メディアグランプリ

本当の暗闇は


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:芝田エル(ライティング・ゼミ平日コース)
 
 
「本当の暗闇って知っている?」
ペンションのママさんに言われて、私と娘はきょとんとした。
 
「今日はしとしと雨が降っていて、残念ながら外には出られないけど」
と言いながら、ママさんは居間と周辺の電気をぱちぱちと消していった。
真っ暗闇だ。都会では何かの光が入ってくるけれど、ここは美瑛の丘の上。
周りには建物も街灯もない。隣の家は数百メートル離れている。
庭に面したガラス張りの向こうは、青黒い。
屋根から落ちる雨音が、家の中の静寂にリズムを与える。
しばらく誰もしゃべらずにいた。
暗闇の中に自分たちが溶け込み、目がなじんでくるのを味わった。
台所からガラスのポットに入れたハーブティーを運び、ママさんは私と娘にお茶を手渡してくれた。私たちは火のない暖炉の前でベンチに並んで座り、暗闇の中でお茶を飲んだ。
 
「私たちは30年前に東京に住んでいたの。バブルのはじけた頃で刺激的な毎日だった。でも下の子が生まれたときに、このままでいいのかって話し合ってね。仕事に不満があったわけじゃないけれど、子供を育てる場所として東京はどうなんだろうと。何度も話し合って、ここでペンションをやろうと決めて、移ってきたの」
ママさんは語った。
「上の子が喘息でね。しょっちゅう夜間の救急病院に駆け込んだりして。それがここへ来たら、ぴたっと治っちゃった」
「へえ、そうですか。それは良かったですね。空気がいいですもんね」私は嬉しくなってそう答えた。その頃にはもう暗闇になじんで、お互いの表情がわかるくらいになっていた。
 
ママさんは遠くを見ながら
「東京というところは刺激的で、最新のことを学ぶにはいいけれども、暮らしていくのは大変なところよね」と言った。
 
そのとたん、隣に座った娘の膝からぽたぽたっという音がした。
見ると、娘の目から大粒の涙が零れ落ちていた。
 
美大を卒業した娘は、写真スタジオに就職した。
雑誌のグラビアやテレビのコマーシャルを撮影する会社で、芸能人もよく来ると自慢していた。
新入りは撮影班ではなく、周辺の雑用係だ。
撮影がスムーズに進むために環境を整え、主役の機嫌を損ねないように気を使うのが仕事だ。雑用をしながら光の当て方や構図を見て覚える、職人のような世界だと言っていた。
朝早く運転してロケに出かけたり、力仕事をしたりでキツイ仕事だが、いい先輩に恵まれたというので私は安心していた。
年に一度帰省するときは、空港まで出迎えた。地味だが流行の服に身を包み、洗練されてくる娘を見るのは嬉しかった。私を見つけると顔をほころばせてくる、そんな姿も愛おしかった。
 
就職して3年目、5月の終わりに連休をもらったとメールが来た。
私は以前訪れた美瑛のペンションに、娘を連れて行きたくて予約を入れた。
5月だからまだラベンダーの季節ではないけれど、ドライブにはいい季節だった。
 
空港の出口で娘の顔を見た瞬間、表情が暗く元気がないのがすぐ見て取れた。
「おかえり。どうした?」と聞いたが娘は下を向いて何も答えなかった。
車で家に向かう間もほとんどしゃべらず、ひどく疲れている様子だった。
明らかに異変を感じるが、本人がしゃべりたくなるまで待とうと思った。
 
翌日も娘はほとんど寝てばかりだった。
美瑛に行く朝、私はご飯を炊いておにぎりを作り、水筒にほうじ茶を入れた。
カフェに寄ったり、道の駅で買いものをしたり、娘もそれなりに楽しんでいる様子だった。
 
美瑛のペンションには夕方到着した。
丘の上のペンションは平屋のログハウスである。
中心に居間があり、右側が母屋で左側が客室棟である。
平日のためか、お客は私たちだけだった。
ジャガイモのサラダ・鮭のホイル焼き・ミネストローネ・ビーフシチュー。
定番の夕食である。
私たちはゆっくりと味わって食べた。
 
テレビはなく、BGMにピアノが流れていた。
夕食が終わるともう何もすることがない。何もないのがここのいいところだ。
間接照明の下で、お客さんの残した思い出ノートなどを読んで過ごしていた。
 
そこにママさんが来て冒頭の言葉である。
 
何が琴線に触れたのか、音を立てるほど大粒の涙で服を濡らして、娘は心を曇らせているものを、からにしたようだった。
その晩ぐっすりと眠り、翌朝すっきりした顔で起きてきた。
雨上がりの朝は澄み切った青空が広がっていた。
 
ペンションの周りを散策しながら、娘がぽつぽつと話し出した。
お客さんの中には理不尽な要求をしたり、ささいなことで激高する人がいる。自分たちアシスタントは虫けらのように扱われ、会社の上司も顧客を失いたくないから同調する。
そんなだから、先輩たちはどんどん辞めていき、今や自分が上の立場になってきていた。
つい先日も、ミスとは言えないものごとで土下座をしろと言われた。
ここで土下座をしなければ、撮影が進まない。
自分は悪くないけれど、仕事として土下座すればいい。
そう心では割り切ったつもりだったけれど、悔しくてばかばかしくて、なんでそんなことしてしまったんだろうと自己嫌悪した。
それから、ここで仕事を続ける意味があるのかと考えるようになった。
辞めようと9割思っているが、撮影の仕事をあきらめたくないという気持ちもある。
 
もやもやと揺れ動く気持ちを娘は語った。
私はただ聴くだけだった。
親として、人の尊厳を踏みにじられるような場所に大事な娘を置いておきたくない。
だが、どうするかは自分で決めることだ。
数日後、少し元気を取り戻して娘は帰っていった。
 
数か月して
「プー太郎になりました」
とメールが来た。私は
「卒業おめでとう」と返事をした。
 
今度は初夏の美瑛に行こう。
色とりどりの花が咲いている時期に。
夜空に満点の星空を見に。
 
 
 
 
***
 
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2019-12-06 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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