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百日紅(サルスベリ)は、原爆の花


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記事:松本信子(ライティング・ゼミ6月コース)
 
 
今朝、マンションのベランダに百日紅の花が落ちていた。
鮮やかなピンク色の花びらが、ベランダの灰色に映えて、とてもきれいだった。
上の階の人が植えた鉢植えの木から落ちてきたものらしい。
 
もうすぐ8月がやってくる。
昔、長崎に住んでいた頃、原爆の投下された8月9日の昼前になると、1分間ばかり、けたたましくサイレンが鳴り響く時間があった。
その時間は、割れんばかりの蝉の声さえ、不思議に空のかなたに吸い込まれるように聞こえなくなくなり、街中が静寂に包まれていたことを覚えている。
普段、息をひそめている目に見えないたくさんの魂が、熱く焼かれた地面の下から吹き上がってくる気配を感じる一瞬だった。
長崎では、原爆がまだ息づいているのだ。
私は戦争を知らない。
 
祖母は長崎の裕福な貿易商に、明治38年、西暦1905年に生まれた。
日露戦争という、今では教科書でしか知らない戦争があった時代である。
自宅は当時、最先端の洋館で、地元でも有名な大邸宅だったらしい。
お屋敷内には広々とした果樹園が広がり、お手伝いの人や家庭教師に囲まれていたそうだ。
しかし、そんな瀟洒な暮らしも、祖母の父が危ない商売に手を出したことが原因で、破綻を迎える。
財産を全て失い、家族もばらばらになり、毎日を生きるためだけの働きづめの生活となった。
 
祖母は成人後、結婚し、子供が3人生まれた。(3人目の子供が私の母だ)
祖母の夫は宮大工だった。
瀬戸内海の大島という所で、棟梁を務めたくらい、腕のいい職人だったらしい。
大工には日本酒がつきもので毎日お神酒が振る舞われる。
それが原因で、祖父は体を悪くし、若くして他界。
祖母は、幼い子供3人を1人で育てることとなった。
その当時の女性が働く環境は、劣悪なものだと聞く。
今でさえ女性が働く環境は難しい。
女性蔑視の強かった時代で、たった一人で幼い子供たちを育てる苦労は並大抵でなかったことは、容易に想像がつく。
そんな中でも祖母は、懸命に働き子どもたちを育てた。
時代は第二次世界大戦の末期だった。
軍港として狙われやすい長崎を離れ、祖母は、子供を連れて、100kmほど離れたところに疎開したそうだ。
 
母は、その日は、登校日だったという。
学校からの帰り道、「アツい、アツい」と言いながら、長い坂を上り切った後、いつものように後ろを振り返った。
遠くまで見渡せる見晴らしのよい高台は強い風が吹く、気持ちのよい場所だったという。
空には、高い青空に白い雲がのんびり広がっていた。
と。その瞬間、とても高いところに、白くきらきらとした光が見えた。
何だろう。
打ち上げ花火のように、その光がなくなったと思った瞬間、真っ黒い雲がすさまじい勢いで広がりだすのが見えた。
それがどんどん大きく風船のように異様に膨らんでいった。
音も衝撃波もなく、大きな得体のしれない絵をみているようだった。
その雲はいつまでたっても動かず、空中に漂い、そこだけを黒々と覆っていた。
自宅の周りには近所の人が群がり「新型爆弾が長崎に落ちたらしい」とひそひそと話していた。
ラジオからは、混乱した情報しか流れてこなかった。
ただ確かなことは、長崎の方向から黒い影をまとった多くの人が流れてくることだった。
最初は人とわからないくらいの黒焦げの物体にかろうじて手や足らしきものがついていることで人間と判別できた。
皮膚は焼けただれ、皮膚がべろりと裏返り、それは夏の暑さですぐに腐敗し異臭を放っていた。
歩く途中で倒れて動かなくなる人がほとんどだった。
ゴミのように人の形をしたものがたくさん転がって、積み重なっていった。
異臭は、いつまでもいつまでも街中に充満していた。
暫くすると、『新型爆弾は、原爆』という名前であること。
そして、その爆弾は、祖母の生家である、浦上の邸宅のあった場所の真上で、炸裂したということが分かった。
祖母や母は、生き残れた安心感と同時に、持ちこたえられないくらいの絶望を抱えて、終戦の日を迎えた。
 
百日紅の木をご存じだろうか。
すべすべとした木の肌をもち、真夏に美しい鮮やかな花を咲かせる木である。
この頃から長崎では、『百日紅は原爆の花』と呼ぶようになったと聞く。
焼けただれて赤黒く縮れた皮膚が、百日紅の花びらの鮮やかな縮れた花びらになり。
剥がれた皮膚のあとが何もない、つるりとした木の幹となり。
長崎では今年も強烈な太陽のもとで、たくさんの百日紅の花が咲き誇っている。
祖母の父が破産しなかったら、祖母はきっと爆心地の浦上で死んでいた。
人間の影さえ残らないほどに真っ黒になって。
 
終戦後、今度は金銭的な余裕がないため、大学を諦めた母の姉が、就職先で結核にかかってしまった。
皆の働く給料を持ち合わせて治療を受けても回復できずに亡くなった。
祖母は、この時ばかりは廃人のようになったらしい。
「貧しくて大学に進学させなかったばかりに、就職先で結核をうつされた。自分が殺した」と、ぽつりと言ったそうだ。
早くに夫を亡くし、希望を託した子供が亡くなるというのは、本当に無念だったことだろう。
祖母は、原爆からは逃れることができた。
それでも歩んだ道はとても険しい。
 
私は毎年8月9日になると、原爆を逃れた祖母と母と、結核で亡くなった、会ったこともない母の姉を思い出す。
そして彼らが歩んだ、不屈の心と力強さを考える。
それは、私自身が、彼らのように、ひたむきに毎日を生きているかと、自問自答する日にもなっている。
 
 
 
 
***
 
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2024-07-18 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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