幸運との偶然の出会いには、名前があるらしい
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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:くろねこ(ライティング・ゼミ4月コース)
「鍵を忘れたから、早く帰ってきてほしい」
3月も最終日を迎えた金曜日、翌月曜日から入社する新人の受け入れ準備に向けて残業をしていた最中に、同居人からメッセージが届いた。もうちょっと進めたかったな、と思いながら仕事を切り上げて自宅に向かう。
彼は自宅に鍵を閉じ込めたまま、出掛けてしまうことがたまにある。
そして大抵の場合、自宅を探せばぽつんと置かれた鍵を発見する。
もしくは、その日持ち歩いていた鞄の奥底から発掘される。
それが今回は違った。
見つからないのだ。部屋中を探しても、昨日着ていた洋服のポケットの中にも見当たらない。
彼が帰ってきてから鞄をひっくり返しても、やっぱり見つからない。
無くしたかも、という疑惑が確信に変わっていく中で、地下鉄の中で落とした可能性が高いことがわかってきた。調べてみると「お忘れ物総合取扱所」は飯田橋にあるらしい。
本日の営業時間はすでに終了していたが、明日彼は仕事が入っていた。
私も明日の土曜日中に仕上げたい仕事があるし、息抜きにいつも行くカフェのふわふわのパンケーキを食べようと思っていたし、夜はライティング・ゼミの第1講だし、という予定から息抜きの「パンケーキ」を諦め、仕方なく鍵を探しに行く旅を選択した。面倒くさいなぁ、という気持ちは閉じ込めた。
翌日電車に揺られる中で、見つからなかったら鍵交換かな、東京メトロの落とし物なんてそりゃあ大量にあるだろうし、冷たくあしらわれるかもしれないよね……という勝手な妄想が頭をよぎり、気持ちが暗くなってくる。
飯田橋の駅に着き、嫌な妄想と気持ちを抱えながら「お忘れ物総合取扱所」の銀色の取手を掴み、ずっしりとした重みを感じながら扉を開く。恐る恐る中に入ると、すぐさま係の人に話しかけてくれた。
「お引取りですか? お探しですか?」想像に反して穏やかな口調だ。
少し緊張しながら鍵を落としたかもしれないこと、乗っていた電車の時刻を伝えると、パソコンを操作しながら、さらに詳細な情報を聞かれる。会話のやり取りもとても丁寧だ。
次の瞬間「ありましたよ!」と嬉しそうに教えてくれた。ホッとした気持ちでお礼を告げると、まるで恵比寿さまのような笑みを浮かべながら、うんうんと頷いている。
誰か親切な人が拾ってくれて、届けてくれたのだろう。心の中で感謝しつつ、受け取りの書類に記入している最中にも、次の落とし主が入ってくる。その方の落とし物も見つかったようで、明るい声でやり取りしている。改めてお礼を伝えつつ、鍵を受け取ってその場を去り、扉をぐいっと押すと拍子抜けするくらい軽く感じる。
その勢いのまま地上に上がると、駅前は人で溢れかえっていた。
そうか、今日は4月1日。新たな門出に立つ人たちのソワソワとした空気を感じる。
その周りを桜の花びらが舞っている。しかも気温は23度、コートのいらない晴天の昼下がり。
楽しそうな人の波に乗って、神田川沿いの桜並木を歩いてみることにした。
今日入学したばかりであろう自己紹介をしあう大学生、入社式の話で盛り上がる新社会人、そしてベビーカーに赤ちゃんを乗せた家族連れやカップルが桜を背景に写真を撮っている。
淡いピンク色の満開の桜の足元には、鮮やかな黄色の菜の花が咲き、木々の緑も添えられている。
春の暖かな日差しの中で、頭をからっぽにして歩くと、気持ちがゆったりしてくる。
温泉につかりながら手足を伸ばすと体の緊張がほぐれていく、あの感じだ。
テイクアウトしたいつもの紅茶も、一段と美味しく感じるから不思議だ。
ふと、気持ちも体も軽くなっていることに気がつく。
来週、うちの会社に入社してくる人たちのことが頭に浮かんだ。
毎月のように新しい人を受け入れている側からすると、入社日も日常になってしまうが、道行く新人さん達の顔を見ていると、どんな顔で初日を終えてほしいかな、そのために私ができることはなんだろう、という気持ちになってくる。
思いがけず幸運に巡り会えることを「セレンディピティ」と言うらしい。
「セレンディピティ」が発揮された有名なエピソードとしては、抗生物質ペニシリンの発見がある。
ペニシリンは失敗した実験をきっかけに発見されたのだ。
幸運につながるきっかけは、いつもと違う「行動」すること、そして「観察」することが重要らしい。
思えば行きは地下鉄を降りるまで、私はずっとスマホ画面を見つめていた。
そもそも最近の私は、いつもどおりを繰り返し、視野が狭くなっていたかもしれない。
鍵を落とした、というマイナスに感じた出来事が、鍵をひろってくれた人、駅の落とし物の係の人の優しさに触れられ、今しか見られない春の景色の中でとても気持ちの良い散歩で気分転換もできた。
面倒な日が、また明日もいつもと少し違うことをしてみてもいいかもしれない。そんな前向きな気持ちが湧いてきた日にかわった。
***
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