メディアグランプリ

アイロンと涙

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記事:いのくち聖子(ライティング・ライブ福岡会場)
 
 
何故だろう、涙がほろほろと止まらなくなった。
いろんな思い出が蘇ってきて、ただ哀しかった。
泣きながらアイロンをかけていた。
 
私が知らない間に亡くなっていたからか。
家族葬で誰にも知らせていないと聞いたからか。
わからないが泣けてきたのだ。
 
亡くなったのは、10年近く前に辞めた不動産会社の社長だ。
不動産会社といっても社長と奥さんと私の3人だけだ。
派遣社員として8年ほど働いた。
業務は嘘のように簡単な経理だった、地主さんだったので、いくつかの持ちビルの地代を管理するだけだった。
いわゆる不動産業務は一切無くて、こんな仕事でお金がもらえるなんて!
派遣社員も長くやっていたが、一番楽勝な仕事だったと思う。
 
3人の小さな会社だけど、福岡市内の地主さんだから大金持ちだ。
動く金額が大きい、銀行に行く時もドキドキしたものだ。
桁を間違ったら大ごとだから、何度も何度も伝票を見直したものだ。
 
社長は紳士的で頭が良くて、どちらかと言うと寡黙な方で、大事な事をわかりやすく話してくれる人だった。
そして社長ご夫妻には子供がいなかったからか娘のようにとても可愛がってくださった。
 
週に1回はランチや時には夜ご飯をご馳走してくれた、それも豪華なものだ。
カウンターだけのお鮨屋さん、高級天ぷら屋さん、香箱ガニも初めて食した、あの卵と蟹味噌の美味しさといったら絶品で今でも忘れられない。
クエ鍋にフグにステーキにと、どんだけ〜っ! と言うくらい太っ腹な社長だった。 奥さんがお酒を飲まなかったので、その分私がご相伴にあずかり社長も飲みやすかったのだろう。
「美味しいものにはお酒がないとな」と社長の口癖だった。
私にとってはバブル再来だ、いやバブルの時よりバブルだ!
そうそう、社員はもう一人いた。
何にも専務のセーラちゃん、シーズーのワンコだ。
私も犬好きだから嬉しかった、暇なのでよくセーラと散歩もした。
昼休みに社長夫婦が出かけると、私のそばに来て「ワンッ」と吠える。
もう可愛くて仕方ない、私のお弁当のご飯が欲しいのだ。
何しろいつもご馳走になっているのでご飯くらい分けてあげなくては!
多めに持参してセーラと昼ご飯の日もあった。
 
私の仕事はほぼ無いので、8年間出勤するとブログを書いていた。
ご馳走になったお店の紹介や社長の事やセーラも登場する。
友人からは天国みたいな職場よね、とよく言われていた。
 
それに事務所は年に何回か社長の高校時代の友人たちが集まり同窓会やお花見会に忘年会の打ち合わせをする場所だった。
気の良いおじちゃん達でワイワイ飲みながら、事務局さながらで私も雑用を手伝っていた。
とにかくみんな楽しそうで、同級生っていくつになっても良いもんだなぁとつくづく思った。
 
まぁそんな事があったにしても暇だった。
10時から17時までの勤務、ブログの更新もそんなに時間はかからない。
暇だ、暇過ぎてネットサーフィンも飽きてきた。
何だか申し訳なくて、一度社長に聞いた事がある。
「社長、仕事が無いのに私は良いんですか」
「仕事ってのはだね、ここぞって時にしっかりやってくれれば良いんだよ、
暇な時間は適当に過ごしてて良いんだからね」
ハァ〜そんなもんですか? 私以上に昭和な社長からそんな言葉が出るとは驚きだった。 それから、お金の仕組みや社会の話など知らない世界の事をよく聞かせてくれた。 あんまり興味は無かったが、大金持ちはそんな事を考えているんだとふむふむと感心して聞いていた。
 
そんな天国のような会社を退職した。
何にも専務のセーラが亡くなったのも一つの理由だったし、姑の介護も忙しくなって、やりたいことも増えてきて、辞めることにしたのだ。
 
辞めた後、数年経って社長の認知症が少しづつ始まり施設に入られて、10年の間にすっかり社長は変わってしまった。
年老いてしまったのだ、無理もない誰もが通る道だ。
 
それなのに辞めてから、ほとんど社長ご夫妻に会っていない。
施設に入ったという話を聞いて、訪ねてみようと何度となく思ったが行かなかった。 あんなにお世話になっていながら行かなかった。
そうこうしているうちにコロナだ、今度は行きたくても行けないのだ。
そして今年80歳で亡くなっていた、9月に。
 
11月に私と交替で勤務していたMさんに聞いた。
奥さんが家族葬を望み、誰にも知らせて欲しく無いと言ったから言えなかったのだと。
ショックだった。
彼女も言わないことを心苦しく思っていただろう。
それはよくわかる、そんな気遣いができる人だから。
でもショックだった。
 
私が会いに行かなかった事を詫び、感謝していた気持ちを御霊前に手を合わせて伝えたかったという自己満足が出来なかったからか。
亡くなって手を合わせたからってそれが何だって言うのだろうか、生きている時に伝えなければ何にもならないのに。
 
不精で薄情な自分を心から恥じて、哀しくて辛くて申し訳なくて泣けてくる。
アイロンをかけながら私の顔はシワクチャだ。
Mさんが言った。
「私の事をいのくちさんって呼ぶときがあったんだよ」
認知症のせいだろうが、まだ私の事を覚えていてくれたのか。
また涙が溢れて止まらなくなる。
なんて私ってヤツはバカものなんだ!
もう遅すぎるけど、墓前に社長が大好きなウィスキーをお供えしよう。
そしてたくさんの感謝の気持ちを伝えよう。
これからは、後悔のないように感謝の気持ちは早く伝えようと思う。
 
 
 
 
***
 
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2022-12-07 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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