認知症の記憶は北極星だ
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記事:沢 ゆう(ライティング・ゼミ日曜コース)
認知症は本当に恐ろしい病気なのか、と聞かれれば、はい、と多くの人が
答えるだろうし、私もそう答えていた。
でも85歳になる実の母うっちゃんを5年ほど介護してきて、今、恐ろしさはほぼない。
それよりも情報が少なすぎることが恐怖を増大させていた部分も大きいな、と感じている。
30年前に夫を病気で亡くし、以後ほとんどの時間を一人暮らしで過ごし、77歳まで
テニスを続け、友人たちと食事やコンサートに行き、頭も体も使っていきいきと暮らしていると思っていたうっちゃんの様子がおかしくなってきたのは、80歳を迎える頃からだった。
「夜中に何度もピンポンが鳴るの」
「リビングに知らない人が座ってる」
などと訴えてくるようになり、同じ話を何度もするようになった。
青天の霹靂の事態に私たち兄弟は青ざめ、認めたくないばかりについつい
「さっきも言ったでしょ」
「誰もいないよ、勘違いだよ」
とやってはいけない対応のオンパレードで母を怒らせ、状況はどんどん悪化していった。このまますべての記憶が瞬時になくなって、徘徊したりするのではないだろうか、と、今思えばそれこそ妄想としか言えない発想で恐怖に駆られ、暴走していた私たち。私たちの反応を伺い、ちょっとでもおかしなことを言ったと思うと、さりげなくごまかすうっちゃん。不安が増えてかんしゃくを起こすことも増えていった。
今ならわかる。安心できる時間が進行を遅らせることに大きく役立つことも、例え症状が進行したとしても、安心し、楽しかったという時間の積み重ねが穏やかな生活に
繋がることを。
今日どこへ行き、何をしたかを覚えていなくても、楽しかった、嫌だった、という感情は、残っているらしい。脳の中の保管場所が違うみたいだ。
今日何をしたのか、私が誰なのか、自分の夫が誰なのか、といった情報は今では
ほとんどないけど、夕方になると、子供たちがまだ学生で家に帰って来る、と思い込み、大量のごはんを炊き、学生に英語を教えていたときの記憶がよみがえるのか、生徒さんがくるから支度しなくちゃ、などとも言う。
時計を見て3時だと、そろそろ生徒さんが来るわ、と思い、4時とか5時だと、夕飯の支度しなくちゃ、と思う。これはパブロフの犬状態なのか、と思っていたけど観察していくうちに違うのかな、と思い始めた。
きっとうっちゃんの人生で一番充実していた時期の記憶なのだろう。脳だけでなく、心に、身体に染み付いた記憶。脳に多少の問題が起きて記憶が失われてきても、決して失われない記憶。この記憶に基づくうっちゃんの行動は、決してパブロフの犬的な条件反射などではなく、うっちゃんの人生を照らし導く北極星のような記憶からでた
誇らしい行動だった、ということがわかってきた。
うっちゃんの心の地図の中に燦然と輝く、自分の現在地を照らす記憶。
その記憶が正しいかどうかなんてもはや関係ない。うっちゃんにとって、その記憶に
まつわるすべてが確かな足跡。
誰にでもそんな記憶があるのではないだろうか、そして誰でもそれ以外の記憶を忘れてしまったからといって、そんなに問題があるだろうか。
洋服の着方や料理の手順を忘れても、誰かの手を借りれば問題ないし、子供の名前や顔を忘れても、私は悲しいけれど、うっちゃんには問題ない。
認知症の種類は多く、個人差もある。私はうっちゃんしか見ていないから、わかることも限定的ではある。
それでも、今ははっきり言える。認知症は恐ろしくないよ、と。
忘れてしまったことや、理解できなくなったことが増えて、色々な後始末も増えて、物理的には確かに大変にはなるけれども、モンスターになるわけではない。
怒りやかんしゃくを爆発させることもあるけれど、今うっちゃんに見えている景色を共有し、穏やかに安心できる時間を過ごすことができれば、かんしゃくも減らせる可能性もある。
何より、誰かの人生の輝いていたときを共に追体験できる機会はそうそうあるものではない。
認知症は、すべてわからなくなる病気なのではなく、本人にとって一番大切なこと以外がそぎ落とされていく病気なのかもしれない。私たちにとって大切なことは、自分や周りの人たちの記憶がはっきりしていて、トイレや洋服を着る手順がはっきりしていることだけど、今のうっちゃんにとって大切なことは、慌ただしく働き、家族のごはんの心配をしていたあの頃の生活、なんだろうと思う。
もしかしたらうっちゃん自身も気づいていなかったうっちゃんの人生の宝。
うっちゃんの心の中で北極星のように光り、不安でこころもとない毎日を照らし、
導いてくれている記憶。
今日もうっちゃんは、水びたしのお米を5合、炊こうとしている。
***
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