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優しい世界の君へ


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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:三城 詩朗(ライティング・ゼミ平日コース)
 
 
休日はあっという間に時間が過ぎる。2歳の娘と遊び疲れて、ふと壁にかかった時計を見ると18時だった。そろそろ夕食の支度をしなくてはならない。外はもう真っ暗だ。
 
「晩ごはん買いに行ってくるね」と、私は妻に声をかけた。
「あ、明日の朝ごはんのパンもお願い」
妻から元気のない声が返ってくる。二人目の子どもがお腹の中にいる妻は悪阻がひどく、横になっていることが多かった。
まだ遊びたがる娘にコートを着せて靴を履かせ、ベビーカーに乗せる。マンションの外に出ると、12月の夜の空気が冷たかった。
 
当時、娘はベビーカーの幌を倒して寝たふりをした後で、幌を勢い良く開けて「おはよう!」と言う遊びにはまっていた。自宅から最寄りのスーパーまでは歩いて5分。ベビーカーの上で寝たふりと「おはよう!」を繰り返す娘に付き合いながら、私はスーパーに着いた。
 
最寄りのスーパーは2階建てだ。1階がパンや総菜、2階が生鮮食品売り場になっている。2階で今夜の食材をカゴに入れ、次は1階で明日のパンを買おうとエレベーターに向った。
「あ、トマトがいっぱい!」
「ニンジンはかわなくていいの?」
などとさっきまで喋っていた娘は、ベビーカーの幌を下ろして寝たふりを始めた。
 
私たちは誰も乗っていないエレベーターに乗り込んだ。少し遅れて、年配の女性が小走りでやってくる。銀髪で小ぎれいな服装をしている老婦人だ。
私は「開」ボタンを押して待つ。老婦人が乗り込んで私が「閉」ボタンを押したそのとき、娘が「おはよう!」と満面の笑顔でベビーカーから顔を出した。
 
「まあ……今は夜でしょ」
老婦人があきれたような、憐れんでいるような調子で独り言を言った。
いくら2歳児といえども、本気で今が朝だと思っているわけがない。老婦人の品の良さはどこかへ行ってしまい、急にただの嫌なお年寄りに見えた。こういう遊びをしているんですといちいち説明するのも面倒だ。
「はあ、えーと……」
と私がもごもごしていると、老婦人は娘に向かって「おうちにお母さんはいないの?」と言った。
 
「今は夜でしょ」と言われるのはまだ分かる。「おうちにお母さんはいないの?」とは、一体どういう意味なのか。
3人を乗せたエレベーターが2階から1階に降りていく間、私は老婦人の言葉の意味を一生懸命に考えた。たどり着いた結論は、その老婦人は、我が子を正しい挨拶ができない子どもだと認識したということ。そして、その原因が私たちの家庭環境にあると考えているということだった。
 
娘はぽかんとしていた。ベビーカーの中から、老婦人を真顔で見つめたまま固まっていた。
2歳の娘は、単純で優しい世界に生きていた。たまに両親や保育園の先生に怒られることはあるものの、娘の世界のほとんどは「愛情」や「優しさ」といった感情でできている。そんな娘は、人生で初めて「軽蔑」と「憐憫」というややこしい感情を投げかけられて、どう反応すればいいのか分からず困っているように見えた。
 
エレベーターが1階に着いた。私は無言で「開」ボタンを押してドアを開けた。老婦人も無言でエレベーターを出てどこかへ歩いて行った。
私はパン売り場に向かいながら、もう一度老婦人が言ったことの解釈を試みていた。
 
「娘をバカにされた」
「自分の考えすぎではないのか」
「娘の母親はちゃんといる。今体調が悪くて家で休んでいるだけだ」
「子どもは、母親がいないと挨拶ができるようにならないのか」
「父親が子どもと二人で買い物してはいけないのか」
 
色々な考えが頭の中を巡ったが、先の結論以外の解釈は出てこなかった。私は、猛烈に腹が立ってきた。
買い物かごを持つ左手と、ベビーカーを押す右手の感覚がなくなり、指先がチリチリしてきた。手のひら、胸のあたり、喉元、頭の順にゆっくりと体温が上がっていくのを感じた。「頭に血が上る」という現象は、決して文章の中だけの表現ではなく、現実の世界で実際に起こるもののようだった。私は、老婦人を追いかけて後ろから蹴り倒してやりたいと思った。
誤解を解こうとしなかった自分にも腹が立った。一言、「そういう遊びをしているんですよ」と言えばそれで済んだかもしれないのに。
 
「あったあった」
私は努めて明るい声を出してパンを選び、レジを済ませた。買ったものを袋詰めしていると、ずっと無言だった娘が口を開いた。
「さっきおばあさんとおはなししたね」
「そうだね」
「おばあさんやさしかったね」
娘は、どうやら私と違う解釈をしたらしい。私は多少無理をして笑顔を作り、もう一度「そうだね」と言った。
 
スーパーの自動ドアが開くと、冷たい空気が吹き付けてきた。
私の頭に上った血は、ゆっくりと引いていった。人は、自分が見たいものしか見ていない生き物だと思うことがよくある。言葉も、自分の思いと同じ意味に他人が受け取ってくれるとは限らない。私自身も、これまで知らず知らずのうちに人を傷付けてきた可能性はいくらでもあった。
 
つい先ほどまで怒りに震えていた父親と違って、娘は優しい世界の住人のままだった。私はベビーカーを押しながら、この先、数えきれないほど沢山の感情に接しながら成長していくであろう娘のことを思った。世の中はどうなって、娘はどんな大人の女性になっていくのだろう。
できることなら、娘にはこのまま優しい世界の住人でいてほしいと思った。しかし、それは決して叶わないことだ。私は少しさみしくなった。
 
ゆっくり歩いていると、散歩している犬とすれ違った。犬は私たちにひと吠えし、飼い主に「ダメでしょ!」とリードを引っ張られながら通り過ぎて行った。
「ワンワンが『こんばんは』だって」
娘が言った。また私と違う解釈をしたようだ。
「そうだね」
私は素直にそう言った。娘は娘の解釈で、これから出会う様々な感情と向き合っていってほしいと思った。私はベビーカーを押して家に向かった。
 
 
 
 
***
 
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2020-10-31 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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