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結局は人なんだよな


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:串間ひとみ(ライティング・ゼミ超通信コース)
 
 
ゴオーッ、ゴオーッ、ゴオーッ。
 
「始まった……」
 
もはや日常になり過ぎて驚かなくなったが、ここ1~2ヶ月ほど、わが家のトイレから、ものすごい音がするようになった。初めは何日かに1度、しかもわりと昼間だけだったのだが、日を追うごとにその頻度は増え、時間も20時を過ぎることもあり、いよいよ大家さんに言わなければと思っていた。尋常ならざるその異音について、大家さんに積極的に話ができなかったのには理由がある。その異音の少し前に、わが家のトイレの水が、少しではあるがずっと止まらずに流れ続けるという不具合があり、大家さんが工具を持ってきて処置を施しても改善せず、部品を交換してもらうということがあった。その交換の際に、水を溜めるタンクの中に、謎の棒のようなものが入っており、もしかしたら水が流れ続けた不具合はそれが原因だったのではないかと、私が気になったからだ。もちろん、わざと棒を入れたことなどないし、本当に部品の劣化によるものだったのかもしれないが、私がタンクの上の水が流れるところに、観葉植物の鉢を置いていたため、その一部が枯れ落ちて、知らぬ間にタンクに入り込んだ可能性を考えたのだ。それから程なくして異音がするようになったので、こんなにも短期間に同じトイレの不具合で来てもらうのも申し訳ないと思ったからだ。
 
でもそんなことは言っていられない。本当に結構な大きさの音がするので、夜だとそろそろ隣か下の住人に迷惑をかけるのではないかという心配の方が勝ってきた。毎日のこととはいえ、ずっと音が鳴り続けるわけではなく、ある日は午前中から、ある日は昼間、ある日は夕方と、鳴り始める時間もバラバラなら、鳴り終わる時間もバラバラなのだ。結果、
 
「見に来てください」
 
と、お願いしても、必ずしもその時間に異音がするとは限らない。大家さんは、ふだん別の仕事もされているので、音がしているタイミングでしか、その状況を説明できない異常事態を、どう伝えるべきかと悩んでいた。
 
そんな日曜日、いつもの異音がスタートした。
 
今日も始まったと思いつつ、
 
「ん、今日は日曜日じゃないか。ふだんお仕事をされている大家さんも、今日はいらっしゃるのでは?」
 
そう思いメールを打ち始めたが、はたと電話をすることにした。
 
つい先ほどまで近くを飛び回っていた蝿が、なぜか蝿たたきを持った瞬間に姿をくらまし、探すのを諦めて蝿たたきを置いた途端、また現れるという不思議現象を体験したことはあるだろうか?
 
私は電話をすることが苦手なので、できればメールで何事も済ませたい方だ。しかし、この蝿の不思議現象を思い出し、悠長にメールなどを送っている間に、いつもはこれでもかと長い時間音をたてているトイレが、大家さんが来たときに限って、何事もなかったように静まっている可能性もある、と思い直しなのだ。
 
大家さんに電話をかけると、幸いすぐに出てくださった。
 
「こんにちは。お休みの日に申し訳ありません。じつは、先日見てもらったトイレがすごい音をたててまして。しかもここ最近毎日なんですけど、その音がいつ始まって、いつ終わるか分からないので、今すぐに見に来て欲しいんですけど……」
 
「分かりました。すぐに伺います」
 
よかった。そう思って、待っていると、なんだかいつもより異音の大きさに力がないように感じた。おいおい、まさかのここで蝿の不思議現象か? 少し不安になっていると、本当にすぐに家を出てきてくれたらしく(歩いて3分もかからないところに大家さんの家はある)、チャイムが鳴った。
 
「こんにちは」
 
挨拶しながら気づいた。音鳴ってなくない? 私は平静を装いながら、
 
「鳴ったり、鳴らなかったりするので、少し待ってもらえますか?」
 
「そうですね。状況を再現してもらわないと、どうしようもないですもんね」
 
仕事の一環とはいえ、せっかくの日曜日に、電話1本ですぐに家を見に来いと呼び出された挙句、まさかの異常なしでは、申し訳なさすぎる。私だったら、休みにこんな呼び出し方されたら、ちょっとどころではない腹の立て方をしそうだ。祈るような気持ちで待っていると、
 
ゴオーッ、ゴオーッ、ゴオーッ。
 
息を吹き返したように、トイレが異音を発し始めた。時間にしたら数分から数十分だっただろうが、とてつもなく長い時間に感じられた。
「これです。この音が、ほぼ毎日、時間に関係なく鳴っているんです。鳴り始めて、どれくらい鳴るかも日によってまちまちで、最近は結構遅い時間になることもあって、ご近所迷惑かと思いまして……」
 
遠慮がちに、状況説明をしていると、
 
「あ、これはもうモーターの老朽化ですね。交換しないと無理ですよ。もっと早く言ってくださればよかったのに。先日も1階の部屋で、トイレのウォシュレットからお湯が漏れるという不具合があったばかりなんですよ。さすがに20年もたてば、こういうこともありますよ」
 
大家さんは、私の様子などお構いなしに笑いながらそう言うと、
 
「今から注文するので、しばらくの間ウォシュレット使えなくなりますけど、大丈夫ですか? 困りますよね? 音が鳴ってもよければ、そのままにしておくこともできますけど、かなりうるさいですし、どうされますか?」
 
今度は申し訳なさそうに、そう聞いてくださった。個人的には、ウォシュレットがなくても生活に支障はきたさないので、
 
「音がない方がいいです」
 
そう答えると
 
「じゃあ」
 
と、大家さんはウォシュレットのコンセントをその場で抜いた。
 
「しばらくご不便をおかけします。物が来たら、すぐに交換しますから。申し訳ありませんね」
 
そう言うと、大家さんは帰っていった。
 
コンセントを抜いたことで、すっかり静かになった部屋で、改めて思ったことがある。
 
「やっぱり大家さんなんだよな」
 
私は、仕事をするためにこの町に来て以来、ずっと同じマンションに住んでいる。今年で20年目だ。ずっと同じ仕事をしていて、大きなライフステージのイベントがなかったこともあるのだが、その間引っ越ししようと全く思わなかったわけではない。
 
20年前、部屋を探すときに、どうしても譲れない条件があった。それはキッチンが広いということだ。私は料理の先生をするため、当然家でも料理の勉強をしなければならないと思っていたし、そのためには、最低限度の自炊ができるレベルのキッチンではダメだったのだ。ところが、世の中の単身世帯向けの賃貸物件というものは、およそ私のニーズに沿うようには作られておらず、結構な物件を見回ったが、どれもキッチンの狭さで、私の条件に合わなかった。いっそのことファミリー世帯の物件か、キッチンについては一旦諦めて、後々探して引っ越すかと思っていたところ、
 
「3階のお部屋はまだできてないのですが、1階のお部屋なら見学できるみたいです。ご覧になりますか?」
 
どの物件を見ても、全く首を縦に振る気配のない私に、最後のあがきといわんばかりに、他の不動産屋さんの物件を紹介してくれた。それが今、私の住んでいるマンションだ。
 
部屋全体は決して広くはないが、とにかくキッチンがその日紹介されたものの中で、圧倒的に広かった。そしてそのあたりの当時としては珍しいオール電化のシステムキッチン。それが何であるかもよく分かっていなかったが、なかなかにハイテクなキッチンなのだなという感覚だった。内見に行き、実家よりも広く、充実したキッチン、収納もたくさんあり、そこで料理をする自分を想像して、ワクワクした。おまけに、これまたその当時、そのあたりの物件ではお目にかからなかったジェットバス付き! 「仕事始めたら疲れるだろうし、充実したお風呂タイムはいいかも」と、すっかり舞い上がり、予定していた金額よりもだいぶオーバーしてしまったそのマンションを、借りることにしたのだ。
 
ところが実際に住み始めて気づいたのだが、私はそれまでガスでしか料理をしたことがなく、職場もガスだったので、ガスほど細かく火加減のできない電気調理器での料理が、そこそこのストレスになった。その結果、細かい火の調整が必要ないものは電気で、火の調整が必要なものは、卓上コンロを使うようになった。さらに仕事を始めて間もなく、パン教室に通い始めたのだが、そこでパンを焼くのがガスオーブンだったため、パン作りにはまった私は、ガスオーブンが欲しくなったのだ。大家さんにガスをひく相談を持ち掛けてみたが、さすがにそれは無理だと言われた。当然だ。だが最近になってオール電化の部品に替えがきかないものがあり、ガスになった。
 
「お待たせしました。昔言われてましたもんね。ガスオーブンも使われますか?」
 
そう、20年近く前に、先代の大家さんに持ち掛けた相談を覚えてくださっていたのだ。
 
そして楽しみの1つだったジェットバスにも、忙しすぎて毎日寝落ちしてしまうため、朝起きてのシャワーが精一杯だったため、軽く1年以上使わなかったと思う。
 
周囲にその話をすると、
 
「引っ越せば」
 
と、必ず言われていた。それはそうだ。実は、ロケーション的にとても気になる物件があって、何年もその前を通って通勤していたので、空いたときに見に行ったことがある。キッチンの具合もよく、ベランダから見える景色は私の理想通りだった。おまけに、今住んでいるところより部屋数が多く、家賃もそんなに変わらなかった。でも、私は、今のマンションに住み続けることを選んだ。
 
なぜか?
 
それは先代の奥様、現在の大家さんのお母様によるところが大きい。家が近いこともあり、先代の大家さんが亡くなるまでは、毎月の家賃を、直接お家に支払いに行っていた。そのときにいつも対応してくれるのがお母様で、必ず住み心地や、困ったことがないかを尋ねてくれた。
 
また、毎日の帰りが遅く、仕事が終わらずに休みの日にも学校に行っていることが多かったため、家賃の支払いが遅くなることもあったのだが、
 
「散歩に出たとき、いつも車がないでしょう。休みの日だってないじゃない。どこかに遊びに行っているとかならいいんだけど。仕事だったらと思うと心配よ。ちゃんと休めてるの?」
 
と、気遣ってくださったり、何かの用事で電話をした際、車があるにも関わらず、私が出なかったときには、何かあったのではと、部屋まで駆けつけてくださったこともあった。あるときは、
 
「漬物食べるね。たくさん漬けたけん、持っていかんね」
 
と渡されることもあれば、私が帰省や旅行先で買ったお土産を渡すこともあった。
 
この町に親戚も友人もいなかった私にとって、ちょうど祖父母と同じくらいの大家さんご夫婦の面倒見のよさは、本当にありがたかった。家賃振り込みにしてもいいよと言われても、お母様と話したいがために、お願いして直接支払いを続けたほどだ。そのおしゃべりも年数を重ねるほどに長くなり、1時間近く話していることもあった。
 
掃除好きのお母さまは、昔からずっと、週に最低でも1度以上、マンションの共用部の掃除に来てくださっている。朝出かけるときには、マンション入り口の電灯の下に山のようにあった虫の死骸が片付けられていたり、入り口のドア、階段の手すりだけでなく、階段そのものまできれいに水拭きがなされているのだ。帰ってきて、マンションの入り口を開けた瞬間に分かる。今日来られたのだなと。それくらいきれいになっているのだ。疲れて帰ってきたときに、この状態を見ると心が洗われるような気持ちになる。なぜなら、今やお母さまは80歳をこえられてなお、私たちの住むマンションに少しでも心地よく住んで欲しいとその掃除を続けてくださっているのだ。
 
私が前述した賃貸に引っ越さなかったのは、それが理由だった。部屋は確かによかったが、共用部が決してきれいとは言えなかったのだ。大学のときの学生向けアパートと今のところにしか住んだことはないが、管理費のない賃貸で、こんなに頻繁に手入れをされているところはないのではないかと思う。うちのマンションには奥様の愛が溢れているのだ。
 
今となっては、設備も決して新しいものとは言えないし、同じ家賃を出せばもっといい部屋にも住める。私の家の様子と家賃を知った人には必ず言われる。
 
「引っ越したらいいのに」
 
正直20年も住めば荷物も増えるし、手狭になっているのも確かだ。でも、このお母さまとのエピソードを話すと、
 
「それは確かに考えるね」
 
と言われる。
 
もはや家族のようになった大家さんご家族。息子さんの代になり、お父さん譲りの器用さで、困ったことがあれば、すぐにかけつけ、たいていのことは解決してくれる。無理なときには、それなりの対処もしてくれる。とても安心して住める場所で、もはや実家よりも長い時間を過ごしている。
 
仕事を辞めた今、ここに居続ける必要もなくなった。でも私は住んでいる。この町に住んでいる限り、ここ以外に住もうとはやっぱり思わない。そのうち何かの事情で町を離れるときも来るだろう。でももし戻ってきたら、絶対にこの大家さんから部屋を借りたい。
 
ちょっと不便でも、やっぱりそこに人の愛が介在されたところにいたいなあと思うのだ。
 
お母様、大家さん、いつもありがとうございます。
 
 
 
 
***
 
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2021-09-01 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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