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小説「すみれ」

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*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:吉田けい(ライティング・ゼミ 超通信コース)
 
 
その日、ついに事件は起きた。
すみれが髪を猿のようなベリーショートに刈り上げてきたのだ。
 
すみれの髪はカラスの濡れ羽色という古式ゆかしい言葉がぴったりな、艶やかで滑らかで真っ直ぐな髪だった。ハリのある絹糸のような髪が、彼女の形の良い頭から肩、腰のあたりまで緩やかに落ちかかり、日の光の下では光の帯が浮かび上がる。風が吹けば軽やかに乱れ、何事もなかったようにさらりと背中に戻る。その様をすみれの少し後ろから眺めながら歩くのが好きだった。クロッキー帳に鉛筆を走らせ、至高の髪をどうにか再現できないかと苦心するのが好きだった。
 
すみれは高校で同じクラスではなかったが、選択授業の音楽で一緒に授業を受けていた。音楽のクラスではすみれよりも美人な子もスタイルが良い子もいたけれど、すみれほど髪が綺麗な子はいなかった。内気で友達に埋もれているような子なのに、課題曲を歌う番がくると、凛と背を伸ばし、水晶が煌めくような声で歌った。
 
「音大の声楽科志望なんだって」
「上手すぎるよね」
 
古ぼけたグランドピアノの横に立ったすみれは、咲き初めた白いスミレの花のように思えた。
 
すみれは自分のクラスの菜々と仲が良いようだった。菜々は私の幼馴染で、運動部なのに歌がとても上手かった。クラスの親睦会で菜々の歌を聞いたすみれは感銘を受け、それ以来の仲なのだという。私は菜々と話すうちにすみれとも話すようになった。すみれはあの軽やかな声で、実に無邪気に笑い声をあげる。そうすると髪が揺れて、放課後のセピア色の陽光がさらさらと輝く。
 
「これ、私?」
 
放課後の教室で幼馴染たちの他愛もない話の隅で鉛筆を走らせていた私は、すみれに声をかけられて息が詰まった。反射的にクロッキー帳を閉じようとするが、すみれの目線はまさにその上に注がれている、もう遅い。紙の上のすみれは音楽の授業で課題曲を歌っていて、でもあの声は聞こえてこない、髪の艶やかさが足りていない。すみれ本人が己の劣化した姿を見ている、胃が縮こまるとはこのことか。
 
「すごい上手、写真みたい」
「え……」
 
すみれは、スミレの花がほころぶように笑った。何度もすみれを見てきたはずなのに、その笑顔を初めて見たような気がした。ノートを見せてというのでクロッキー帳を渡す。セピア色の教室の中心に私のクロッキー帳が置かれ、幼馴染たちの歓声が賑やかにこぼれ出た。すみれの絵ばっかり! 分かる、すみれは書きたくなるよ。そう? ほんとサラサラで羨ましい。歌ってる時とか堂々としててカッコいいし。
 
「知香ちゃん、綺麗に描いてくれてありがと」
 
皆の言葉が心臓の鼓動を加速させ、すみれの声すらもどこか遠くから聞こえてくるようだった。私はぎこちない笑みを浮かべて、クロッキー帳を取り返すべく手を差し伸べるが、すみれは瞳をきらりと輝かせ、クロッキー帳を脇に抱えてしまった。いけない、それじゃセーラー服が汚れてしまうよ。
 
「ねえ、知香ちゃんはさ、現実じゃないものも描ける?」
「……現実じゃないものって?」
 
声を弾ませて、頬を赤く染めて、そんな風に私を見ないで。
 
「この人にこういう服を着せるとか、芸能人と友達を並べるとか、そういう想像の絵も描ける?」
 
汚れてしまうよ、綺麗なすみれが。
 
「……資料をくれれば、描けるよ」
「ほんと!」
 
私がそれまで見たどのすみれよりも嬉しそうに、すみれは両手を叩いた。クロッキー帳を私に返し、自分の鞄の中から紙束をいくつか出してきた。声楽科のレッスンでオペラ歌曲などを歌うために役の気持ちを理解しろと先生に指導されているが、DVDや本ではピンと来ないそうだ。
 
「私がその役になってる絵を知香ちゃんが描いてくれたら、うまく歌えるようになるかなって……」
 
役の資料は私が探すから。お願い知香ちゃん。人に物を頼む時、大抵の人は申し訳なさそうだったり、高圧的だったり、下心を隠そうと過剰に下手になったりするものだと思っていたけれど、すみれは違った。真っ直ぐだ。ただただ真っ直ぐ、雑多なものを棒で押しのけるようにじっと相手の目を見る。頼む頼まれるに上下はない、けれどどうかお願い。そんな言葉を耳元で囁かれているような気になる。私が返答するよりも前に、幼馴染たちが、菜々が、素敵、すごいと盛り上がってしまった。これじゃ逃げられない。声を出せずに頷いた私を見て、すみれも他のみんなも甲高い声を上げた。
 
「ありがとう!」
 
この笑顔、スケッチに写しとれるかな。少なくとも倍速の心臓が平常運転に戻るまでは、とても無理そうだった。
 
* * *
 
想像のスケッチは難しいけれどやり甲斐があった。衣装はすみれが用意してくれた資料を模写すればいい、肝心なのは想像上のすみれをよりすみれらしくすることだ。すみれらしさ、それは宝物のような髪と声、それからあの真っ直ぐな眼差しと笑顔。それでいて、傲慢な女王や恋に震える乙女、色々な役らしさも乗せていく。役になりきっているすみれらしい表情、姿勢、仕草。
 
「こんな感じ?」
 
すみれは私が頼めば絵のモデルをしてくれた。もう少し寂しそうな感じ。ゆっくり振り返ってみて。私の言葉に合わせてすみれがくるくると変わっていき、私が持つ鉛筆の先が震えている。気付かれないように歯を食い縛らないと、線の一本も描けそうになかった。描いているフリをして、目に焼き付けて、家で描き直すこともよくあった。出来上がったスケッチを渡すと、すみれはまた花火が爆ぜるように喜ぶのだった。
 
「ねえ菜々、これ椿姫の私だって」
「すごい、知香めちゃくちゃ上手だね」
「この歌はね、椿姫が……」
 
すみれは、スケッチを渡すといつも大切そうに掲げながらみんなに、菜々に見せた。歌曲のあらすじや場面を説明して、菜々が頷くと頬を赤らめて笑う。乞われればスケッチを胸に抱いて歌曲の一節を歌ってみせる。すみれの歌声は放課後のつまらない教室を特別なステージに変え、すみれは今この瞬間の女王様になる。私達は歌のご褒美を与えられたい家臣、あの歌声を聴ける歓びに勝るものはない。けれど一人だけ家臣にはならず、女王に傅かない奴がいる──
 
菜々!
 
すみれが見せる私のスケッチを見て自信たっぷりに微笑む私の幼馴染。運動が得意で勉強も出来て、でも歌も得意で、一緒にカラオケに行くといつも盛り上がった菜々。私と菜々は格別仲が良かったわけでもない、同じクラスで同じグループだったことがあるだけだ。小動物のような可愛い系の顔で、運動部だからすらりとした体つきで、すみれと並ぶと頭ひとつ分の身長差がある菜々、その菜々をすみれはいつも目をキラキラさせて見上げている。それは尊敬する師のように、信頼しあう姉妹のように、愛を確かめる恋人のように、熱っぽくて、潤んでいて──バキンと鉛筆の先が折れた。描いていたすみれの目元に醜い汚れがついてしまい、消しゴムで消す。
 
「……すみれ……」
 
深夜の自室に、私の独り言がぽつんと落ちた。私とすみれは友達で、すみれと菜々も友達で、菜々は歌がうまいからすみれに慕われている。だからすみれはよく菜々に話しかける、笑いかける。それだけだ。すみれは私の絵を見ていつも飛び上がって喜んでくれる。その最初の笑顔を見るのはいつだって私だ、菜々じゃない。菜々にはすみれのこんな絵は描けない。あの髪が流れて煌めく様を紙の上に写しとれるのは私しかいない。
 
「……絵を見せてる時なら、こうかな……」
 
クロッキー帳に、私とすみれが並んだラフを描いてみる。私はどんな顔だったっけ。白々しい電気に照らされて鏡を覗いてみると、骨張って大嫌いな顔がこちらを見返していた。だめだ、こんな顔がすみれの隣に並んでいいはずがない。……菜々だってそうだ。可愛い部類ではあるけど平凡だし、すみれの前では誰だって霞んでしまう。すみれは誰のものでもない、一人で真っ直ぐで綺麗だからすみれなんだ。
 
「菜々ちゃん、これ歌ってみて」
 
すみれは楽譜を持ってくるようになり、菜々に歌をせがんだ。デュエットばかりで、すみれが女役、菜々が男役を歌う。女王様は菜々を引き上げて自分のステージに載せてしまった。すみれは菜々にぴったりと寄り添い、幸せそうに歌い上げてはしゃいでいた。菜々の歌はうまい、かつては私も菜々の歌が好きだった。でも今は菜々の歌は聞きたくない。それでもすみれの一挙手一投足を見逃すわけにはいかない。次のスケッチを描くために、すみれの全てをこの目に焼きつけておかなくては。でもそのせいで、菜々が視界に入る。
 
「知香ちゃん、次の絵なんだけどね……」
 
みんなで寄り道した帰りの駅で、すみれは資料を出してきた。いつもの真っ直ぐな眼差しではなく、何か言いにくそうな、照れくさそうな様子に、私の背中の皮膚が粟立つ。
 
「これなんだけど……」
 
すみれが見せたのは、中世風の出立ちの男女が抱き合う様子の写真を印刷したものだ。説明を受ける前に直感がそうだと告げて、胃酸が込み上げてくる。
 
「ロミオとジュリエットをね……その」
 
世界で一番有名な悲恋の物語。
 
「私と、菜々ちゃんで、描いてみてほしいんだ」
 
心臓がギリと軋んだような気がする。すみれの横に、菜々を立たせて描く? 立たせて? 菜々を? すみれの恋人として? 思考が回って正気でいられない、でもそれを顔に出してはいけない。すみれは私の友達、菜々は私の友達、菜々とすみれも友達。友達と友達を描く、なんの問題もない。
 
頷け、私、頷け。
そうしたら、すみれはまた最初に微笑んでくれる。
 
「……すごく素敵だね」
 
自分の声のはずなのに、夜の沼から聞こえてくるようだった。
 
* * *
 
気恥ずかしいのですみれと私だけでまず仕上がりを見てほしいと頼むと、すみれは快く了承した。放課後のいつもの教室ではなく、私のクラスまですみれは出向いてきた。誰もいない教室は夕陽が差し込んで蒸し暑く、夏服のセーラー服がセピア色に染まる。その背に揺れるすみれの長い髪、きらきらと流れ星が幾筋も尾を引いているみたい。綺麗だなあ、すみれはいつだって綺麗。涙が溢れそうになるのを誤魔化して、私は持ってきた紙をすみれに渡した。この作品を最初に見るのはすみれ。すみれが最初に笑顔をくれるのは私。すみれが私が渡した紙を開く、手がじとりと湿る。
 
「……え……」
 
すみれは笑わなかった。
 
「……知香ちゃん……?」
 
分かっていた、すみれはこの絵を見て笑ってくれないと。これはすみれが無邪気に思い描いていたようなロミオとジュリエットではないのだから。
 
「この顔……知香ちゃん……だ、よね?」
 
叶わぬ恋とは知らずに微笑むジュリエットに扮したすみれ。煌めく髪も恋する瞳もよく描けた、恋するすみれを死に物狂いで私が描いた。横に立ち、すみれの髪の間に手を差し入れて肩に手を置いているロミオは、身体は男、その顔は──墨汁でぐしゃぐしゃに塗り潰したのに、その下にあるのが私の顔だとどうしてすみれは分かるんだろう、分かってくれるんだろう。
 
「……描けなかったの。空想でもすみれの横に恋人なんて。すみれの綺麗な髪を誰かが触ってるところなんて、私、描けなかった」
 
そんなに汚い私を見ないで。汚くて、泣いてしゃくりあげている私なんか、すみれの瞳に映さないで。
 
「菜々もダメ、菜々を描くなんて出来ない。歌は菜々とすみれのものでしょ、それなら絵は私とすみれのもの、私とすみれだけ。そこに菜々なんか入れないで」
「知香ちゃん……」
「でも、でもね、私でもダメだった、絵の中だけでもすみれの横に立ちたかったけどダメだった。すみれが汚れちゃう、ダメだったの、すみれ、ごめんね、すみれ」
 
気持ち悪いって言って、早くここから逃げていってよ、すみれ。
 
「お願い、すみれ、誰のものにもならないで」
 
でないと私、すみれの中に閉じ込められてしまう。
 
「誰にもその髪を触らせないで。すみれは綺麗なままでいて……」
 
私はすみれに──すみれが持つ禍々しい紙に手を伸ばしたが、すみれは私にそれを渡さなかった。歌を歌う直前のように、凛とした眼差しで私を射竦める。
 
窓から吹くぬるい風が、すみれの髪をさらって煌めかせる。
なんて綺麗なんだろう、なんて美しいんだろう。
 
「分かったよ、知香ちゃん」
 
すみれは自分の髪に指を差し入れて絡ませると、スミレの花が揺れるように微笑んだ。
 
 
 
 
***
 
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2021-11-03 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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