家に帰ったら、オムレツを作ろう
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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仕事がきつくてどうしようもなかったときに救われた本がある。
働き始めたころ、仕事がまったくできなかった。いや、できなかったというより、自分が何をすれば良いのかが、ほんとうに分からなかったのだ。
自分がやるべき仕事はなんなのかということだけでなく、自分が今までどのようにして生きてきたのかすらも分からなくなって、濁った水の中でもがいているような日々だった。分からないことが何かが分からないから、人に訊くこともできない。会社が息苦しくて、しょっちゅうトイレに避難していた。水中でなんとか目を凝らすと、周りの人はすいすい泳いでいる。たまに陸地で談笑しながら休憩していたりする。信じられない。
水の底で溺れ死にそうな自分に、上司が「こうやって泳ぐんだよ」と手足の使い方を教えてくれても、「手ってここですか?」と自分の足を指差す始末。そんなレベルだった。見兼ねた同僚が、手足を支えてサポートしてくれても、支えの手が少し離れただけで、すぐに水底へぶくぶくと沈んでしまう。
毎日、終電で帰宅し、朝は寝不足でふらふらになって出社する。食事は一日一食、遅い昼食だけ。休日は、平日の疲れを取るために寝ているうちに終わる。そんな生活が半年ほど続いた。
入社前は、お洒落なオフィスでバリバリ働いて、家具やインテリアにもこだわった快適な家に住み、素敵な社会人ライフを満喫するぞと意気込んでいたのに、そんな気持ちはすっかりどこかへ行ってしまった。最初は会社に行く服装にも気をつけていたのに、いつの間にか、身だしなみなど、どうでもよくなり、適当なスウェットやジャージで出勤。自炊しようと張り切って購入した食器や調理器具は、戸棚の奥に閉まったまま。片付けるのも面倒臭くなって、部屋の中は、コンビニで買った食べ物のゴミや空のペットボトルなどが散乱し、ゴミの日を何週も逃してパンパンになったゴミ袋がいくつも鎮座していた。
「このままでは、仕事を続けるのは難しいかもしれない」
お盆に帰省した際、両親や友人にそんな話をした。皆心配し、ありがたいことに転職のアドバイスまでしてくれた。
この先どうしていこうかと考えながら、ぼんやり実家の自室を眺めていたら、一冊の本を見つけた。大学生の頃に何度も読み返した本だ。西日で焼けて、表紙は黄色く変色していた。懐かしさから持ち帰ることにした。帰りの新幹線の中で読み始めたら、面白くて手が止まらなくなった。
主人公は、読書が好きな15歳の少年だ。父親からかけられた呪いから逃れるために家出を決行する。家出した先では、様々な試練が待ち受けている。
大学生のときは、この作家独特の日常と非日常を行き来する世界観が面白くて読んでいたのだけど、社会人になってから読むと、今までさほど気にならなかった場面に心を鷲掴みにされた。
それは、オムレツのシーンだった。
小説の中に、オムレツを作って食べる描写がある。これまでは、その箇所を読むたびに、美味しそうだなぁと単純に思っていた。でも、働きだしてから読むとこのシーンの重要さが身にしみて分かる。
主人公が家出した先は、当たり前のように人が殺され、血が流される残酷な世界だ。そんな状況でも、主人公をはじめとする登場人物たちは、とりあえずオムレツを焼いて、紅茶を入れる。
どんな環境でも、できる範囲で自分のささやかな生活を確保して大切にする。それがこの世界をタフに生きぬく方法なのだ。
東京に戻ると、さっそくオムレツを作ってみた。卵を贅沢に3つも使って。作品に登場するオムレツに近づけるべく、刻んだピーマンを炒めて具にした。
出来上がったオムレツはとっても美味しかった。食後は、食器を洗って部屋の掃除をした。久しぶりに湯船にお湯を張って、お風呂に入ってみた。常備菜も作ってみた。もう少し今の環境で頑張ってみようと思った。
主人公より10歳以上も年上の自分が、こんなことでへこたれている場合じゃないのだ。タフに生きぬくためには、日々の生活を見つめ直そう。休日にたくさん常備菜を作ろう。なるべく家で晩御飯を食べよう。朝はバナナ一本でも口にしよう。掃除をこまめにしよう。時間があるときは、軽く家の周りを走ってみよう。
そんな風にして、会社以外での自分の時間をできる限り大事にするように心がけたら、不思議なことに、少しずつ会社の中で息継ぎができるようになってきた。おぼろげだった仕事の輪郭が見えてきて、手足が動かせるようになってきた。気がつけば、大きな仕事も任されるようになってきた。まだまだ、ふとした瞬間に、水底に沈みそうなときもあるけれど、作り置きしているポテトサラダと、茄子の煮浸しが冷蔵庫にあることを思い出したりして、なんとか踏ん張っている。
もしあなたがこの世界でタフに生きぬく術を知りたくなったら、そして美味しいオムレツについて知りたくなったら、ぜひこの小説を読んでほしいと思う。
村上春樹の「海辺のカフカ」っていう小説です。
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