義父の生きざま すべてを伝えた査察操縦士
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記事:前田三佳(ライティング実践教室)
「親に向かってその口の利き方はなんだ!」
「なんだとはなんだ!」
その日、54歳の夫と84歳になる義父は大声で言い争っていた。
いつも仲の良い親子の激しい諍いはまるでドラマのようで、私は呆然とした。
2008年、義父は認知症と診断された。
義父は「仏の前田」と呼ばれていたほど温厚で人徳のあるパイロットだったのに、猛々しく声を荒げる姿は別人のようだった。
ひと月前に脳外科で見た、萎縮した脳のCTスキャン画像。
にわかには信じ難かったその画像が脳裏をよぎった。
私たち夫婦は親の介護に直面していた。
義父は50代、民間航空のパイロットとしてある意味頂点にいた。
パイロットの中でも、その技能を審査する「査察操縦士」の長として、定年退職まで7年間「査察室長」を務めてきた。
パイロットは資格を取得した後も、副操縦士から機長への昇格審査、6ヶ月毎の定期技能審査、路線毎の路線審査に合格しなければ操縦が許されない。
華やかなイメージとは裏腹に、常に勉強を続け、フライトでは多くの乗客の命を預かり操縦するという大変な責務を背負った過酷な仕事だ。
査察室には機種毎に査察操縦士が複数名在籍し、すべてのパイロットの審査を実地で行う。
その査察操縦士を統括してきた義父は、常に穏やかで笑顔を絶やさない人だった。
そして働く義父の姿を誰よりも見てきたのは私だ。
結婚前私は義父の下、6年間査察室に勤務していた。
「室長」には「ミカちゃん」と呼ばれ、周囲から親子のようだと言われてきた。
現在はあり得ない話だが、通称エルテンと呼ばれるトライスター機に体験搭乗させてもらった事もあった。
びっしりと並んだコックピットディスプレイの計器や装置、操縦桿を流れるような動きで巧みに扱い操縦する室長の姿は本当に格好良かった。
宴会の席で「ぐっと握ってな、ぐ~っと引くんだな」とまるで長島茂雄のように感覚で私に説明する室長。そのおおらかな人柄を誰もが慕い尊敬していた。
彼は6年後、結婚相手を探していた私に自分の息子を引き合わせてくれた。
縁あって室長の息子さんと私は結婚し、私と室長は文字通り「親子」となった。
幼い頃飛行機乗りに憧れていた義父は旧制中学4年を修了すると予科練(海軍飛行予科練習生)となり、その後特攻隊に入った。
出撃すれば9割が戦死したという特攻隊員として飛行訓練に励んでいた義父の元にも
ある日出撃の命令がきた。
が、機材故障で待機を命じられて数日経ったところで終戦となったという。
すんでのところで命びろいをした義父は、それでも飛行機乗りとなる夢を捨てなかった。
その後操縦士資格を取り海上自衛隊に入隊し、昭和37年民間の航空会社に操縦士として入社した。
ダグラスDC-3、フレンドシップF-27、ボーイング737、L-1011トライスターと次々4種の飛行機に乗務してきた。
その都度厳しい訓練、審査に耐え無事故で飛行時間15,000時間を超え表彰された。
飛行機をこよなく愛し生き生きと働き続けた義父。
夫は父親を心の底から尊敬し、愛していた。
私も上司として、また家族となってからは義父として敬ってきた。
そんな義父が高血圧がきっかけで脳梗塞を発病、認知症になってしまった。
ろれつが回らなくなり脳外科で検査した時には、すでに脳が萎縮していた。
80歳を超えても姿勢がよく風邪もひかず、趣味の民謡三味線で師匠となり忙しく飛び回っていた義父。だがその異変に気づいた時、すでに病気は進行していたのだ。
「オレ、仕事辞めるよ。オヤジの世話はオレがみる」
明らかに変わりつつある父の姿に夫は動揺し、そんなことを言った。
「何言ってんの。仕事辞めちゃだめだよ! みんなで協力すればなんとかなる」
私は夫を説得し、さっそく市役所で介護認定の手続きをした。
認定を受け、介護ヘルパーさんが来ることは義父もわかってくれた。
けれどそんな事を忘れてしまったのか、義父は「知らない女が部屋に居る」と騒ぎ暴言をはいた。
私は夜仕事から帰宅した夫に、一部始終を伝えた。
「オヤジ、頼む。今日からはオレの言うことをきいてくれないか」
「親に向かってその口の利き方はなんだ!」
「なんだとはなんだ!」
父親の威厳をなおも保とうとする義父を、夫はひるまずにいさめた。
その日から父と子の立場が逆転した。
義父は息子の本気の説得に気圧されたのか、それから素直に従うようになった。
けれどだんだん子どもに還っていくその姿は切なくて堪らなかった。
やがてヘルパーさんにも慣れ、暴言を吐くことも無くなり義父は穏やかな人に戻った。
だがその一方で驚くほどのスピードで認知は進んでいた。
あれほど好きだった三味線に触れようともしない。
日がな1日テレビを見ては居眠りをするだけの生活になった。
たまにひとりで散歩に出かけると帰り道がわからなくなり、偶然通りかかった知り合いに助けられた事もあった。
ヘルパーさんや孫と手を繋いで出かけても途中で座り込んでしまう。
ある日義父は言った。
「歩こうと思っても、どうやって歩くのかわからなくなっちゃうんだよ」
病気のせいだとわかっていても、頭脳明晰で颯爽としていた義父の変化に私たち夫婦は狼狽した。
あれは12月のある日、明け方5時くらいだったろうか。
夫と私は激しく鳴る玄関チャイムで起こされた。
「おじいさまでしょうか? 外に……」
親切な方が知らせてくれ、私たちは慌てて外に出た。
まだ暗く凍えるように寒い通りに、寝間着のまま近くの電信柱にもたれて座っている義父がいた。
「オヤジ、何やってんだあ!」
夫が泣きながら叱った。
叱られて悲しそうにうなだれている義父に私は声をかけた。
「お義父さん寒かったね。お風呂に入ろう」
その頃は脚も衰え満足に階段も降りられなかった義父が、どうやって3階の自室から外へ出たのかわからない。
傍らには紙袋に裸の1万円札10枚と孫(私たちの長女)の電話番号が書かれたメモが1枚入っていた。近くに住む長女の家に行こうとしていたのかもしれない。
ずっと家で介護をするつもりできたが、もう限界だ。
私たちはこの夜明けの事件を機に義父を施設に預けようと決めた。
義父はその後、老健(介護老人保健施設)に1年、特養(特別養護老人ホーム)に1年
お世話になり最期は誤嚥性肺炎となり87歳で亡くなった。
面会に行くたびに夫の手を握り「ありがとう、ありがとう」と泣き続けた義父。
堂々たる体格をしていた義父の亡骸はすっかり痩せこけ小さかった。
ひとはこうして病に倒れ、壊れて、朽ちていくのだと義父は身をもって示してくれた。
最期まで多くのことを教えてくれた義父には感謝しかない。
まもなく義父の十三回忌だ。
先日、夫が押し入れから義父のフライトバックを出してきた。
中からは分厚いマニュアルと共に、綺麗な文字で丁寧に記された手帳が何冊も入っていた。
熱心に学び続け、飛び続けた記録がそこにはあった。
義父は地頭がいいだけではなく、ひたむきに努力の人であったことがよくわかる。
あの日コックピットで見た広い背中と大きくて温かな手を、私はずっと忘れない。
***
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