メディアグランプリ

忘れるという生存戦略


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記事:友成彩千帆(ライティング・ゼミ2月コース)
 
 
また花粉の季節がやってきた。私は幼稚園生の頃から花粉の時期は顔がむくみ目は腫れるほどの重度の花粉症持ちである。3月からの2ヶ月間は常に鼻が詰まっているので呼吸が浅くなるのか、だんだん頭痛も出てきてぼーっとすることも増える。花粉が触れるありとあらゆるところが痒くなり肌は荒れ、イライラして気持ちも荒れる。気持ち良い春の訪れが、みたいなことをニュースで聞くたびにどこが気持ち良いんだよ! と腹を立てるくらいだった。
 
数年前から舌下治療というのを耳にするようになった。舌の下にスギ花粉由来の薬を置いてしばらく待つというとても簡単そうな治療で、効果は抜群だとのことだ。初めて聞いたとき絶対にやるぞと思った。しかし舌下治療は花粉のシーズンはできないらしい。花粉が飛んでいない時期に始めなければならない。知ったのがちょうど花粉の時期だったので終わったら病院に行こうと思って、そのまま次の花粉のシーズンがきてしまった。私は「喉元すぎれば熱さ忘れる」の見本みたいな人間だった。花粉症の症状がなくなると頭から花粉症に関わることがすっぽり抜けてしまうようで、舌下治療をしていないままに今年も春が来てしまう。すでに鼻水と喉の痒みで体調は最悪だが、市販薬でどうにかするしかない。唯一幸いなことは、年々なぜか花粉症の症状が軽くなっていることである。何が原因で軽くなっているのか本当に謎なのだが、忘れやすくなっていくから余計に舌下治療への道は遠のくばかりである。
 
しかし忘れることは生存戦略なのだと思う。絶対に忘れないと思った痛みを私は数ヶ月経たずに忘れてしまった。人生で一番痛かった記憶だったのに。そして喉元をすぎていったあの熱さをまた繰り返そうとしている。
 
一年ほど前、第一子を出産した。できれば麻酔を使って分娩したかったが、選択できない産院だったため普通分娩になった。出産の痛みはどんなものかと言われたら、腰の上をダンプカーが行ったり来たりしているような、ハンマーで絶えず腰を殴られているような痛みである。赤ちゃんの大きさと出口の大きさ次第では、会陰切開と言って股をハサミでジョキンと切る場合もある。タイミングによっては裂けてしまう人もいる。裂けるという言葉がとても怖ろしい。帝王切開で産む人もいるが大手術である。赤ちゃんを出す穴をお腹に開けるのだ。傷痕は4センチ〜10センチにもなる。術中はいくら麻酔が効いていたとしてもその傷跡を治すのにどれだけ痛くて時間がかかるか。産んだ後も後陣痛という内臓を引き絞られるような痛みがあって、しばらくはこれと付き合っていかなければならない。10ヶ月近くかけて大きく膨らんだ子宮が急激に元の大きさに戻る為だ。出産という出来事はとにかく怒涛のように痛みが押し寄せる。
 
普通分娩で出産した私は、途中で一旦休憩させて! と何度も叫んだ。休憩はもちろんできなかった。助産師さんに優しく、頑張ってと応援してもらった。助産師さんというのは本当に偉大で、そばについて腰をさすってくれたり痛みをまぎらわせるツボを押してくれたり、とにかくずっと支えてくれる。もちろん別の仕事があるから部屋から出ていってしまうこともあるのだが、その時は本当に心細くて心細くて、大の大人が行かないでと必死にお願いするくらいだった。コロナ禍で立ち会い出産ができなかったので、とにかく助産師さんが心の支えだった。夫とはテレビ通話を繋ぐ約束をしていたのだけれど、そんな余裕はなかった。気を紛らわすために持ってきたいい香りのクリームは使われることなく、リラックスのための音楽は自分の叫びにかき消され、水分補給で用意した2リットルのペットボトルは握り潰されぐちゃぐちゃになった。赤ちゃんが出てきてすぐ撮ってもらった写真は、汗だくで髪も服も乱れていてひどい有り様だった。産まれた後に切開した股を縫ってもらうのだがこれがまためちゃくちゃ痛かった。この時は麻酔を使ってもらえたけれど、麻酔の場所と縫う場所が違う気がして縫われるたびにしっかり針を感じた。産後も痛みと付き合い続け、ようやく痛みから解放されたと思えたのは産後6ヶ月経った頃だった。
 
これだけ痛かった記憶だけど、痛みは痛みのまま再現することはできない。喉元すぎてしまったからもう忘れているのだ。出産後すぐはもう二度とあんな痛み乗り越えられないと思ったけれど、今ではもう一度経験するとしたら無痛を選択できなくても仕方ないかなと思う程度に忘れてしまった。忘れるからこそ、生きていけるのだと思う。世の中の母親が痛みを全て覚えていて思い出せたとしたら、第二子以降産もうと思える人は相当少ないと思う。
 
忘れることは生存戦略なのだ。だから舌下治療をやらずに生涯を終えたとしてもしょうがないと思おう。
 
 
 
 
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2023-03-09 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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