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ライティングゼミと母の死と


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:安光伸江(ライティング・ゼミ平日コース)
 
2017年12月20日水曜日、母は余命宣告された。がんだった。
 
その頃私は10月開講のライティングゼミ平日コースを受講していて、12月の講義は6日と20日だった。6日は母の介護の体制を変えるための担当者会議に出て、夜までに帰ってこられたのでふらふらしながら第5講の生放送を見たおぼろげな記憶がある。だけど、20日の第6講は見た覚えがない。
 
母は圧迫骨折で数年間寝たきりに近かった。その後2016年5月末に元気だった父が出先で転倒して急逝し、ほどなく私の乳がんが判明した。母を別の病院に預けて手術を受け、その後は抗がん剤などの治療を受けながら母の面倒をみていた。といっても私は料理が苦手で卵焼きしか作れないので、朝は卵焼き、昼はパンを食べさせ、夜はゆめシティ(近所のショッピングセンター)のお惣菜を食べていただけだけど。
 
3ヶ月ごとの母の通院に付き添うのは父の役目だったが、5月半ばの通院の直後に父が亡くなったので、8月からは私がついていくことになった。叔父の車に乗せてもらった。心筋梗塞の既往症もあったから、なんとか内科と整形外科のダブル受診だ。整形外科の若い先生は「あれ? ご主人は? お元気でしたよね」とびっくりしておられた。その日は私のがんの初診の二日後だった。その後私のがんが確定し、手術を受ける時に別の病院に預けるのは相談室のお世話になった。そして3ヶ月後、11月の母の受診は、私の髪の毛が抜け始めた翌日だった。抗がん剤の副作用だ。その日は母のCT検査があったが、その頃はがんのかけらもなく、画像はとてもきれいだった。
 
だから私は自分のがんと闘うので精一杯で、母が吐くようになっても「私の方が具合悪いんよ!」なんて言っていた。でも吐くのは心配で、3ヶ月に一度の受診ではこころもとないと思った。介護の指示を出す主治医は整形外科の先生だったのだ。ケアマネさんにいろいろ相談して、叔父や親戚一同がお世話になっている、往診や看取りもしてくれる先生に主治医になっていただくことにした。交替は12月の2週目からだったのだけど、それまでにも往診などしていただいた。吐き気どめは効かなかった。
 
訪問看護の体制も代わることになり、新しい先生のところの関係者が訪問看護に来る、そして日々の下の世話などのためにヘルパーさんが来る、という話になっていた。私は左胸と脇の下のリンパ節を全摘していて重たいものが持てないから下の世話ができないのだ。12月6日の担当者会議の時に、看護師さんがふと「それまでの間はどうされるんですか?」と聞いた。新体制は11日の月曜日からだったからだ。「なんとかするしかないでしょうね」と言っていたのだが、翌日7日、私がハーセプチンというがんだけに効く薬の点滴をしに行く日に、母がまた吐いた。行く前にも、帰ってきてからも吐いた。
 
ケアマネさんにすぐ来てもらって、11日の新体制までショートステイに入れることになった。もはや私がパニック状態でどうにもならなかったからだ。それまで紙パンツで自力でトイレに行っていたけど、それは無理ということでおむつ対応になった。吐くからというので刻み食にもしてくれた。だけど戻ってくるという日になって、血便が見つかったらしく、医療の方に回した方がいいということになった。一度家に戻してそれから病院に、という話になっていた。
 
新しい主治医の先生のところの看護師さんが訪問看護の契約に来てくれていた時に連絡があったんだけど、私がパニック状態なのを見て、「無理です、泣いてます」とその日のうちに病院に入れることになった。新しい主治医の先生の紹介で、前に私が手術した時に預けた病院に入れてもらった。前はリハビリする病棟だったけど、今度はわりと具合の悪そうなお年寄りのいる病棟のようだった。食事が取れないということですぐ点滴になって、それでも今日すぐ死んじゃうようなことはない、と安心させてもらって帰った。
 
その後検査をしたら、肝腫瘍が見つかったとのことだった。心筋梗塞の既往症は知ってたけど、肝腫瘍は初めて聞いた。ええええっ、と思っていたら、治療をするかどうするか、と聞かれて、母の意向を聞いたら「治療するよ、手術だってなんだってしちゃうよ」と言っていたので、大病院で検査をすることになった。大病院といっても、結局はもとの病院だ。私ががんの治療を受けている病院でもあった。
 
その検査が12月20日だった。
 
MRI検査を受けたら、胃の入り口にがんができていて、そこからあちこちに転移したというのがわかった。兄が県内の遠くから来てくれたので、担当の先生は兄にまず説明をしていた。余命3~4ヶ月、半年はもたないだろう、積極的な治療をするよりも穏やかに逝かせた方が、という話になった。治療のために転院するかもしれないので荷物を持ってきていたけど、そのまま持って帰ることになった。
 
その日もライティングゼミの夜の講義までに帰れたような気がするのだけど、さすがに動画を見る気になれなかった。第6講だから楽しいワークもあったのだけど、初回は私は受けていない。
 
年内にもう一度私のハーセプチンの点滴があったので、がんの主治医の先生が「お母さんの画像、見てもいい?」といってカルテを見てくれた。「桜は見られないだろうね」と言った。そして前年の11月、私が付き添ってきた時のCTの画像を見て「1年前はきれいだったね」と言った。なんで1年でそんなになっちゃったの? と私は不思議でしょうがなかったのだけれども
 
もしかしたら
 
私のがんを、代わってあげたい、と念じた母に、がんが移ったのかもしれない、なんて非科学的なことを考えたりもした。
 
そして母は年明けに緩和ケア病棟のある病院に転院し、1週間ほど入院してそこで死んだ。余命宣告から1ヶ月たっていなかった。その日もハーセプチンの点滴に行ったら、泣かない私を見た先生が「強いね」と言った。
 
ライティングゼミの課題投稿は、2回ほど書けなかった。それからも、書くことでこころを落ち着かせている感じだった。講義も6・7講は見られなかった。最終講だけは見たけど、2月期も受けてリベンジすることにした。それから上級コースにも行き、ライティングゼミも何回か受けた。母が余命宣告された日の第6講のワークは、お気に入りになった。一昨日も受けたけど、最初の時にできてたらよかったのにな、と思った。
 
母が死んでまもなく2年になるけれど、幸いがんの再発もなく平和に暮らしている。ライティングゼミにもずいぶん救われた気がする。今もこうやって母を思い出すことが出来て、ある意味幸せかもな、と思ったりもする。
 
あっという間に旅だってしまったママ
天国で見守ってくれているママ
 
よく、ゆめに出てくるけど、まだそっちに呼ばないでね? もう少し生きさせてね。まだ、原稿、書きたいからね。
 
 
 
 
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2019-12-26 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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