の階で、保科社長が待っています」
何か、狐につままれた感じになって、でもとりあえず、直通エレベーターに乗る。約束をしていた覚えがまるでなかった。いや、怒りのあまりに、ここに来る前に自分で約束していたことを忘れてしまったのか?
そうこう考えているうちに、エレベーターは社長室があるフロアについた。
案内板に従って、社長室まで行くと、今度は違ったメガネの秘書さんがいて、私が何かいう前に、中に入れてくれた。
ノックをすると、どうぞ、と聞き覚えのある声が帰ってくる。
「失礼します」
と、中に入ると、広いガラスを背に、プレジデント・デスクがあった。ここのデスクの上にも無駄な物は何一つおいていなかった。あるのはMacBook Airだけだ。
デスクの向こうにいる男の耳にはアップル純正の白いイヤフォンが付けられていた。ヨレヨレの白衣の代わりに、ピシっとした細身のブランドスーツを着こなしていたが、間違いない、その男は保科秋だった。
言いたいことはたくさんあった。けれども、いざ、本人を目の前にするとなんて言っていいのかわからなくなった。
黙っていると、保科先生の方が先に口を開いた。
「渋沢恭子に会ったんだってね」
さすがに情報が早い。いや当然か、「情報の錬金術師」と呼ばれる男だ。
「ファイナルクラブには、女性は絶対に入れないって言われました。保科先生もそのことを知っていたんですよね? なんで初めから言ってくれなかったんですか?」
「初めから言ってたら、君が僕の計画に参加してくれるとは思えなかったからね、その点は嘘をついた。悪かった。謝るよ。ただし、君を成功者にするための講義については、あれは本物だった。いや、おそらく、ファイナルクラブ『SIGRE HIKO』の現在のメンバーは元より、あの渋沢恭子さえも知らない内容だったと思う」
「どういうことですか?」
それに、「僕の計画」というのが、何のことなのか気になった。
「簡単に言ってしまえば、僕は渋沢恭子を倒そうと思っている」
あまりのことに、声にもならなかった。
保科秋が渋沢恭子を倒したいですって? ゴッドマザーの忠実な執事が、主を裏切るということ?
「でも、どうして」
「理由は、まだ言えない。ただ、間違いなくこれだけは言える。僕は君に全力で成功法則を叩きこんできたし、これからもそうするつもりだ」
なぜなら、と保科秋は立ち上がり、デスクの前に立った。私との間合いを詰め、私の顔を指してこう言ったのだった。
「渋沢恭子の代わりに、君に新しい帝国を開いてもらおうと考えているからだ」
不思議と、うそだ、とは思わなかった。
その代わりに直感的にある言葉が急に脳裏に浮かんできた。
私を、この不思議な世界へと導き入れた、あの呪文だ。
サイレンス・ヘルってまさか――。
「まさか、サイレンス……」
私が全てを言い切る前に、保科秋は口づけして私の口を塞いだ。その感触が、夢見ているかのように柔らかくて、頭の芯がくらくらしてくるのがわかった。
「二度とその言葉は口にするな。わかったか」
私は首が取れるのではないかと思うくらい、何度も頷いた。

 

 

 

 

〔補講〕
本日はお越しいただきまして誠にありがとうございます。
早慶大学経営学部講師、および、株式会社D&Eコーポレーション代表取締役を努めさせていただいております、保科秋ともうします。どうぞ、よろしくお願いします。
さて、いよいよ公開されました『サイレント・ヘル』シリーズの第1巻「ゴッドマザーの成功法則」、いかがでしたでしょうか。主人公の藤村遥香は、ようやく遅すぎる大学デビューをはたし、学内でも注目される存在へとなりました。髪型を変えたり、化粧をしたり、スカートの丈をちょっとだけ短くしたりしただけで、この年代の女性はずいぶん印象が変わるものです。これから、彼女は自信をつけながら、徐々に輝きを増していくだろうと思います。今回のお話は始まりに過ぎません。彼女の成長にも、また、物語にも、まだまだ続きがございます。

保科秋は、いったい、何を考えているのか?
なぜ、いつもこのイヤフォンをつけているのか?
渋沢恭子とはどういう関係なのか?
藤村遥香との関係はどうなるのか?
そして、「あの言葉」が意味するところは何なのか?

すべて、これから公開される第2巻以降に明らかになっていくものと思います。お楽しみに。
さて、せっかくなので、ここにおいでくださった皆様に、特別に補講として第1巻の要点をお教えしようと思います。これは藤村君にも言っていることですが、ノートやメモ、録音も禁止です。ぜひ、この場で覚えて行ってください。

第1講は成功の仕組みについてお話しました。重要なポイントは次の5つです。

《成功の仕組み》
①成功者は誰にも明かさない「成功の秘密」を持っている。家族や組織でそれを共有し、成功と富を独占する。
②成功者が他者を「秘密の果樹園」に導き入れるときはその果樹園の収穫量が落ちたときだ。
③成功者は「味のなくなったチューイングガム」を他人につかませているうちに、自分はまた新しい「美味しいガム」を手に入れている
④本当に「成功の法則」を手に入れた超一流のマーケターは、コンサルタントにならずに自分で事業を興して成功を独占する。
⑤海を超えると時を超えられる場合がある。ただし、近年はタイムラグがフラットになってきていて、日本初の世界スタンダードが生まれる可能性もある。

第2講と第3講では「成功回避の心理」について詳しくお話しました。重要なポイントはこの2つの論点です。

《成功回避の心理とは》
①「ウィルス」ではなく「防衛本能」として生まれた
②「常識」にバグとして入り込んだ
③リミッターが働いていることに自分では気づかない
④これまでの時代には影響があまりなかった
⑤僅差で勝敗が決る場面で決定的な差となって表れてくる

 

《成功リミッターを粉砕する方法》
①「男子志を持って郷関を出づ学もしならずんば死すとも帰らず」を実践する。
②成功する可能性は50%だと考える。〔前向きに勘違いする〕
③達成から逆算して今の時点で何をすべきかを洗い出し、それを実践して成功の可能性を100%に近づける。〔成功のメカニズムに乗せる〕
④「人生は壮大なゲーム」であり、攻略法を知ればヒーローになれるとイメージする。

第4講は「ノブレス・オブリージュ」についてお話しました。次のポイントを抑えてください。

《ノブレス・オブリージュを身につける方法》
①まずは形から入っていい。
②形を作ったあとは急いで中身を詰め込む。
③少しずつ重責を担っていき、リーダーとしての責任感を身につける。

第5講は富士山での講義、「成功の特性」についてのお話でしたね。

《成功の特性》
①成功者の割合は全体からみると非常に少ない
②成功者同士の距離は小さく、お互いにつながりやすい
③成功は一度味わってしまうと中毒になる

 

本当に成功したい方は、このポイントを良く理解し、覚えておいてください。もちろん、成功とは簡単なことではありませんので、藤村君の友人で九州に帰った真奈美君のように、断念するという道もあるでしょう。
選ぶのは、皆さん次第です。

最後に、皆さんに忠告です。
絶対にあの言葉だけは口にしない方がいいかと思います。もし、あの言葉を口にしたり、TwitterやFacebookなどのソーシャルメディアで拡散したりした場合、皆さんの身に何が起きるか、保証はできませんので、くれぐれもご注意を。

では、また第2巻でお会いしましょう。第2巻からはいよいよ実践編です。「自分をメディアにする方法」について、藤村遥香君に詳しく教えて行こうと思います。彼女はますます綺麗になり、輝いていくだろうと思います。ご期待ください。
また、ストーリーについても、いよいよ、ファイナルクラブ「SIGRE HIKO」やゴッドマザー渋沢恭子についても詳しく描かれていくことになります。
お楽しみに。

「サイレンス・ヘル」シリーズvol.1/ゴッドマザーの成功法則(了)

 

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