メディアグランプリ

歯医者で「生きている」を感じた話


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:もちだみお(ライティング・ゼミ超通信コース)
 
 
タオルを持った。ふきんを持った。パン・ド・カンパーニュを作るための材料も持った。
よし。準備完了。出発しよう。
 
ああ、今日はいい天気だなぁ。
私は車のエンジンをかけ、ギアをドライブに入れてアクセルをそっと踏んで、ガレージから道路に出ようとした。
 
その瞬間、黒猫が車の前をシャッと横切った。
 
慌ててブレーキを踏んだ私の心臓は、ドキドキしていた。
不吉だ……。目の前を黒猫が横切るなんて、不吉だ……。
 
気を取り直して、職場であるカフェに向かった。カフェの店長であり、パンの先生でもある私は、今日のようなカフェの休業日には、そこでパン教室を開催するのだ。
 
いつものようにパン教室の準備をしていたら、さっきまで晴れていた空が急に暗くなってきた。雨が降りそうだなと思っていたら、ポツポツと、そしてザーッと、ついにはゴーッとすごい雨が降ってきた。ゲリラ豪雨だ。
うわぁ、生徒さんたちちゃんと来られるかなぁ。30分、開始時間を繰り下げようかなぁ……。
時間どおりに始められないかもしれないと、ドキドキしながら考えているうちに、雨が小降りになり、「すごい雨でしたぁ!」と言いながら、生徒さんたちがやってきた。よかった。
「これはもう、南国のスコールだねぇ」なんて話しながら、和やかにレッスンが始まった。
 
午前のレッスンが終わって生徒さんたちが帰ってから、お昼ごはんのパンをもしゃもしゃ食べていると、「ガキッ」と何か硬い物を噛んだ。嫌な予感がする。恐る恐る出してみると、やっぱり……。
歯の詰め物がとれてしまったのだ。
 
詰め物がとれた奥の歯を気にしながらも、午後のレッスンを無事に終えて、この歯をなんとかしてもらうべく、歯医者に予約の電話をした。
「詰め物を入れるだけだったら、すぐにできますよ」と言ってくれたので、自宅に帰って診察券を持って、4年ぶりに近所の歯医者に行った。
 
診察台に案内され、大口を開いて見てもらった。すると、担当してくれた歯科衛生士さんが「うーん……」と言って、何やら歯医者さんに相談しに行ってしまった。聞こえないように小声でゴニョゴニョ言ってる。一体何なんだ? とドキドキしていると、歯医者さんがやってきて、「今日は治療して行く時間はありますか?」と聞いてきた。なんと、詰め物をしていた歯の隣の歯が虫歯になっていたのだ。
「幸いひどい虫歯ではないので、このまま治療してからとれた詰め物を入れましょう。時間は大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です。よろしくお願いします」
 
とれた詰め物をもう一度入れ直してもらうだけのつもりだったのに、まさかの虫歯治療。
歯の治療は苦手だ。ああ、怖い。ドキドキする。そして、痛い予感しかしない。
 
「はい、それでは口を開けてください」
とっても優しい歯医者さんは「すぐに終わりますからね」と言いながら、私の虫歯を削る。神経がある歯なので、削ると痛い。軽く脳天を突くようなキンとした痛み。あの嫌なドリルの音と相まって、もう辛い……。
へこたれそうになったところで、
「はい、虫歯の治療は終わりです。あとはとれた詰め物を詰めていきますね」
ああ、終わった。ああ、嬉しい。
お礼を言って治療費を払い、早々に帰路についた。
 
今日はたくさんドキドキしたなぁ。一つ一つはちょっと嫌なことだったけど、振り返ってみると、なんとなく充実した一日だったような気がする。
 
そうか。これって、ゲームと同じだな。
 
例えば勇者が冒険に行くゲーム。
それはそれは、色んな障害が待っている。魔物が出てきたり、謎を解かないと進めなかったり、最終的にはラスボスと戦って勝たないといけない。その度に、やられて「ああくそ」ってなったり、勝って「私って天才かも!」ってなったり。たくさんの苦労をしたからこそ、クリアした喜びはひとしおだ。
これが、勇者がただ歩いて最終地点まで行くだけのゲームだったら……。
なんの障害もなく、ただ普通にてくてく歩くだけ。ラスボスが気持ちよさそうに昼寝しているのを横目で見ながら、のほほんとゴールに到着。めでたし、めでたし。
そんなゲーム、やりたいと思う?
「なんやねん、このクソゲー! 返品じゃあ!」って、私だったらそう思う。
 
人生はゲームではないので、実際に魔物が出てきたり、キノコに行手を阻まれたりしたら、すごく困る。日々、平穏に暮らせるに越したことはない。
だけど、1日のルーティンがほぼ決まっていると、そこには大きな感情の動きはない。
 
朝起きてトイレに行って歯を磨き、ストレッチをしながらニュースを聞き、着替えたら簡単な朝ごはんを食べて、車で出勤。カフェで働いて、定時に上がって、途中スーパーに寄って買い物をする。帰宅したら録画したドラマを見ながら晩ごはんを作って食べ、風呂に入ってからニュースを見て、本を読みながら寝落ちする。私の1日は大体こんな感じだ。ほんの数行で1日が終わってしまう。
この中に、どれだけ感情を大きく動かせることがあるだろう? 平凡で幸せな日々ではあるが、一言で言ってつまらない。
 
だが、今日はいつものルーティンに「黒猫が横切る」「ゲリラ豪雨が降る」「歯の詰め物がとれる」「歯医者に行って虫歯が見つかり治療する」という、思いがけない出来事が加わった。どれもものすごく大変なことではなかったが、ドキドキと感情が動く新鮮な出来事だったのだ。
 
人は大人になると、子どもの頃のように「毎日が冒険!」ではなくなり、「いつもどおり」の日々を送るようになる。日々何事もなく平穏に暮らしているその生活の中に、少しスパイスが混じると、感情が動いて「ああ、生きているなぁ」っていう感じがするのだ。
 
虫歯の治療をして痛い目にあった私は、紛れもなく今日一日を生きていた。
 
 
 
 
***

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2021-07-24 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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