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子供にとって何が重要なのか、大人は分からないものなのだ

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*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:吉田けい(ライティング・ゼミ特講)
 
 
あれは保育園だったのは記憶しているが、年中だったのか年長だったのか思い出せない。
 
園での一日をつつがなく終えた私は、送迎バスを飛び降り、母と手を繋いで跳ねるように浮かれた足取りで帰宅した。園生活が嫌いなわけではないが、やっぱり自宅は好きだ。お菓子がある、テレビがある、夕ご飯がある、兄ちゃんもいる。家に帰って靴を脱いで、スモックとカバンを子供の背丈に合わせたフックにかけて、カバンの中からタオルやら何やらを出して、洗濯かごに入れる。いつもの決まりきったルーティーンの中で、私は違和感に手を止めた。
 
カバンの中に、何か見慣れないものがある。
 
「……おはなしのほんだ」
 
園では毎月絵本が配られた。大人になった今では、どこかの出版社が月間で発行している絵本雑誌を保育園が契約し、毎月園児に配っていたのだと分かる。園の日々のカリキュラムにはこの絵本雑誌を読む時間があって、最新号は園に置いておき、次月の絵本が届いてから家に持ち帰るというルールだった。だが、今日はまだ絵本を持ち帰っていい日ではない。本を読んだ後、本棚に戻すべきところ、まちがえて自分のカバンにしまってしまったのだ。
 
どうしよう。
まちがえてもってきちゃった。
 
「……どうしたの?」
 
いつもならタオルやら何やらを投げるようにして遊びだす娘が、カバンを覗き込んでうずくまるようにしているのだ、母は訝しげに様子を窺ってきた。
 
「ほん、もってきちゃった……」
 
身をすくめることは知っていても、母親を欺く知恵などまだ回らない園児だ。かすれた声を絞り出して、カバンの中から絵本を取り出すのが精一杯だった。母は差し出された絵本を見て、あれ、今日持ち帰る日だったの? と尋ねてくる。
 
「まちがえちゃったの……」
 
おこられる。
 
当時の私はよく怒られた。子供を持つ身となった今では怒られて当然としか言いようがない、どうしようもないことでよく怒られた。牛乳をこぼすなと言われた三秒後にひっくり返し、走るなと言われた道路で走り、騒ぐなと言われても甲高く叫ばずにはいられない。楽しく面白く生きたい私を叱る存在、それが母だと思っていた。
 
だから、保育園から間違えて本を持ち帰るなんて、怒られるに違いない。
 
「そうかあ、じゃあ明日自分で持って行ってね」
 
母は私の予想に反して、目を吊り上げることなくからりと言い、台所へと去っていった。私は絵本を虚空に差し出したまま呆然とするしかない。おかあさんおこらなかった。なんで? まちがえたのに。ちょっとラッキーだと思わなくもなかったが、明日保育園に行った時のことを想像すると、そんなことはどうでもよくなった。本を間違えて持ち帰ってしまった。それをまた自分で保育園に持って行く。絵本が並べてあるところにそっと置けば誰にも気が付かれないかな。それともちゃんと先生に言った方がいいんだろうか。お母さんは怒らなかったけど、先生はちゃんとお片付けしなさいって怒るかな……。
 
どうしよう、どうしたらいいんだろう。
 
突如発生した途方もないミッションに、眩暈がするような心地だった。どうしよう、どうしようと考えても、まだ年端も行かない子供ではろくな解決策も思いつかない。そしてそうこうしているうちに兄が帰宅し、遊びに誘われ、夕飯を食べている頃には悩んでいること自体を忘れてしまう。寝て起きていつものように登園準備をしている時にカバンの中を覗いて、違和感ある絵本をみつけ、そうだ、絵本を返すんだ、と思い出す。何にも思いつかなかった、どうしたらいいんだろう、バカバカ。きっと怒られる。お母さんは持って行ってね、しか言わなかったけど、どうやって持って行ったらいいんだろう……。
 
ばすがこなければいいのに。
ばすがほいくえんにつかなければいいのに。
 
「…………」
 
無情にも、送迎バスはいつもとおなじように保育園に到着してしまった。到着したらカバンを自分のロッカーにおいて、スモックに着替えたら、朝の会まで自由に遊んでいいことになっている。いつもなら楽しくてたまらない時間だ。同じバスに乗ったクラスメイトは、さっさと支度を済ませてもう遊び出している。私も遊びたい。ロッカーにカバンをかけて、この絵本をどうにかしたら……。
 
「…………」
 
絵本を、カバンから引っ張り出すことが出来ない。
 
本棚に戻せばいいのか。先生に話した方がいいのか。
バレずにこっそりやったほうがいいのか。
もしクラスメイトに見つかって、いけないんだ、ほんもちかえってる、とはやされたら、何と言えばいいのか。
 
本を、本棚に戻すだけ。
それか、先生に言うだけ。
 
「…………」
 
手が動かなかった。立ち上がることもできなかった。体をぴったりとロッカーに寄せて、手元を誰にも見られないようにするのが精一杯だった。
 
「けいちゃんどうしたの、あそぼうよ」
 
仲良しの友達がすぐ後ろまでやってきて声をかけた。どうしよう、助けてと言えばいいのかな。それとも友達も、いけないんだ、と言うだろうか。何かを選ぶことはほかの可能性を潰してしまうことだ。もし、絵本を見せて、いけないんだ、とみんなに言いふらされたらどうしよう。仲良しの友達がそんなひどいことするはずもないのだが、パニックになった頭は次から次へと悪い未来ばかり想像してしまう。
 
「じゅんび、してるの」
 
やっと絞り出した声に、ふうん、と友達は首を傾げ、遊びの輪に戻って行った。助かった、とりあえずこの場は乗り越えた。でもこのあとどうしよう……。カバンから絵本を少しだけ引っ張り出してみる。それだけでもすごく力がいる作業のような気がして、胸が苦しくなった。本を、とりあえずカバンから出せたら……そう思って手を動かそうとしても、絵本はカバンから五センチ以上上には持ち上げられそうにもなかった。
 
どうしよう。
きょう、このままずっと、ロッカーにいるのかな。
でも、えほんをだれにもみられたくない!
 
「どうしたの?」
 
緊張が限界に達して涙が滲んだ時、またしても後ろから声がした。担任の先生だ。
 
もうだめだ、おこられる!
 
「もうすぐ朝の会だよ」
 
先生は昨日の母と同じように、私の手元を覗いてくる。ロッカーに体をぴったり寄せていても、上から覗くことをブロックすることはできない。もうだめだ、絵本が見つかってしまう! もはや恐怖に包まれた私は怒声を覚悟して身をすくめた。
 
「あれ、絵本どうしたの?」
 
ケロリとした声音。
 
「あ、あの……きのう、まちがえて……」
「ふうん、先生戻しておくね」
 
先生の大きな手が私の頭上からぬっと伸び、あれほど重たかった本をするりと持ち上げた。
 
「朝の会始まるよ、早く支度しなさい」
 
声も出せず、凝視するしかできない私に気が付いているのかいないのか、先生はスタスタと本棚まで歩き、絵本をひょいと差し入れた。そして何事もなかったかのように、朝の会だよ、と園児たちに声をかける。
 
「…………」
 
おこられなかった。
なんで?
 
疑問に思いつつ、もう一度聞こえてきた朝の会、という単語に、慌てて着替えをした。重かった体は軽く、苦しかった息は軽やかになっていた。絵本はもう私のカバンの中にはない。友達が絵本のことを気にしている様子もない。よかった、今日ずっとロッカーにいなくてもいいんだ……。打って変わって足取り軽く仲良しの友達のところにかけていくと、友達は遅かったね、と声をかけてくれた。
 
「うん、ちょっとね、支度してたの」
「ふうん?」
 
安心するとはこのことか、と思いながら、椅子に座ったのをよく覚えている。

 

 

 

さて、現在三歳になった息子は、言葉達者にいろいろなことを話してくれるようになった。
 
「ぼく、ママがいい!」
「じぶんでやりたかったの! やりまおし!」
 
まだ時々舌足らずなのが可愛いなと思いつつ、大人からすると本当に些細な事で怒ったり主張したりしてくるので辟易してしまう。なんでこの子はこんなことにこだわるんだ、と苛立ちを感じてしまうとき、私はロッカーにうずくまっていた自分を思い出さずにはいられない。
 
今思い返すと、本を本棚に戻すだけのことに、なぜあれほどの重責を感じていたのか全く分からない。家でおもちゃを片付けるのと同じように、保育園の本棚に戻せばいいだけなのだ。
母も私がこんなに思い悩んでいたとは予想だにしなかっただろうし、先生もまさか本が理由でうずくまっているとは思わなかっただろう。だが、その時の私は、保育園のものを間違えて持って帰ってきてしまったことは重大な過失、あるいは犯罪のように感じていて、今までに味わったことのない重責と恐怖を感じずにはいられなかったのだ。
 
「ぱんつはかない! やりまおし!」
「おきがえしない! うわーん!」
 
大人から見れば取るに足らないことでも、息子にとっては重大なことなのかもしれない。
恐ろしくて体がこわばってしまうようなことに、必死に抵抗しているのかもしれない。
 
「……そうかあ、お着換えしたくないのかあ」
 
毎日には予定があって、寄り添うにしても限度はある。
それでも、できる限り息子の気持ちに寄り添おうと、今日も深呼吸して育児に挑むのだった。
 
 
 
 
***
 
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2020-11-02 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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