箱と鉛筆と腕時計
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記事:いしだあい(ライティング・ゼミ平日コース)
最近のお気に入りの場所は「箱」だ。
箱、といっても手で持てるような小さな箱のことではない。
駅の待合所にある箱のような形に見えるそのベンチは、壁面の一部が四角く切り取られていて、くぼみの部分に座れるようになっている。椅子やソファのようにゆったりしたつくりではなく、かといって公園のベンチのように独立した形でもない。遠くから眺めると黒塗りの大きな木箱が壁に埋め込まれているようにも見える。箱がいつできたのかはよくわからないのだけれど、私がその「箱」を認識したのは今年の夏のことだった。
とある試験の一次試験を受験する本番の朝。受験地に向かう新幹線の中で、鉛筆と腕時計を家に忘れてきたことに気づいた。ただでさえ受験勉強が十分でなかったことを後悔して試験当日を迎えたというのに。なんてことだ。
気づいたからには、ソワソワとしてしまう。
「鉛筆はコンビニで。腕時計は確かあの角に雑貨屋があったな……」
行先は知らない街ではないから、どうにかなる。時間的にも余裕がある。使い慣れたものへのこだわりがあるわけでもない。何をどう考えても「大丈夫」と言えることなのだけれど、気持ちがだいぶへこんだまま新幹線を降りて改札へ向かった。
8時。まだ駅ナカのカフェは開いていない。それなら待合所で休もうと、「よっこらしょ」と荷物を降ろした場所が「箱」だった。
のどが渇いてかばんから水筒を取り出した。中身はただの水なのだけれど、自動販売機で買えないことを予測して家から持ってきたものだ。
「水は持ってきたのか、私」
鉛筆より腕時計よりペットボトルの水のほうが手軽に買えるだろうに、わざわざ水筒に水を入れてきた、そんな自分が可笑しかった。試験が始まるまであと2時間あるので「箱」の中で一休みすることにした。
箱から見える人の流れは面白かった。旅行、仕事。ここにいるすべての人が、何かの用があってこの駅に来ている。到着した人、出発する人。人の流れが見える。
箱がくぼんでいるからなのか、前を通る人たちもあまりこちらを気にしていない様子で、思いのほか箱の中は静かだった。目の前の風景は動いているのに箱の中だけは別世界のように感じられる。忘れ物をしたことは残念だけれど、とにかく試験を受けるところまで来たのだと思うとそれはそれで誇らしい気持ちになった。
水筒の水を飲みほしたとき、急に鉛筆と腕時計のことを思い出して鼓動が早くなった。いつまでもここにはいられないのだから、箱から出て改札口に向かおう。
駅から外に出ると、今にも雨が降り出しそうな空だった。そういえば鞄の中には折りたたみ傘も入っている。どうして鉛筆と腕時計を忘れてしまったのだろう。
試験会場へ向かう途中のコンビニで3本入りの鉛筆を買うことができたが、雑貨屋は営業時間前だったので、腕時計が手に入らないまま試験会場に到着してしまった。
受験番号が貼られた席に座る。受験票と真新しい鉛筆を机の上に出しておいた。巡回してきた試験監督が私の机の上を見て「腕時計が無いようですが……」と声をかけてきた。
「はい、大丈夫です!」と答えたけれど、実は足は震えていた。だって受験会場の教室にも時計が無かったのだから。
アタッテクダケロ、ドウニデモナレ。頭の中で何度も繰り返していた。
ここまできたらやり抜くしかない!
試験開始の合図があった。時間配分をしようにも時計が無いのだから、とにかく高速でどんどんマークシートを埋めていくしかない。
「回答するときに迷いが生じたときは最初の勘に頼ったほうがいい」という試験のアドバイスを思い出して、一発勝負にかけようと決めた。とにかく全問回答してマークシートのミスが無いことだけチェックした。
とにかくこの会場をすぐに出たい。
一刻も早くこの状況から離れたい。
「ただいまから途中退出が可能です」という試験監督の声が聞こえて、私はすぐ席を立った。
帰りの新幹線まで時間があったので、朝の「箱」の中にもう一度座ってみることにした。
同じ場所から見た風景は朝とはまったく違っていて、同じ日の朝の出来事だとは思えないくらい懐かしく感じられた。時計が無かったのは悔やまれるけれど、とにかく全問解いたのだから合格だろうが不合格だろうがあとは結果を受け止めよう。覚悟を決めて、箱を出て新幹線に乗り込んだ。
試験から1か月半後に届いた通知には「合格」と書いてあった。
さらに3か月が経過して、今の私はこの文を書いている2日後に二次試験を受けようとしている。また「箱」のあるあの駅へ向かうのだ。
鉛筆も時計はもう鞄に入れた。同じ失敗はもう二度としない。今度は一本早い新幹線に乗ってしっかり時間をとって「箱」の中の自分を観察してみたい。そして覚悟を決めて、試験会場に向かうことにしよう。杜の都「仙台駅」の待合室には、素敵な箱が待っている。
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