メディアグランプリ

マスクという乗車券


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記事:リサ(ライティング・ゼミ平日コース)
 
 
「グ、グ、ググ…… コホ、コン、ゴホン」
地下鉄の車内の視線が、一斉にこちらに集まる。母は、マスクを、さらに両手で被うようにして、漏れ出る咳を必死にこらえようとしている。
人は、しぐさひとつで、言葉と同じくらい相手をとがめることができるのだなと思った。あとずさりする人、そそくさと別の車両に移る人、チラチラと二度見する人、はあ~と大きなため息をつく人…… 老若男女、さまざまな人々が乗り合わせる時間帯だった。
 
「いったん降りよっか?」
「そうね」
私たちは、次の駅で降りると、ホームのベンチに腰をおろした。
母は、まだ少し苦しそうだった。70歳をすぎた5年ほど前から、痰がからんで咳がでるようになった。それだけのことだ。なのに、コロナ禍の今、これほど外出時の支障になるとは思いもしなかった。
 
「ツボの本で調べたんだけどね」
「ツボ?」
「そう、おへその左右指一本分のところをぐっと押すと、唾液がでて喉が楽になるんだって」
「こう?」
「うん、もっと。そう、もっと指をお腹に対して垂直にたてて。もっと強く押してみて。」
「そう言われても、お母さん、お腹がねえ……」
盛り上がった肉と肉の間に、指をくいこませようとする。
母は、以前からマスクをつけている。マスクとは、本来、咳をする人などが外出時につけるものだった。それが今や、健康な人が、万一に備えるエチケットのような位置づけになってしまった。ともすると、母のような人は外出するなと言わんばかりの空気になる。
 
「私たちの正面に座っていた若い子、おしゃれだったね」
母が言った。
「ピンクのマスクの?」
「うん。あれ、服の色と揃えていたのよね、今は、ああいうのが流行りなのかしら」
手に入るなら、どんな色、形のマスクでもいいという時期は、とうに過ぎた。マスクを「顔の一部」と認めざるをえなくなった今、若者の多くは、顔の輪郭をすっきりみせる形や、肌を綺麗にみせる色などに敏感になっている。
 
母は、レースのハンカチをリメイクした手作りマスクをつけていた。
「そういえば、私が買った銅イオン入りのマスク、使わないの? あれ、洗っても、割とすぐ乾くからおすすめだよ、着け心地もいいし」
「うん、そうなんだけど……」
どうやら、自身の手作りを気に入っているようだった。ほかに、観光地で買った手ぬぐいや、若い頃によくつけていたスカーフなども、マスクにリメイクしたらしい。
「お向かいの奥さんね、ちりめんの帯で作ったら、ペットショップの店員さんに、すごく可愛いってほめられたんだって。お母さんも帯で作ろうかなあ」
マスクへのリメイクの楽しさは、年齢に比例するのかもしれない。今はもう着ない、着られない、もったいない、捨てるには忍びない思い出の切れ端を、マスクという形で再び身に着けるという思いがけない喜びも相まっているように思える。
 
先日、ニュースで、マスクの素材別の効果について、スーパーコンピュータ富岳による、新たなシミュレーション結果が発表された。
飛沫を浴びた時、吸い込みを防ぐことのできる量は、不織布が約7割、布マスクが4割ほど、ウレタンにいたっては、3割程度しかなかった。それなのに、さしたる話題にもならず、人々は思い思いのマスクをつけ続けている。咳をする人からは逃げつつも、実のところ、もうあまり怖がっていないのかもしれない。
おまけに、今はもう、マスクの効果を論じている場合ではないともいえる。ウィルスが侵し続けてきたこの国の肺が、いよいよ炎症をおこしはじめた。大企業までが早期退職、リストラをはじめ、つぶれそうな会社をなんとか呼吸させている。高齢者施設などでは、面会できない状態が半年以上続き、認知症を発症する割合が恐ろしく増えているという。
私たちがどれだけマスクをしようと、社会のシステムそのものの破壊をふせぐマスクがないのだ。
 
もうずいぶん、人々のマスクの下の顔を見ていない。
口元に笑みを浮かべている人は、どれくらいいるのだろうか。
 
列車がホームに滑り込んできた。
暗澹たる気持ちを抱えた私に、「ほら、乗り遅れるよ」と母が言う。
あわててバッグを肩にかけて立ち上がった。口元に手をやると、ウレタン製の乗車券を、一応、顔に密着させた。
もちろん、乗り遅れるわけにいかない。この時代を生き抜かなくては――
しかし、どこへ向かっていくのだろう。
長いトンネルの先には、明るい地上が待っているのだろうか。
 
 
 
 
***
 
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2020-10-31 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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