そうだ、山の音、聴きにいこう
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記事:Ranun(ライティング・ゼミ6月コース)
山へ行くことが日課になりつつある。
といっても、登山ではない。
山の麓まで歩き「山の音」を聴きにいく。
たったこれだけで、とっておきのヒーリングを味わえるということを知ったのだ。
だれもいない森の中で立ち止まり、静かに息を吸う。
そうして耳をすましてみると、聴こえてくるのは自然界からの声だ。
小川がサラサラと流れる音。
滝がザブザブ溢れ落ちる音。
木々が風に誘われサワサワ、ザワザワ。
ときどき響きわたるのは、ウグイスの鳴き声。
その美しさに魅了され、呼応するかのように鳴く野鳥たち。
集中して聴いていると、それぞれの音が舞い踊り、ハーモニーを奏で始める。
究極のヒーリングだ!
貸し切りホールで、オーケストラを聴くよりずっといいぞ!
と思える瞬間だ。
素晴らしいのはそれだけではない。
自然の中に身をおくことで、身体に溜まった悪いエネルギーが消えてなくなるというから、良いことづくしである。
先日観た動画で、ある寺の和尚さんもこう言っていた。
「一日一度は山に入ることをお勧めします」と。
悩みを抱える相談者に向けて、説かれた言葉のひとつだ。
山の中で、さらさらと風に吹かれると、
「ああ、気持ちいいなあ」
と感じるのは、神社でお祓いを受けているのと同じことで、その風が、邪気を払ってくれるそうだ。
水もそう。湧き水で手を洗えば、滞っている気が流れていくといわれている。
山へ行くと、身も心も軽くなり、清々しくなるのはそのためだろう。
山には、神々の偉大な魔力が潜んでいるのだろうか。
わたしたち人間は、今も昔も、自然界からの恩恵をうけて生かされているのだと思い知らされる。
その恵みを、毎日でもいただきたいところだが、近くに山がないという人にとっては、それも難しいと思う。
それならば、少しでも外の風に触れ、木々に目を向けながら歩くだけでもいいのではないだろうか。遠くそびえる山の息吹を感じながら……。
しかし忘れてはならないのは、山は、ネガティブなイメージも持ち合わせているということだ。
神のご計画だろうか、時として怒りもあらわに、荒れ狂い、悪魔や巨人のごとく人々に襲いかかることがある。
そうなると、人は山に近づくことさえできずに、ひるんでしまう。
命の危機さえ感じる。
人間なんて本当にちっぽけだ。
ようやく嵐が去っても、山の中は、いまだ怒りが冷めやまぬような音が、ゴーゴーと周囲を威嚇する。
あのオーケストラも、今ごろは楽曲の変更に大慌てだろうと想像する。テンポの速い、いかにも力強い曲に……。
このような山の神秘は、日本文学でも創作のモチーフとしてさまざまに扱われている。
たとえば、タイトルそのものが『山の音』となっている川端康成の長編小説は、その典型ともいえる。
60歳を超えた主人公が、ある日とつぜん大きな山の音を聞く。
風の音か? 海の音か? それとも、耳鳴りか?
と考えてみるが、どれも違っていた。
もしかすると、魔が通りかかったのではないか。
「死の告知」なのではないかと感じ、恐怖に襲われるという場面がある。
このあたりの細やかな情景描写は、文学的にも高く評価されている。改めて読んでみると、ほんの1~2ページの間で、驚くほど多彩な「山の音」が敷き詰められていた。
もうひとつ山を恐れた作品に、折口信夫の「山の音を聴きながら」( 『折口信夫全集 第二八巻』 )という短編小説がある。
こちらは、ひとり山を歩くときの心細さを綴ったもの。
だれかと歩きたいけれど、気持ちが遠い人なら落ち着かないので、気持ちが近い人と、心をひとつにしながら寂しさを分け合いたい、というようなことが書かれていた。
この気持ち、だれしも共感できるのではないだろうか。
私自身も、たったひとりで登山をした時のことを思い出した。
早朝で、人っ子ひとりいず、すれ違う人もいない。
最初は少しも気にとめなかったが、そのうち「クマに注意」「マムシに注意」「スズメバチに注意」などといった看板を目にするようになった。
大丈夫か、わたし……。
と、じわじわと不安が襲ってきた。
電波も途絶え、スマホも使えない。
もしここでクマに襲われたら、私は誰にも知られず、跡形もなく消えてしまうのだろうか。
家族の顔が浮かんだ。
引き返そうかとも考えたが、危険を伴うのは同じこと。もう登るしかないと思い、駆け足、急ぎ足で、汗だくになりながら降りてきたという、ちょっと残念な登山経験だった。
著者がいうように、気持ちが近い人と一緒だったら、こんな思いをせずにすんだかもしれない。
思うに、山に対するイメージというのは、その時々の自分の心を映し出しているのではないだろうか。
明るい気持ちの時は、山の雄大さに酔いしれ、すべての物や音が神聖なものに思えてくる。
反対に落ち込んでいるときや、不安があるときなどは、山が怖いと感じだろうし、ガサガサと不気味な音を聞いては、悪魔が潜んでいるでは? なんて感じてしまうかもしれない。
『山の音』の主人公がそうだったように……。
山は生きているし、四季折々、日々変化する。
日々変化するのは己の心もおんなじだ。
だからこそ、今日の山はどんなふうに見えるだろう、
どんな音を奏でているだろう、ということを確かめたくなる。
それは、今日の私がどんな気分かを知ることでもある。
そのために、今日もせっせと山に向かう。
そうだ、山の音、聴きにいこう。
***
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