父の思い出 血まみれ坊主と鈍感力
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事:椿由紀子(ライティング・ゼミ特講)
「お父さんはいつもにこにこしているよね」
幼い頃の父のイメージは、お調子者で明るくてにぎやかな人。
よく近所の西丸さんと飲み歩いては(今では絶対ありえないが)車を運転して、ぐでんぐでんになり帰ってきた。酔って気分が良くなっている時の父は、夜中によく私や姉を起こして、お小遣いをくれたものだ。
父が亡くなって早10年。
私は18で東京に上京し、32歳までのおよそ24年間、東京暮らしをしていた。父との思い出はほとんどが子どもの頃のことだ。
小学生の頃、夏休みによく家族旅行に連れて行ってもらった。母はちょっと見栄っ張りで、若者が行くような当時流行りの「ペンション」に行きたがった。
夏の白馬へ家族で旅行に行った時のこと。
私は小学4年、姉は中学へあがったばかりだった。
ちょっと「洒落たペンション」に宿泊した。朝食の席で、家族4人で食事をしていると、隣のテーブルに大学生くらいの3人組の若い女の子がやってきた。
キャピキャピと楽しそうに会話している。
父は「気さく」に話しかけた。
「どちらから来たんですか?」
袖触れ合うも他生の縁、とでも言わんばかりにニコニコと話しかける父に、私と姉は顔を見合わせた。あんな若い女の子に話しかけて。薄くなりかけた頭頂部を9:1分けにし、スプレーで固めてごまかしている中年オヤジなど、きっと相手にされないに違いない。母はうっすら苦笑いしている。
「えー。きゃははは」
案の定、女の子たちはクスクスと笑うばかりで相手にしない。家族で来ているのに、堂々とナンパしているように見えたのだろうか。父が気の毒になると同時に、とても恥ずかしくなった。
それでも、父はまったく気にする様子もなく、もう2言3言話しかけてからようやく会話が成立しないことを認識した。それでも相変わらずニコニコしている。すごい鈍感力だと思った。
もう一つ、よく覚えていることがある。
ある時、いつものように夜中まで飲み歩いていた父が深夜2時頃帰宅した。
母も、私も寝ていた。(姉は親戚の家に行っておりいなかった)
私はたまたま、小学校でこわい話を聞いた日だった。その頃、小学校では怪談話がとても流行っていたのだ。
こんな話だ。
夜中の2時に玄関のチャイムが鳴る。何も知らない家人が玄関の戸を開けると、そこには手に斧を持った血だらけの大きな坊主が立っていた。坊主は斧を振り上げて……
一家は惨殺される、というストーリーだった。
それほど怖いとは思っていなかったが、寝入りっぱなに少し思い出した。
そして深夜2時。
「ピンポーン」
寝ている私の耳にうっすらとチャイムの音が聞こえてきた。
気のせいだろうと思った。
「ピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーン……」
鳴り続ける。
恐怖のあまり、すっかり目が覚めた私は、ふとんにしがみつき、玄関を開けに行こうか迷っていた。こんな夜中に、まさかね。でも、扉を開けて血だらけの坊主が立っていたら……
そうだ、扉を開ければ、一家みな殺しだ! 母が殺されてしまう。私も死ぬに違いない。そうだ、これは開けてはいけないのだ。
無視を決め込んだ。
その後、30~40分近く断続的にチャイムの音は続いた。
翌朝、父の機嫌がすこぶる悪かった。
父が飲みに出かけたことを知っていながら、母が間違えて鍵をかけたままにしていたそうだ。当時、父は鍵を持たず、父が出かている時は家に鍵をかけない習慣だった。
締め出された父は、明け方まで車庫で寒さをこらえて眠ったそうだ。
「あれだけチャイムを鳴らしたのに、本当に目が覚めなかったのか」としばらく母をなじっていた父は、今まで見たこともないほど不機嫌な顔をして仕事へと出かけていった。
私は目が覚めたのに、怖くて玄関を開けなかったことを言い出せなかった。
夕方、帰宅した父はいつも通りのニコニコと朗らかな父に戻っていた。
すごい回復力だと思った。
父と母は正反対の性格だった。母はコミュニケーションが下手で、ネガティブで合理的な考え方をする人だった。どうしてこの2人が一緒になったのかといつも不思議に思っていた。決して仲の良い夫婦ではなかった。
「お母さんはおまえたちが高校を卒業したら、お父さんと別れるよ」
母はよくそう言っていた。
でも最後まで別れなかった。
私が32歳の時、父は認知症になった。
60代後半だったので「若年性認知症」と診断された。70歳前だと「若年性」となり、進行が早いのだそうだ。
朗らかだった父が少しずつ怒りっぽくなった。幻覚も見るようになった。パーキンソン病を併発し、手足の動きが徐々に悪くなっていった。
「お父さんは頭が悪くなった」
と悲しそうに言う。うつ症状も出はじめた。
そんな父を見るのはつらかった。
胃潰瘍がきっかけで、父は入院生活を送ることになった。
すっかりやせ細ってしまったが、好物のあんパンやバナナを持っていくとニコニコと嬉しそうに食べてくれた。その頃には認知症も進み、私が娘であるとはわからなくなっていた。時々、自分は病院の職員だと思い込み、手伝いをしていたそうだ。最後は肺炎で息をひきとった。
結局、あの日のことを打ち明けないまま父は逝ってしまった。
あの日、チャイムの音で目が覚めていたこと、怖くて玄関を開けなかったことを謝ることができないまま。
今でも姉と、父の思い出話しをする。思い出の中の父はいつも滑稽で、姉と2人でよく笑っている。
私は父に似ていない。お調子者ではないし、明るく朗らかな性格でもない。どちらかというと母に似ている。
でも、ひとつだけ父に似ているところがあると最近気付いた。
鈍感力だ。
まわりの人と比べて、自分があまりに情けなくて落ち込むことがよくある。でもすぐに忘れる。立ち直るというより、忘れてしまう。鈍感ゆえに、気づいていないこともたくさんあるだろう。
そのおかげで、私は今も平気で生きている。
つらかったこともすごい勢いですっかり忘れるし、小さなことではいちいち傷つかない。
思えば、昔から「気が利かないよね」とよく言われた。
私は生きるために、父に鈍感力をもらったのだ。お調子者で滑稽な父が、酔い潰れてお小遣いをくれる時、口にしていたあの言葉とともに。
「お父さんはお前たちを愛しているよ」
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