平凡という幸福
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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:武田依子(ライティング・ゼミ平日コース)
強い雨風に煽られて、さしていたビニール傘が裏返った。
しかしその次の瞬間、更に強い風が吹き、目にも止まらぬ速さで、傘の裏返りは元に戻った。
傘が裏返った瞬間は「うわー、これから出かけるのに、どうしよう」と強烈に焦ったものだから、直った瞬間に、思わず神に感謝した。けれどしばらくしてから、何だか神への感謝を無駄遣いしてしまった気もした。日頃から、神に祈ったりお願いしたり感謝する習慣がないせいか、どうせ神への感謝するなら、もっと人生の重要な局面ですべきではないか、と思ってしまったのである。
「いや、ビニール傘が裏返るのもなかなかのピンチだった。このまま裏返って使えなくなった傘を持っていても、この雨の中、結構な惨状になるに違いない……」「いやいや、これが神への感謝の値するくらいの人生のピンチだというのか。これを人生のピンチと同列に捉えるのは、大袈裟すぎるのでは……」
頭の中で、どうでもいい葛藤が繰り広げられる。
こうして、特別な事が何も起こらない平凡な一日が始まった。
思えば生きていくことって、小さな日常の積み重ねでもある。大人になるにつれて、日常は同じことの繰り返しのようになっていく。この日会った友は、そんな日常に飽き足らず「平凡な毎日がつまらない! 刺激が欲しい!」と言う。
そうだよね。同じような平凡な毎日の繰り返し。退屈になるよね。
刺激、欲しいですよね。
でも、刺激もその内容によるのだ。素敵な出会いや心弾むハプニングの話を聞くと「まるでドラマみたい」と表現する人がいるが、実際のドラマを見てみると、かなりな波瀾万丈に作られている。波瀾万丈というものを実際体験してみたら、もちろん退屈している暇はないだろうけれど、「刺激的で嬉しい!」なんて思う人はあまりいないはずだ。ハッピーエンドへの着地が見えていれば頑張れるかもしれないけれど、結末が全く見えない波瀾万丈の渦中では、多分相当に疲れて、身も心も消耗してしまう。
なかなかな事から些細な事まで様々な波瀾万丈をいくつか経験してみると、何か特別な事が起こらなくても、平穏であることの有り難みの方が身に染みるようになる。
昔、息子が幼児だった時、2回ほど迷子となって、私の目の前からいなくなったことがある。
1回目は東京の新宿、2回目は池袋。よりにもよって、両方とも人出の多い繁華街である。
その時のことは、今でも鮮烈に覚えている。
息子がいないことに気づくや否や、頭が真っ白になった。
心臓の鼓動が速くなり、呼吸が浅くなるのを感じた。
一生懸命に辺りを見渡して、息子の姿を探そうとするのだが、人が多すぎて見つからない。
思考がまとまらなくなり、あまりの怖さに苦しくなった。手の先が冷たくなり、足がガクガクとするのを感じた。
2回目の池袋の時は、ひたすら自分を責めた。新宿の時にあんなに反省したのに、私はなんてバカなんだろう……
さっきまで、横にいたのだ。その時までは、普段と変わらない日常の一コマを過ごしていたのだ。
その時間が急転直下、一瞬のうちに消え去ってしまった。
息子がここにいて、その小さな手と自分の手を繋いで歩いている、それが当たり前だと思っていた平穏で平凡な時間にお願いだから巻き戻って欲しい、と強く願った。
どうしたらいいのか分からずに、新宿の時は、息子を見失った場所の辺りをうろうろした。池袋の時は、見失ったのが駅の構内だったので駅の改札に行って駅員さんに話をした。
結果、新宿では近くのビルの警備員さんが息子の手を引いて、親である私を探しに来てくれているところで会うことができた。
池袋では、若いカップルが泣いている息子の手を引いて、駅係員室に来てくれた。
この時の感謝の気持ちは言葉に表せない。
時間にして数十分の、結果的には大事には至らなかったこの二つの出来事は、今でも強烈な教訓として心に残っている。
その教訓とは、好奇心旺盛で予測不能に動き回る息子に対して幼児用の迷子防止の紐などで安全を図るべきだった、というものもあったが、何よりも「当たり前の日常がどんなに幸せなことなのか」ということだった。このことが、強烈に心に焼き付いたのだ。
この件があって以来、いつも心の片隅で「平凡で平穏な日常ってありがたいな、幸せだな」と思っている自分を感じるようになった。
あれから月日が経って、息子も大学生になった。
先日、迷子になった時に大好きだったウルトラマンがテレビに映ったので「ほら、大好きなウルトラマンだよ」と指をさして言ってみた。息子には「あぁ?」と言われたきり、無視をされた。
新宿だろうが池袋だろうが、もはやどこにでも一人で行って帰ってくる。
私は、息子が目の前にいなくても、そしてどこにいようが心配をしないでいられる有り難さと幸せを噛みしめる。
そうだ、傘の裏返りが元に戻ったことは、やっぱり神様に感謝しよう。
通常通りに傘が使えて、無事に雨をやり過ごせることって、幸せでありがたいことだ。
そんなことを考えながら、刺激が欲しい、という友に声をかける。
「平凡でつまらないって思えるのは、幸せだってことだよね」
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