「家には、いれない!」が「家に、居れない」になるまで
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記事:コスモス(ライティング・ゼミ4月コース)
和夫は足を引きずりながら歩行器で坂道をのぼる。なに、大した坂ではない。水はけを考えて道路の高低差が緩いスロープになっているだけだ。左足を動かそうとしても意思の力では持ち上がらない。あいにく雨までふりだした。迎えに来るはずの妻は家に帰っているとのことだった。俺を待たせておいてけしからんと怒りがこみあげてくる。
さっき契約を済ませたばかりの新しいスマホにメッセージを書き込む。妻の節子に思い知らせてやるという意気込みでにわかに強くなりだした雨に打たれて、体は冷たくなるが頭は熱くなるばかりだ。信号を渡ってから、タクシー会社の塀に歩行器ごと体をあずけて「二度と帰ってくるな、家には入れない」と指を滑らせた。
節子は妻なのだから、夫の面倒を看て当然だという思い込みが和夫の頭の中にある。節子の介助がなければ、日常のこまごましたことができない。それはわかっている。足が動かないのだから、痛むのだから、少しでも動ける方、つまり妻の節子が代わりにやるべきなのだ。
昨日、突然、スマホの液晶画面が暗くなって反応しなくなった。スマホを買い換えなければならない。今日は日曜日、節子に介助させて新しい機種を買いに行こう。そう思って、帰宅したばかりの節子に明日の予定は何かあるかと聞いた。節子は、午前中なら空いていると言う。それなのに、今日、俺は待ちぼうけを食った。
朝、スマホショップまで節子のタクシーアプリを使って行った。そこまでは良かったが、俺がスマホの契約を済ませ、節子が買い物をして介助に戻ってくるのを待っていた。ところが節子が来ない。昼過ぎになって俺の新しいスマホが鳴った。節子はどこにいるかと尋ね、しかも、これから出かけると言うではないか。「もういい、二度と帰ってくるな」と怒鳴ってしまった。
仕方なく、スマホショップを出ると、すぐに空模様が怪しくなり、雨粒がどんどん大きくなった。傘も差せないまま、歩いているというわけだ。
節子は今まで俺よりずっと稼いできた。多分、これからもそうだ。俺は動けないのだ。それがどうだと言うんだ。
俺は耳も悪い。職場で耳を強く打ったことがある。退職した今、右耳が聞こえなくても不自由はない。節子の言ったことが聞き取れないことがある。それは俺のせいではない。伝えたいことを正確に言わない節子が悪いのだ。
節子は、和夫を自分勝手でわがままだと決め込んでいる。正確に物事をみようとしない和夫を若気の至りで受け入れてしまった結果だ、仕方ないと諦めている。
昨日、伝えてあったはずだ。今日は午後には用事があると。午前中に済むのならばという条件で携帯買い替えのための付き添いという急な用事も引き受けたはずだ。
「二度と帰ってくるな、家には入れない」
節子には納得できない和夫の暴言である。もともとこの家のローンは節子が払ったようなものなのだ。和夫に収入がない時でも公務員の節子が黙ってローンの支払いをし、築20年になったときのリフォーム代も費用を出したのは節子だからだ。和夫の言い分は筋が通らないではないか。
節子と和夫は法的には夫婦だ。しかも、そろそろ一緒に暮らし始めて半世紀にもなろうとしている。
話がかみ合わないのはいつものことだ。耳の悪い和夫は妻の節子の話を正確に聞き取ろうとしない。節子はおしゃべりではない。和夫は節子に話しかけてもらいたがる。歩行器を使っても外出するなど億劫でならない。結果、他人との交流が限られてしまう。寂しいのだ。
和夫の言い分は節子には通らない。節子は家事一切と和夫の身の回りの世話をしている。仕事もある。趣味もあり健康のためにスポーツジムにも通っている。和夫の横に座ってTVを見ながらおしゃべりする時間などないのだ。
雨に濡れながら足が動かなくなる前は10分ともかからないで帰れた家までの道のりを、「二度と帰ってくるな、家には入れない」と頭の中で繰り返しながら歩行器を使って歩く。もう40分ほど経っている。禿げ頭に黒白千鳥模様のハンチングをのせている。お気に入りのハンチングキャップから水滴が垂れ和夫の鷲鼻に滴る。それも癪の種だ。
すべて節子のせいだ。節子が、用があるとは言ったのは覚えている。ただ、家まで帰る道中も付き添う義務が妻の節子にはあるはずだ。だから、俺はスマホショップの椅子に掛けて待っていたのだ。今しがた手に入れた新しいスマホで連絡したらいいのにと、多分、節子は言うだろう。気遣いをするのは妻の役目だろうと和夫は思う。
節子は出かける準備をしながら帰って来ない夫に電話を掛けた。
繋がるのに、電話に出ようとしない。
しかも、「二度と帰ってくるな、家には、いれない」との文字が現れた。
その晩、和夫はスマホのディスプレーをいじりながら、タクシーアプリがうまく入ったと節子に自慢そうに話しかけた。
和夫は、足以外は健康である。炭酸でわった焼酎の泡を眺めながら、「梅干しが切れてるぞ、買っておいてくれ」。
介護がいつ終わるか、どのような形で終わるか、見当がつかない。ただ、家に居たくてもいられなくなる、いつかその時がやってくる、それまでの時間と節子は思うだけだ。
***
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