心を通わせた時間
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記事:つちやなおこ(ライティング・ゼミ日曜コース)
「また来週くるからね」
それが去年亡くなった祖母の弟にあたる大叔父にかけた最後の言葉だった。
その別れが私の長年の罪悪感を消し去ってくれた。
19歳の時に母方の祖父と祖母をほぼ同時期になくした。
あれは阪神大震災の年、年明けすぐに祖父、そこから1週間後に祖母が亡くなった。
祖父母が住んでいた大阪北部も被害が大きく、震災前だったのは幸運だったと、いつも親戚たちが法事で話している。確かにそうだろう。でも、私の中で、特に祖母との別れ方に後悔がずっと残っていた。それは、思い出せばなつかしい感情と一緒に沸いてくる小さな罪悪感だった。
祖父はパーキンソン病でずっと叔父が看ていたこともあり、祖母が体調を崩した時、長女である私の母が面倒を見ることになり、京都の家に来てもらった。
どこへ行ってもなかなか病名がわからない中で、母がいろんな病院に通って得た病名はALS(筋萎縮性側索硬化症)だった。
ALSという難病は、最近こそテレビでも取り上げられて割と知られるようになったが、当時は情報がほとんどなく、イギリス人の物理学者ホーキング氏がかかっている珍しい病気というくらいの認識だった。祖母にも病名が伝えられることなく、ただしゃべれなくなる、食べられなくなるという状況を、祖母は何も聞かず受け入れて過ごしていた。
私が小学校に入るまで母は土日も仕事をしていたため、毎週土日は大阪の祖母の家で過ごしていた。祖母は私の中で母代わりであり、母よりもずっと私を認めてくれる大好きな存在だった。なので、誰よりも私がこの病を受け入れらなかったのかもしれない。この病気は日に日にいろんな機能が少しずつ落ちていき、最後には呼吸器にまで衰えが及び、自分で呼吸ができなくなる。日々、体の機能が落ちていく祖母をみて、今日また病気が進んでいたらどうしようと怖くてしょうがなかった。実際は歳のせいもあり進行はゆるやかだったそうだ。それが、年末に祖父が危篤、年が明けてすぐに亡くなり、3日にお葬式。京都に戻ったその日の夜から祖母の容態が急変し、そこから4日で後を追うようにあっけなく亡くなってしまった。
息を引き取る前、病院に親戚らが集まり祖母の名前を呼んでいたが、私は祖母の側に近づくことができなかった。怖くてこの場から逃げ出したいと、情けなくもベッドの足元から動けなかったのだ。お葬式でも、最後の別れをきちんと顔を見て言うことができなくて、涙ではなく、罪悪感でいっぱいだった。その後も私はずっと泣けなかった。心の底に何かが沈んだままで、祖母を思い出すと後ろめたくて、たまらない気持ちになった。
昨年亡くなった祖母の弟にあたる大叔父は、その時から私たち孫のおじいちゃんになってくれた。旅行に連れて行ってくれたり、節目にお祝いをくれたり、結婚式に参列してくれたり、祖父母がしてくれたであろうことを全てしてくれた。そんな大叔父が昨年亡くなる前、介護施設から病院に移ったので、お見舞いにいってあげてと連絡があり、私は仕事を休んで病院に行った。
元気な頃の大叔父の面影はなく、「もういいんだ」とあきらめたように言うのを、私は、「そうだね、しんどいね」と聞いていた。帰るときに私が「また来週くるからね」といった時、大叔父は少しの時間だったが、じっと私をみて手を握り、「うん、また来てな」と行った。
その目がとても印象的だった。目が合った時間はとてもあたたかい時間だった。私は大叔父と心を通わせていたと思う。それから3日後に大叔父が亡くなったと連絡が入ったが、ああ、そうだったのかと私は穏やかに受け入れることができた。
そして、その心を通わせたあたたかい時間が、数え切れないほど私と祖母の間にあったことに気付いた。毎週、京都へ帰る前にいつも、「いい子やったね」と私の手をぎゅっとにぎり、目を合わせて全てを受け入れてくれていたことを思い出した。京都に遊びに来た時も帰りに必ず手をにぎってくれていた。祖母はいつもそんな感じだった。最期の瞬間、私は祖母と心を通わせるような時間はもてなかったが、私と祖母の間には、ずっとその時間があったのだと気付いたとき、自分が許せなくて、ずっと後ろめたかった気持ちがすっと解けていった。
祖母の人生はあの最期の瞬間だけではない。最後のALSという病気が祖母の人生を何も決定づけていない。戦前から生きたその間の時間すべてが祖母の人生だ。病気になった祖母、あっけなく逝った祖母は、祖母の人生を描いた映画のワンシーンでしかない。元旦以外は休みなく店に出ていた働き者の祖母、着物道楽だった祖母、孫に囲まれていた祖母、そして、最後まで何も聞かずすべてを受け入れた祖母、それらすべてが祖母の人生だ。私は間違いなくその側にいた。そして、何度も心を通わせてきたのだ。
誰もが大事な人の最期の瞬間に立ち会って納得のいく別れができるとは限らない。その時、ああすればよかったと後悔することもあるだろう。でも、その人の側にいて、心を通わせる時間があったこと、これだけで十分なのだと気付かせてくれたのは、大叔父だ。いつも大切なことを教えてくれた人だ。最後まで本当にありがとう。
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