メディアグランプリ

植草甚一さんはこんな方


 
山田THX将治(天狼院ライターズ倶楽部 READING LIFE公認ライター)
 
「山田さん、この方は何方(どなた)ですか?」
池袋の商業施設、WACCA(ワッカ)に新しくオープンした『シアターカフェ天狼院』の店頭で私は、新たにこの店の店長に任命された永井氏に問い掛けられた。
棚に多く陳列された、ある著者に付いてだった。
その方の名は、植草甚一さん。やはり永井店長の世代には、知ることも無い方だったのだ。
 
8月の後半になった時、永井新店長から、
「山田様。『シアターカフェ天狼院』に並べる、映画・演劇・落語に』関する選書をお願い出来ますか」
と、丁寧なメッセージが届いた。以前から、新店に関して協力を惜しまない姿勢を、私は示していた。何故なら私は、天狼院開店直後から開催されていた“映画ラボ”に欠かさず出席していた。その上、実は私、映画解説者の第一人者である故・淀川長治先生の、最後の直弟子を自認しているからだった。そこで私は、二つ返事で永井店長の依頼を快諾した。
ただ問題もあった。『シアターカフェ天狼院』の開店予定日が、9月20日とのことだったのだ。ということは、本の入庫や陳列、その前の発注を考えると、リストアップには一週間弱しか時間的余裕が無かったのだ。私は、
「勝手に私のカラーを出しますよ。多めにリストアップするので、その中から選んで下さい」
と、永井店長にお願いした。
 
選書に関して、私は心掛けたことが有った。それは、
「池袋の映画館や劇場に訪れた方に、その行き帰りに気軽に寄って頂けるスペースにしたい」
との、三浦店主の言葉が残っていたからだ。
兎角、映画・演劇・落語といったコンテンツは、敷居が高くなりがちだ。それは、それぞれの評論家といった面々が、自分の知識をひけらかす様に、上から目線で書いた著作が多いからだと私は以前から感じていた。そこで私は、知識が乏しい演劇と落語の本は、初めてそれらに接する方でも御存知であろう人物の本を中心に選んでみた。
専門の映画に関しては、学術的な専門書・映画製作にかかわる書籍、そして、映画の専門家以外が書いた本の三分類で選び始めた。専門書や製作本は、数が限られており商品価格を除いては、特に問題なく選ぶことが出来た。
問題は、専門家以外が書いた映画に関する本だ。先ずその殆どが、重版されること無く初版は出版されたのみで、絶版扱いとなった。それ程映画に関する本は、売れ筋本では無かったのだ。
それが例え、私の師であり映画界で最も名の通った淀川長治の本ですら、数冊の文庫化されたものを除いては、重版が掛かったものは無かった。
 
私は、多少の虚脱感を持ちながら、先ずは入手可能な淀川の本を選んだ。比較的初心者にも読み易い、山田宏一・筈見有弘両氏(映画評論家)の本も選んだ。次いで、和田誠・石川二千花(イラストレーター)といった、多くの著作を持つ方の本も選んだ。
残念だったのは、映画評論家の中で淀川と並んで最もファン目線で語る、双葉十三郎さんの著作が、入手することが出来なかったことだ。
ここまでですでに私は、普段ライティングに使う筈の時間を、丸々3日分選書に使っていた。
困った私は、もう一人、植草甚一さんの本を探してみた。意外なことに、植草さんの本は、数多く入手可能だった。多分、出版社に、私と同じく植草甚一さんのファンが残っているからだろう。
 
植草甚一さんの事は、天狼院に出入りする様になった当初から、スタッフやほかのお客さんに話してきた。私と同世代には、植草さんを知らぬ者は無かった。ところが、およそ50歳を境にしてそれ以下の方々の植草甚一さんの認知は、著しく低くなっていた。理由を問うても仕方が無いので、私なりに植草さんを紹介してみたいと思う。
 
植草甚一さんは、一言で肩書すら表現するのが難しい方だ。植草さんは、1908(明治41)年、東京の下町・日本橋小網町(兜町や人形町の隣)の出身だ。早稲田大学の理工学部で学んでいたので、本来は理系の方だ。大学在学中から池袋のアパレル会社で、外国の雑誌を翻訳するアルバイトを始めた。その内、セーターや水着をデザインしたそうだ。大学を学費未納で除籍になった後、映画館のスタッフをし、一年後には映画会社の東宝へ移る。その頃、映画評論を始められる。戦後、東宝の労働争議を機に退職し、フリーの映画ライターとして映画雑誌に寄稿していた。丁度その頃、映画雑誌『映画の友』の編集長をしていた淀川長治先生と知り合う。
一つ違いの植草さんと淀川は、その後、数少ない親友として交友を深めた。
植草さんは、映画評論の傍ら、推理小説の分野でも評論を始めた。中でも、いくつかの伝説的著書がファンの間では話題となった。
40歳を過ぎた1950年代半ばから、ジャズに傾倒していった植草さんは、音楽雑誌でも活躍を始めた。1974年になって、60歳を過ぎた植草さんは、突然、3か月半も当時治安が悪かったニューヨークに滞在する。現地から日本の雑誌に寄稿される文章に、中学生だった私は出会い感動した。その老人とは思えない鋭い感性が、中学生にも通じたのだろう。兎に角、文体自体が格好良かった。
ただしそれ以前から植草さんは、雑誌と本とでニューヨークの街には精通していて、初めてニューヨークに行く人には、
「○○と○○には行ったほうがいいでしょう。ここにあります」
というふうに助言していた。
当時の植草甚一さんは、我々若者にとって“格好良いおじさん”の代表格だった。知的で、文章が上手で、映画・音楽・推理小説といった文化に精通していて、どの話も無駄にはならなかった。
 
もしこの世に、植草甚一さんが存在しなかったら、“サブカル”という語句は生まれていなかった。NYに滞在中の植草さんの記事に、
「NYで有名なブロードウェイ。そこには、メジャーでは無いが“オフ・ブロードウェイ”や“オフオフ・ブロードウェイ”といわれる、マイナーながら質の高い舞台が沢山ある」
そして、
「これからは、それらを総称して“サブカルチャー”と言おう。東京の下北沢にも、“オフ・ブロードウェイ”に負けない舞台が沢山ある」
と書かれていた。
 
1979年の12月、70歳を越えたばかりの植草甚一さんは、我々の前から突然天国へ旅立った。心筋梗塞の発作だった。大好きだった下北沢に程近い世田谷区経堂のご自宅で営まれた葬儀には、業界関係者よりも多くの我々一般人のファンが押し掛けた。常に単独行動をとり、一人を好んだ植草甚一さんらしい葬儀だった。
ただ一人、業界関係者として植草さんの葬儀に関わったのが、他でもない淀川長治だった。生前親交が有った二人は、互いの理解者でもあった。そして、
「どちらかが死んだ時は、残された方が葬儀委員長を務める」
という約束をしていたのだ。淀川は、その約束を果たしたに過ぎなかった。淀川の弟子だった私達は、淀川の手前、葬儀の雑用に奔走した。
 
植草甚一さんの葬儀に関するエピソードを一つ。
葬儀に訪れた数少ない有名人に、タモリ(森田一義)氏がいた。ジャズを通じて、交友が有ったらしい。植草さんの奥様と、何事か話をされていたことを私は目にしている。
後日ニュースで知ったのだが、約4万冊在った植草さんの蔵書は、一部知人に寄贈された他、古書店に売却された。
約4千枚在ったジャズのレコードは、その全てをタモリ氏が買い取った。そのレコード保管の為に、現在の邸宅に引っ越しを余儀なくされたそうだ。
 
そんな、“格好良いおじさん”の元祖ともいうべき植草甚一さんの著作。
一度手に取って、是非、お買い求め頂きたいものだ。
 
そして子供の頃に、
「おもしろいほんをうるほんやになりたい」
と、夢を描いていた永井店長の一助になれば幸いである。
 
 
 
〈著者プロフィール〉
山田THX将治( 山田 将治 (Shoji Thx Yamada))
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE編集部公認ライター
1959年、東京生まれ東京育ち 食品会社代表取締役
幼少の頃からの映画狂 現在までの映画観賞本数15,000余
映画解説者・淀川長治師が創設した「東京映画友の会」の事務局を40年にわたり務め続けている 自称、淀川最後の直弟子
これまで、雑誌やTVに映画紹介記事を寄稿
ミドルネーム「THX」は、ジョージ・ルーカス(『スター・ウォーズ』)監督の処女作『THX-1138』からきている
本格的ライティングは、天狼院に通いだしてから学ぶ いわば、「50の手習い」
映画の他に、海外スポーツ・車・ファッションに一家言あり
現在、Web READING LIFEで、前回の東京オリンピックを伝えて好評を頂いている『2020に伝えたい1964』を連載中
加えて同Webに、本業である麺と小麦に関する薀蓄(うんちく)を落語仕立てにした『こな落語』を連載する


2019-09-27 | Posted in メディアグランプリ

関連記事